あの子の給食袋
歩いていた。
足がコンクリートの上にあった。スニーカーの底を通して地面の冷たさが足裏に届いている。パジャマの裾がコートの下でめくれて、脛に夜明け前の冷気が当たっていた。
どこに向かっているのか、自分でもつかめなかった。足が勝手に進んでいた。マンションの階段を降りて、エントランスを出て、歩いた。信号が赤だった。渡った。車はなかった。道の向こうに自動販売機の光が浮いていて、缶の並びが白く光っている。それ以外の光は街灯だけだった。
空はまだ暗い。街灯の光が歩道に丸く落ちていて、自分の影が足元で伸びたり縮んだりしている。11月の空気が顔を刺していた。首筋が縮んで、コートの襟を立てた。手をポケットに入れると、左のポケットに布があった。指先が布に触れた。そのまま歩いた。
交差点を渡った。もうひとつ渡った。信号を見ていなかった。車がいなかった。街灯の光の輪をひとつ通り過ぎて、暗い道を歩いて、また次の光の輪に入った。スニーカーが乾いた音を立てている。踵が地面に当たるたびに、振動が膝に伝わってくる。パジャマにコート1枚では足りない寒さだった。でも戻ろうとは思わなかった。
角を曲がると、風が変わった。水の匂いが混じっている。川沿いの道に出ていた。暗い水面が左手に広がっている。街灯の間隔が広くなって、足元が暗い。川面からの冷気は街路の空気より湿っていて、肌に貼りつくような冷たさだった。コートの裾が風で脚にまとわりついた。川沿いの遊歩道の手すりが暗がりの中に続いている。手すりには夜露が降りていて、触れたら冷たいだろうと思ったけれど、触れなかった。
足がどこに向かっているのか、頭より先に足が知っていた。
橋が見えた。
北橋。欄干の向こうに街灯が1本立っていて、その光がコンクリートの路面を白く照らしている。前に来たことがある。調査で来た。ネコの横顔を見に来た。あのときは渉が隣にいて、西日が当たっていて、対岸の屋根と電柱が影絵を作っていた。17時40分。メモに残した数字だった。
あのときは調査だった。
今は違う。何をしに来たのか、答えが出ない。足が止まったのがここだった。
橋の上に立った。欄干に手をついた。コンクリートのひび割れが掌に食い込んだ。冷たかった。手を離さなかった。川の匂いが下から上がってくる。水の音は聞こえなかった。暗い川面が街灯の光を小さく反射しているだけだった。橋の上には誰もいなかった。
東の空の端がわずかに白い。日の出はまだ来ていない。
右のポケットからスマートフォンを出した。
手島の電話番号は覚えている。11桁の数字が頭の中にある。紙がなくても暗唱できる。
画面に触れなかった。かけたら消す係になる。かけなければ消えるかもしれない。
ポケットに戻した。
◇
ここに美澄が立っていた。
同じ欄干に手をついた。同じひび割れが、小さな掌に食い込んだ。うわばきの薄い底が、このコンクリートの上にあった。
夕方だった。美澄は夕方に来た。私は夜明け前にいる。違う光。同じ場所。
——ドアが開きました。
川面に風が走った。欄干のコンクリートが指先に冷たい。空はまだ暗い。東の端だけが白み始めている。
美澄は離れから出た。12日ぶりだった。かぎがかかっていなかった。忘れたのか、開けたのか。ドアの外にからっぽのビニール袋がひとつ落ちていた。風に飛ばされて、敷地の隅に引っかかっていた。
——空がひろかったです。てんじょうがなくて、空がありました。
風が吹いた。首筋を通り抜けていった。コートの下のパジャマが背中に張りついた。
美澄は外に出た。11月の外の空気は離れの中よりもっと冷たかった。でも広かった。天井がなくて、空があった。空はうす曇りだった。風が吹いて、髪が顔にかかった。風の匂いは土と枯れ葉の匂いだった。離れの中の、閉じた空気のにおいとはぜんぜんちがった。体がふるえていた。寒いからなのか、おなかがすいているからなのか、分からなかった。
