欠番
窓を開けた。部屋の空気が澱んでいる。何日換気していなかったか思い出せない。冷たい風が入ってきて、腕の産毛が立った。
窓を閉めて、MacBookの前に戻った。Discordにもう1件、書き込みが増えていた。
「この子さ、うまい棒だけの日でも、コンビニには行くんだよね。行かないって選択肢もあるのに。何も買わないで帰ることもできるのに。10円出して、うまい棒を1本受け取って、帰る。そのルーティンだけは守ってる。なんかそれ、分かる気がする」
私も分かる気がした。白い企画書の前に座り続けた夜のことを思い出している。何も書けなくても、MacBookは開いていた。画面を閉じたら本当に何もしなかった1日になるから、だからMacBookを開いておく——それがまだやれるという証拠だった。
元気な日は友達と遊んで、おやつと文房具を買って、連絡帳に今日の出来事を3行書く。そうでもない日は、コンビニに寄ってうまい棒を1本だけ買って、「きょうはふつうでした」と書く。17年前の子供の、普通の日と普通ではない日を私は画面越しに見ている。
スマホの画面が光っている。真奈からLINEが来ていた。
<静ーーー!新しいカフェできた!行こ!>
通知を見て、そのまま伏せた。後で返す。今はまだ、この子のそばにいたかった。
◇
コーヒーの湯気がMacBookの画面に薄く曇りをつけた。みっつ目のマグカップを棚から出したのは、シンクに並んだふたつを見て洗おうかと思ったものの、まず一口飲んでからにしようと思ってデスクに座ったからで、結局洗わないまま今に至っている。コーヒーの苦みが口に残っているうちに、もうブラウザが開いていた。
ファイルは全部見た。Discordも1通り読んでいる。次にやるべきことは情報の構造化だ。スプレッドシートを新規作成して、列を作った。
ファイル番号|ファイル名|種類|日付|内容の要約
43個のファイルをひとつずつ入力していく。種類ごとに色分けして、レシートを青、連絡帳を緑、写真を黄色、給食袋を赤、アンケートを紫に塗り分けると、青が圧倒的に多かった。この子の日常は、買い物の記録として最も密に残されている。レシートの中身は2種類に分かれた。うまい棒やノートを買う子供の小遣い買いと、食パン・水・カイロといった食料品の買い出し。メモ類のスキャンも数枚あって、電話の伝言らしい走り書き——「預けている」「元気にしている」——や、買い物リストらしい品目の羅列が読み取れた。
1時間半かけて全ファイルを登録していく。途中で背中が痛くなり、床に座ってMacBookを膝の上に載せたが、フローリングの冷たさが脚の裏に沁みるのも気にならないほど手は止まらなかった。
最後のファイルで手が止まった。`043_memo_scan_0612`。開くとメモ用紙の切れ端をスキャンした画像で、手書きの文字が2語だけ読み取れた。「キタハシ 1740」。他のファイルにはどれも文脈がある。レシートには品目があり、連絡帳には日付があり、写真には被写体がある。これだけが、何の注釈もなく2語だけ置かれている。備考欄に「内容不明」と入力して、次の作業に進んだ。
指先が乾いている。トラックパッドの滑りが悪くなっていた。
ソートをかけた。日付順、種類順、番号順——どの切り口でも全体が見渡せるようになっている。テックライターの基本技術であるファイル整理と取材ノートの管理が、このゲームの遊び方と噛み合っていて、違うのはクライアントがいないことと締め切りがないことだけだ。仕事とは言えない。でも仕事より手が動いている。
そのとき、写真のファイルに目が止まった。「photo_page」というプレフィックスの後にページ番号がついていて、写真台紙のページを1枚ずつスキャンしたものがphoto_page_001からphoto_page_015まで並んでいる。
1ページ目は毛布に包まれた赤ちゃんの写真で、2ページ目は初めて立った瞬間らしくテーブルの端をつかんでいる。3ページ目が幼稚園の入園式で、ページが進むごとに子供が成長していった。5ページ目は3の記念撮影で、7ページ目には公園で家族4人がベンチに並んでいる。9ページ目が運動会、12ページ目は学芸会の集合写真だった。
すべての写真で顔にぼかしがかかっているが、身長の変化や服装の移り変わりで同じ子供が成長していく過程は分かる。普通の家族の記録だ。ただ、10ページ目以降の写真をスクロールしていて、ぼかしの下の人影がみっつしかない気がした。7ページ目は4人だったのに。画質のせいかもしれない。
スプレッドシートの写真の行だけをフィルターした。黄色の行が並ぶ。
001、002、003、004、005、006、007。
009、010、011、012、013、014、015。
008がなかった。
