見つけてしまった
住所は、ドメインの登録データに残っていた。
WHOISのデータベースでドメイン登録者の情報を引くのは、テックライターの基本動作だ。瀬川和彦は個人でサイトを運営したエンジニアで、ドメイン取得時に自宅住所をそのまま入力していた。プライバシー保護の代行サービスを使っていない。個人開発者にはよくあることで、その1点が画面の中にいた制作者を現実の地図上に引き出した。
鹿島さんに連絡を入れた。制作者の自宅が特定できたこと、訪問取材をしたいこと。返信は30分後で、「行ってみてください。ただし住人不在の物件に押しかけるのは取材として微妙なので、管理者に筋を通すこと」という1文だけが返ってきた。
駅の改札を出て、20分歩くことになった。最初の10分は幹線道路沿いで、チェーンのドラッグストアとコインランドリーが等間隔に並んでいる。信号をふたつ渡ると道幅が半分になり、建物が古くなって、ブロック塀の角が欠けている場所も出てきた。排水溝のふたが1枚ずれて枯葉がはさまっている。住宅街に入ると日当たりが悪くなり、コートのポケットに手を入れた。11月の風が冷たい。取材ノートの角がポケットの中で指に当たった。
画面の中にいた人間の住んでいた場所に、今から行く。サイトのソースコードやノートのメモでは分からなかったものが見えるかもしれないし、何も見えないかもしれない。取材は行ってみないと分からない。
築30年前後の木造アパートが道の奥に見えた。2階建てで外階段の手すりが錆びていて、触れると錆の粉が指先について茶色い粉が皮膚の筋に入り込んだ。郵便受けが4つ並んでいる。2号室のところだけチラシが溢れていた。宅配ピザ、不動産、水回りトラブル——1ヶ月半分の広告が、受け取り手のいない箱の中で圧縮されている。
1階の角部屋に「管理人」の札がかかっていて、インターホンを押すと60代くらいの女性が出てきた。エプロンの前面に小麦粉がついている。
「すみません、少しお話を伺えますか。2号室の瀬川さんのことで」
「記者さん?」
「フリーのライターです。こちらの編集者の名刺なんですが」
鹿島さんの名刺を差し出した。取材用に何枚か預かっている。管理人さんはそれを受け取って、裏表をひっくり返しながら眺めている。
「テレビの人と新聞の人は来たけど、ライターさんは初めてね」
「瀬川さんが作ったサイトについて調べています。ご家族からの依頼ではなくて、あくまで取材としてなんですが」
「お父さんからは何も連絡ないの。家賃が2ヶ月分未払いで、保証人のお父さんに連絡しても『もう少し待ってくれ』の1点張り。正直なところ困ってるのよ」
管理人さんはため息をつきながら、小麦粉のついたエプロンの裾を手で払った。
「警察が一度来て、事件性なしって言って帰ったっきり。テレビも新聞も、1回来て写真撮ってそれっきり。荷物はそのままだし、お父さんは動かないし。次の入居者も決められない」
「お部屋の中は見せていただけますか」
「本当はだめなんだけどね」
管理人さんは私の顔と名刺を交互に見ている。
「荷物には触らないでもらえる? それだけ約束してくれるなら」
「分かりました。写真だけ撮らせてください」
管理人さんはかぎを持って階段を上がった。外階段を踏むと靴底を通して金属の振動が伝わってくる。2階の通路は風が抜けて下より一段冷たかった。
2号室のドアが開く。
最初に来たのは匂いだった。古い煙草の匂いが閉め切った部屋に染み込んでいて、換気扇を回していない期間の長さが匂いの濃さで分かる。それと混じり合うように、甘くて酸っぱい匂いが漂っている。ゴミを出していない。
「窓、開けようか」
「このままで大丈夫です」
匂いは情報だ。消してしまうと戻らない。管理人さんは少し眉をひそめたが、私が靴を脱いで上がるのを見て、玄関の外で待つことにしたようだった。