——おなかがすいているのか、こわいのか、わからなくなっていました。
欄干に両手をついた。指先が冷えている。コンクリートの表面がざらついていて、ひび割れの縁が指の腹に食い込んでいる。
食パンが来なくなっていた。水はペットボトルの底に少しだけ残っていた。カイロはぜんぶ冷たくなった。天井の蜘蛛がいなくなって、巣もなくなって、あの部屋で美澄のほかに生きているものがなくなっていた。
美澄は斜面の落ち葉の上を滑りながら降りた。木の幹をつかんで体を支えた。木の皮がざらざらして、指先がひりひりした。膝が笑っていた。何日も座っていたから。壁に手をついてすこし立っていた。光がまぶしかった。空がこんなに広いことを、忘れていた。
——ひざがわらって、しゃがみこみそうになりました。
私の足元にコンクリートの欄干がある。美澄の足元にも同じ欄干があった。14年の距離がある。光の角度が違う。美澄には夕日が当たっていた。私には夜明け前の暗さがある。
——うらみちをおりました。橋が見えました。
橋のたもとに公衆電話があることを美澄は知っていた。母と買い物に行ったときに見た緑の電話ボックス。母が手を引いて橋を渡った。あたたかくて、すこしかさかさした手だった。そのときの母は美澄の顔を見てわらっていた。
先生に電話をかけたかった。やまだ先生。アンケートのとき「だいじょうぶ、ちゃんとするから」と言った先生。先生の声がききたかった。ポケットに10円玉が1枚あった。うわばきと一緒に、体操着のポケットに入っていたのを見つけた。10円玉1枚で公衆電話からかけられる。先生の番号を覚えていた。連絡帳の裏表紙に書いてあった。
——夕方でした。西日がさしていました。
美澄はこの橋の北の端に立って、西を向いた。対岸の屋根と電柱と電線が、夕日の中でかげになっていた。屋根が耳になって、電線がひげになって、窓の影が目になる。ネコの横顔。
——まーちゃんに見せたかったです。うそみたいなほんとうのふうけい。
17時40分くらいだった。夕日のネコが見えるいちばんいい時間。美澄はその時間を知っていた。何度もここに立って、ひとりでこの風景を見ていたから。
和彦のことを思った。和彦もここに来たかったはずだった。サイトを作った。美澄のレシートと連絡帳と給食袋をスキャンして、暗号を組んで、橋の場所をメモに残した。「キタハシ 1740」。美澄が待っていた場所と時間を、和彦は知っていた。でも橋には来なかった。全部を段ボールに入れて、アパートの押入れに閉じて、手紙を書きかけて、最後の一行を空白のまま残して、消えた。
和彦が来られなかった場所に、私がいる。
——ここで、まっていました。
風が止んだ。川面の光が動かなくなった。
——だれかが来てくれるような気がしました。
欄干のコンクリートが指先に冷たい。
——まっています。
◇
ポケットから布を出した。
薄黄色の綿生地。巾着の紐が白い。先端がほつれている。いつポケットに入れたのか覚えていなかった。部屋を出るとき、手が勝手にこれをつかんでいた。
掌の上に広げた。
この布に最初に触れたのは段ボールの底だった。和彦のアパートの押入れ。ガムテープをはがして、フラップを開けて、薄黄色の布が目に入った。裏返して名前タグの跡を見た。糸の穴を数えた。3文字の名前を読もうとした。
そのとき私がしていたのは検証だった。
美澄という名前は、暗号の答えだった。掲示板に投稿して、記事に書いて、3000人に読まれた。
掌の上の給食袋を見た。紐の先端のほつれが、風にかすかに揺れている。布が朝の薄い光を受けて白っぽく見える。
でもこの給食袋を使った子供がいた。
連絡帳の欄外に記号を書く子供がいた。先生に見つからない場所に、自分の名前を隠していた。白い靴を買ってもらった日に、連絡帳の字がすこし大きくなった。なおちゃんとゆかちゃんと鬼ごっこをして、捕まえられなくても走り続けた。兄が風邪を引いたら連絡帳に「はやくよくなってほしいです」と書いた。