指がキーボードの上で止まった。スクロールを戻して一行ずつ確認したが、やはりphoto_page_008は1覧のどこにも見当たらない。ファイル1覧にphoto_page_008は存在しない。ブラウザのアドレスバーにURLを直接入力してみたが、404でページが見つからなかった。
15ページ中、8ページ目だけが欠けている。
前後のページを開いた。7ページ目は公園での家族写真で4人がベンチに並んでいて、9ページ目は運動会の日に校庭のトラックを走る子供たちが写っている。どちらも顔にぼかしがかかっているが、7ページ目と9ページ目の間には時間的にも空白があった。7ページ目の服装は春から初夏のもので、9ページ目は長袖の秋だった。その間の数ヶ月に何があったのか。
Discordを検索した。「page_008」でサーバー内を検索した。2件ヒットする。
1件目は2ヶ月前だ。
「写真の8ページ目ってなくない? バグ?」
返信がついている。
「確かにない。他は全部あるのに。不思議」
会話はそれきりだ。2件目を開く。1ヶ月半前に#雑談に投稿されていて、投稿者はレシート分析で精度の高い書き込みをしていたあの人物だった。タイムスタンプは深夜2時を指している。
「page_008の件、もう少し調べた。Wayback Machineでもアーカイブなし。そもそも一度も公開されてないみたい」
その下に、同じ人物の続けた書き込みがあった。
「それと、これ関係あるか分からないんだけど。昔このゲームに参加してた人何人かにDMしてみたんだよね。返事が来ない。5人に送って全員。プロフ見ると最終ログインが数ヶ月前で止まってて、Xの方もアカウントはあるけど投稿が止まってる」
返信はゼロだった。
その下に書き込みはない。リアクションもゼロだ。深夜2時の投稿だから単にタイミングが悪くて流れただけかもしれない。でも、いいねがゼロというのが引っかかった。他の分析投稿には必ずひとつかふたつリアクションがつくのに、この書き込みだけが無反応のまま沈んでいる。
投稿者のプロフィールを開いた。最終ログインは3週間前で、それ以降このサーバーへの書き込みはない。
#レシート分析のチャンネルに戻って、この人物の過去の投稿をさかのぼった。レシートの品目リスト、カテゴリ分け、購入パターンの統計——どれも精度が高く、間隔も安定していた。週に3件のペースで書き込んでいたのが、ある日を境にぱたりと止まっている。最後の投稿が、あの深夜の書き込みだった。
コーヒーが冷めていた。マグカップを持ち上げると底が取材ノートの表紙に張りついていて、はがすときに紙の繊維がかすかに毛羽立つ。
この人は、消えた参加者に気がついていた。連絡を取ろうとして返事が来なくて、その報告をDiscordに書いている。そして自分もいなくなった。
偶然だろう。Discordに飽きたのかもしれないし、別のコミュニティに移っただけかもしれない。テックライターなら根拠のない推測は書かないものだ。根拠がなければ記録もしない。
ただ、スプレッドシートの端に1列足した。「最終投稿日」という見出しをつけて、アクティブだった参加者の名前と最後に書き込みがあった日付を並べていく。これは取材メモだ。気になったことを記録しておくだけのことで、それ以上の意味はない。
photo_page_008の欠番。
瀬川和彦は43個のファイルに通し番号を振り、参加者がこの子の断片に出会う順番を設計していた人間だ。写真台紙も1ページずつ丁寧にスキャンして、ぼかしをかけて、番号をつけてアップロードしている。15ページ中14ページをアップロードしておいて、1ページだけ忘れるとは考えにくい。
8ページ目に何が写っていたのだろう。あるいは何が写っていたから、瀬川はあえてそのページだけを公開しなかったのか。
スプレッドシートの写真の列に赤字で「欠番」と入力して、備考欄に「意図的な除外の可能性」と書き加えた。その下の行には、深夜のDiscordで消えた参加者に気がついていた人物の名前と最終ログイン日が赤字で並んでいる。
ふたつの赤字が、スプレッドシートの上で隣り合っていた。
デスクの隅のうまい棒が目に入った。昨日コンビニで買ったまままだ開けていなくて、袋越しにスナック菓子の匂いがかすかにする。
窓の外が暗くなり始めていた。午後5時を過ぎた。5日間、同じ椅子に座って同じ画面を見て同じコーヒーを飲んでいる。変わったのは画面の中身だけで、白い企画書がスプレッドシートの青と緑と黄色に置き換わった。手は動いている。頭も止まっていない。
ふとスプレッドシートの写真台紙の行に目が戻った。15行のうち14行が黄色に塗られていて、8行目だけが空白のまま残されている。たった1枚。続く番号は全部ある。
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