6畳のワンルームだった。暖房が入っていない11月の部屋は空気ごと冷えていて、吐く息がかすかに白くなる。カーテンが閉まっていて薄い光が布を透かして入ってくるので、部屋全体がグレーがかった薄暗さの中にある。
壁の向こうからテレビの音が微かに聞こえていた。隣室の生活音だ。この音は、瀬川がここにいた頃にも同じように壁を通り抜けていたはずだった。
玄関の靴箱の上にポケットWi-Fiが置いてあって、ランプは消えている。契約が切れたのか、充電が切れたのか。靴は3足で、スニーカーの片方は底がすり減っていてもう片方はまだ新しく、革靴は箱に入ったまま紙が詰められていた。面接か冠婚葬祭のために買って、使う日が来なかったのだろう。
デスクにはモニターが2台並んでいて、MacBookが閉じたまま置いてある。充電ケーブルが差しっぱなしで、アダプターの緑のランプだけが光っていた。電気は止められていない。誰もいない部屋で、電源アダプターだけが1ヶ月半にわたって仕事を続けている。
椅子がデスクから引かれた状態で止まっていた。立ち上がったときの角度のままで、背もたれに灰色のパーカーがかかっていて襟ぐりが伸びている。デスクの下にエナジードリンクの空き缶が3本転がっていた。自分と同じ銘柄だ。ゴミ袋の口が縛られないまま開いていて、コンビニ弁当の容器がふたを閉じたまま捨てられている。クローゼットの横に段ボール箱がふたつ積まれていた。荷物に触らない約束なので素通りしたが、上の箱のガムテープの端がめくれかけているのが目の隅に残った。
デスクの右側にA5の方眼ノートが1冊ある。開いた。荷物には触らないと言ったが、ノートを開くくらいは許されるだろうと自分に言い聞かせている。最初のページには日付と「サイト構成」の見出しがあって、手書きのサイトマップがツリー形式で描かれていた。画面で見たあのサイトの構造と一致する。
ページをめくった。ファイルごとのメモが走り書きで並んでいる。「001_receipt: エントリーポイント。参加者が最初に開くファイル」「010_notebook: 核心に近い。序盤で出しすぎない」。ゲームの設計意図が記録されていて、ファイルの通し番号の順番に意味があると感じていたのは正しかったことが分かった。
スマホのカメラでノートのページを撮影していった。管理人さんに聞こえないようシャッター音を消す設定に切り替えたのは、荷物に触らないという約束をすでに半分破っている自覚があったからだ。
途中で筆跡が変わった。文字が大きくなり、ペンの走りが荒い。
「見つけてしまった。これは作り話にできない」
一行だけ書いて、次のページに飛んでいる。間のページは白紙だった。
デスクの引き出しに手を伸ばしかけて、止まった。管理人さんの視線が玄関の向こうにある。引き出しの取っ手に指をかけて静かに引くと、USBメモリが3本とケーブル類、付箋の束が入っていた。引き出しの奥にクリアファイルがひとつある。
紙の束が入っていた。エクセルで作った表をA4横向きで印刷したもので、列は「ハンドルネーム」「初アクセス日」「最終アクセス日」「累計アクセス数」「最深到達ファイル」となっている。14人分のデータが並んでいた。
参加者のアクセスログだ。
瀬川はサイトに解析タグを埋め込んで、参加者ひとりひとりの行動を追っていた。Discordで参加者同士が議論するのを、この紙を手にしながら見ていたのだろう。
クリアファイルの中にもう1枚、写真をプリントしたものが入っていた。A4に引き伸ばされた住宅街の遠景で、2階建ての住宅と電柱と自転車が写っている。どこにでもある郊外の1角だが、午後の光が斜めに差していて影が長く、秋か冬の午後だろうと見当がついた。
写真のどこにも人は写っていない。ただ、構図が気になった。道路の奥の1点に焦点が合っていて、風景を撮ったのではなく何かを撮ろうとしているように見える。カメラを持った人間がこの場所に立ってあの方角を見ていた、と読み取れるような構図だった。風景写真にしては意志がありすぎる。誰かが撮った感じがする——と思ったが、それ以上は判断材料がなかった。