コンビニの棚の前で10円玉を握って、いつものコーンポタージュ味を取った。袋はいりません。外に出る。帰る。途中で袋を開けて、一口かじって、残りをポケットに入れたかもしれない。コーンポタージュの粉が指についたかもしれない。うまい棒の10円と、公衆電話の10円。美澄のポケットにはいつも10円玉が1枚あった。
夕日のネコを知っていた。友達に見せたかった。誰にも見せられないまま、ひとりで見ていた。
連絡帳は「きょうはふつうでした」。書くことがない日ではなかった。書きたくない日だった。
この給食袋を持って学校に行った。給食のパンを入れた。牛乳の紙パックを入れた。帰ってきたらランドセルから出して、台所の洗濯かごに入れた。洗われて、干されて、たたまれて、また持って行った。
この給食袋を縫った人がいた。布を選んで、裁って、ミシンの前に座った。薄黄色の生地を台に載せて端を揃えてペダルを踏んだ。針が布を通る音がして、ステッチが走っていった。4辺を縫って、紐を通して、名前タグを付けた。美澄。その名前を書いて縫い付けて、子供に持たせた。
その繰り返しの中に美澄がいた。
繰り返しが止まった日に、名前タグがはがされた。タグをはがした手は、タグを縫い付けた手と同じだったかもしれない。
誰も美澄を見ていなかった。
布を見ていた。データを見ていた。パターンを見ていた。パズルのピースとして嵌め込んで、正解が出たら次のピースに進んだ。私もそうだった。名前を手に入れて、暗号を解いて、記事を書いた。
美澄はピースではなかった。
うまい棒を食べて、連絡帳を書いて、9時に寝る子供だった。橋の上から夕日のネコが見える時間を知っていて、その風景を友達に見せたかった子供だった。離れを出て、斜面を降りて、うわばきでコンクリートの上を歩いた子供だった。
◇
空が変わり始めていた。
東の端の白さが広がっている。暗かった空の底が持ち上がって、雲の縁がうすい色を帯びた。橙でも白でもない、名前のない色が雲の下側に滲んでいた。灰色が薄くなっていく。
欄干のコンクリートが、さっきより白く見えた。ひび割れの線が浮き上がってきている。川面に映る光が増えていた。対岸の建物の輪郭が空に切り取られ始めている。日の出の前の光だった。太陽はまだ見えない。光だけが先に届いている。
掌の上の給食袋を見た。
布が体温で温まっていた。さっきまで冷たかった綿生地が、持ち続けているうちに掌と同じ温度になっている。ポケットの中で指先が触れていた時間と、掌の上に広げていた時間と、その間ずっと体温が布に移り続けていた。
美澄の掌もこの布を温めたことがあるだろう。学校に行くとき、ランドセルの中で揺れているとき、給食の時間に取り出すとき、帰り道にぶら下げて歩くとき。布は体温を吸って、洗濯されるたびに冷えて、干されて、たたまれて、また美澄の手に戻った。何10回。何100回。毎日の体温が布を通り過ぎていった。
今は私の体温がこの布を通り過ぎている。
名前タグの跡に指を当てた。光の下ではほとんど見えなかった。糸の穴と退色の境目。暗がりの中でしか読めない痕跡が、指でなぞれば分かった。長方形の輪郭を一周なぞった。この枠の中に名前があった。
空の白さが増していた。雲のちぎれた隙間から、薄い金色が覗いた。欄干の影が路面に淡く落ち始めている。川面の色が変わっていた。暗かった水面に空の色が映って、灰色がかった白になっている。
鳥の声がした。どこか近くの木の中から、短い声が繰り返し聞こえてくる。朝の光が欄干のコンクリートに届いて、ひび割れの影が細く伸びていた。
風が川面から上がってきた。
巾着の白い紐がかすかに揺れた。布のおうとつが指先に触れている。糸の穴と退色の境目。手触りだけが、名前を伝えている。
掌の中の綿生地が、温かかった。
了
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