取材ノートに「住宅街の遠景写真。印刷物。撮影意図不明。サイトのファイルに該当なし」と書いてから、写真もスマホで撮ってクリアファイルに戻した。
ベランダ側の灰皿には吸い殻は残っていなかったが、灰の跡が円形に残っている。外を見ると駐輪場と隣家の屋根の向こうに3階建てのマンションがあって、こちら側を向いた窓がいくつか見えた。あの窓からなら、この部屋のベランダが見えるだろう。
キッチンに移ると、シンクにマグカップがひとつ残されていて底にコーヒーの跡がついていた。水を出してみると蛇口は動く。水道も止められていない。水の音が小さなキッチンに反響して、1ヶ月半にわたって何の音もしなかった場所に自分の立てた水音が妙に大きく聞こえた。蛇口を閉めた後の沈黙が、それまでの沈黙より深く感じられる。
冷蔵庫を開けると、ペットボトルの水が1本と賞味期限切れのヨーグルトがひとつあるだけで、他は空だった。コンプレッサーが低く唸っている。中身がほとんどないのに、電気代だけを使い続けている冷蔵庫の音を、瀬川も聞いていたはずだ。
管理人さんに礼を言って外に出た。
「管理人さん、瀬川さんと話したことはありますか」
「ゴミ出しの日にちょっとだけ。静かな人だったよ。夜遅くまで電気ついてたけど、音は出さなかった。理想的だったの。こうなるまでは」
「いなくなる前に何か変わった様子は」
「顔色は悪くなったかな。元から白い人だったけど。あと、最後の頃は夜中にインターホンが鳴ることがあったの」
管理人さんの手がエプロンの裾をつかんだ。さっきまで小麦粉を払っていた手が、動きを変えている。
「インターホン?」
「うちのじゃなくて、2階のが鳴ってるのが聞こえるの。夜中の1時とか2時に。でもモニター見ても誰もいなかったって、瀬川さん言ってた。あのインターホン、映像ないタイプだからたしかめることもできないんだけどね」
管理人さんは玄関のドアを閉めた。
外階段の下から2号室を見上げると、カーテンの隙間から充電アダプターの緑のランプがかすかに見える。あの部屋に1ヶ月半、住人は戻らなかった。煙草の匂いと食べ残しの匂いと冷えた空気が、ドアの向こうで混ざり合っているだろう。
駅までの帰り道を歩いた。行きには気がつかなかった自販機の光が暗くなり始めた路地の中でやけに目立っている。後ろで足音がした気がして振り返ったが、誰もいなかった。ブロック塀の影が街灯で伸びているだけだ。缶コーヒーを買った。温かい缶を手のひらで包むと、瀬川の部屋のフローリングの冷たさがまだ足の裏に残っている気がした。
ノートに「瀬川和彦の部屋」と見出しを書いて、覚えているものを列挙していく。モニター2台、方眼ノート、USBメモリ3本、参加者ログ、住宅街の写真、エナジードリンクの缶、コンビニ弁当の容器、革靴の箱、煙草の匂い、マグカップのコーヒー跡、賞味期限切れのヨーグルト。
◇
瀬川の元同僚に連絡が取れたのはその日の夕方だった。
SNSの相互フォローを辿って、技術カンファレンスの集合写真に瀬川と一緒に写っているアカウントを見つけてDMを送った。返信が来るまで6時間かかっている。
「取材ということでいいんですよね。名前は出さないでもらえますか」
その人——仮にAさんとする——は瀬川がいたスタートアップで2年間同じチームにいたバックエンドエンジニアだ。瀬川が辞めた後も月に一度くらい連絡を取っていたという。
通話は30分弱で終わる。声は落ち着いているものの、ひとつひとつの言葉を吟味してから口にしている感じだ。
「瀬川って、会社にいた頃は普通のエンジニアでしたよ。真面目で、コードが綺麗で、締切は守る。どのチームにもいるタイプです」
「辞めたきっかけは」
「はっきりは聞いてないですけど、『自分が作りたいものと仕事が合わなくなった』とは言ってました。会社のコードって誰が書いても同じ品質にするしくみがあるじゃないですか。彼はそれが嫌だったんだと思います」
誰が書いても同じ品質にするしくみ——聞き覚えのある話だった。
「辞めてからは」
「最初は受託やってたみたいですけど、半年前から個人開発だけになって。ゲーム作ってるって言ってて、最初は趣味だと思ったんです」
「趣味じゃなくなった」
「はい。会うたびに痩せていくし、寝てないし。でも楽しそうだったんですよ、最初は。『すごいものを見つけた』って」
「見つけた。作った、じゃなくて」
「そうなんです。見つけた、って言ったんです。変だなとは思ったんですけど、クリエイターってそういう言い方するかなと」
Aさんの声がイヤホン越しに揺れている。
すごいものを見つけた。作ったのではなく、見つけた。あのノートの走り書きと同じ言い回しだ。
「最後に直接会ったのはいつですか」
「2ヶ月くらい前です。駅前のカフェで。30分くらい話して、ほとんど瀬川が一方的に喋ってました。ゲームの設計の話。どうやったら参加者に体験を届けられるか。声が大きくなったり小さくなったりして、周りの席の人が何回か振り向いてたんですけど、本人は気がついてなかったですね」
「何か具体的に記憶に残っている言葉は」
「『この子のことを、知らない人に知ってもらいたい』って言ったんです。『この子』って。最初は作品内のキャラクターの話だと思ったんですけど、瀬川は『子供』って言わなかった。『この子』って」
瀬川はゲームの中の存在を「この子」と呼んでいた。
「最後に連絡を取ったのは」
「失踪の5日前です。LINEで『もうすぐ終わる』って。私は開発が完了するんだと思ったんですけど」
Aさんの声が一瞬途切れた。
「今になって思うと、何が終わるのか聞いておけばよかったです」
通話を切った後、椅子の背もたれに体を預けて天井を見た。
ノートにAさんの証言を整理していく。瀬川は「見つけた」と言い、ノートにも「見つけてしまった」と書いていた。もしその言葉が文字通りの意味だとすれば、レシートも連絡帳も給食袋も、制作したのではなくどこかで見つけたことになる。Discordで何度か出ていた「リアルかフィクションか」の議論が頭をよぎる。紙の繊維、インクの薄れ方、布地の擦り切れ——。
仮説は書き留めたが、根拠が足りない。Discordの議論にもAさんの話にも、遺留品が実物であるという決定的な証拠はまだない。テックライターの仕事は、裏が取れるまで仮説を公にしないことだ。
それでも、Aさんが言った「この子」という言葉が頭から離れない。瀬川は遺留品の持ち主を「この子」と呼んでいた——キャラクターではなく、実在する人間に使う呼び方で。
鹿島さんにメールを送った。「制作者の自宅を訪問し、元同僚にも話を聞きました。当初の構成案より踏み込んだ内容になりそうです」。返信は2時間後で3行だけ。「了解です。構成案が固まったら見せてください。失踪案件ですから、取材先との距離感は気をつけて」。鹿島さんらしい一言だった。踏み込みすぎるなという意味だろう。
そのままアパートで撮った写真をスマホで開いた。参加者のアクセスログだ。14人分のハンドルネームと日付が並んでいる。
このデータが何を意味するのか、まだ分からない。ただ、瀬川が参加者の行動をひとりずつ紙に印刷して手元に置いていたという事実が引っかかっている。制作者がプレイヤーの動きをここまで丹念に追跡する理由は何だろう。ゲームの改善のためなのか、それとも——。
ノートに書いた。「P: 参加者アクセスログ(紙)。14人分。次回精査」
自分の部屋が静かだった。隣の部屋の物音も、通りの車の音も聞こえているはずなのに、瀬川のアパートから持ち帰った沈黙がまだ耳の奥に残っている。取材対象の部屋の空気を、ここまで引きずって帰ってきている。
デスクの隅のうまい棒は、まだそこにあった。
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