存在しない番地
マンションの廊下は蛍光灯がちらついていた。11月の午後2時、靴を脱いでドアを閉めてチェーンをかけた。
デスクの前に座ってMacBookを開くと、渉からメールが来ている。件名はなく、本文は一行だけ。
<送ります。気をつけてください>
添付ファイルが3つあった。海斗のスマートフォンから復元したブラウザ履歴の全データと、サイトの深層ページのキャッシュと、渉が作成した分析用スプレッドシート。
エアコンのスイッチを入れると室外機が低く唸る音がして、暖房の空気がまだ届かない部屋でコートを着たまま画面に向かう。
スプレッドシートから開いた。
渉のシートには自分にないものがあった——遺留品同士をつなぐ列だ。自分は遺留品をひとつずつ個別に見ていたが、渉は遺留品の間に線を引いていた。
ひとつの行が目に留まる。
「メモ断片→地図コピー(時刻+場所で対応)」
メモ断片はサイトにスキャン画像としてアップされていた小さな紙片で、走り書きが3行ある。
「キタハシ」
「17:40」
もうひとつの地図コピーは、手書きの注記が入った白黒の地図で、椿市のどこかの住宅地を描いている。
渉のスプレッドシートの備考欄——「地図コピーの橋と一致する可能性。時刻と場所の指定。弟の海斗がこのふたつのファイルを繰り返し開いていた(アクセスログ: 計14回)」
海斗も気がついていた。消える前に、このつながりを見ていた。14回も開いて、何かを探していたことになる。
地図コピーの画像を開くと、椿市内の住宅地に手書きの注記が3つ入っている。離れの位置——本宅の敷地内に「はなれ」とペンで書き添えてある。裏道——本宅の裏手から斜面に出るルートが点線で描かれている。橋——川にかかる小さな橋に丸が付いている。
橋の横に、鉛筆で書き込みがあった。
「夕方西日があたる」
キタハシは北と橋だ。地図を見ると橋は南北に架かっていて、北端は本宅から最も遠い側にある。
17:40は時刻だ。「夕方西日があたる」——17時40分は11月なら日没の直前で、橋の北端に立って西を向けば西日が正面から当たる。
ふたつの遺留品が同じ状況を別の角度から記録していた。
17時40分に、橋の北端で、西を向く。
地図コピーの橋をもう一度見た。丸で囲まれた場所、書き込まれた「夕方西日があたる」の文字。行ってみなければ、この地図が何を伝えようとしているかは分からない。
渉にLINEを送った。
<地図コピーの橋に行ってきます。メモ断片と地図の対応を現地で確認したい>
<ひとりで行くんですか>
<はい。場所は椿市です。裏道を通って離れから橋に出るルートも見てきます>
<僕も行ったほうがいいですかね。……正直行きたくないけど>
<大丈夫です。データの分析を続けてもらえますか>
<わかりました。……気をつけてください。ほんとに>
◇
橋に向かう前に、もうひとつやることがあった。9日目の残りの時間で、どこまで進められるか。
遺留品と地図が示しているのは、14年前の誰かの行動だった。でもその子供が誰なのかは、遺留品からは分からない。名前はすべて消されている。名前を探すなら、行政の記録を当たるしかない。
渉のスプレッドシートの別シートに、サイト内のファイルを横断検索した結果が残っていた。そのうちの1件——行方不明届の控えと思われるスキャン画像のファイルがある。紙の端が欠けていて、名前の部分は切り取られているが、「椿市」と「届出人」の文字が読める。
椿市役所の市民課の電話番号を調べて、番号を押した。3コールで出る。
「椿市役所市民課でございます」
「お忙しいところすみません。フリーランスのライターをしている久野木と申します。14年前にそちらの市で児童の行方不明届が出されている案件について確認したいことがあるのですが」
「どのようなご用件でしょうか」
行政の窓口に特有の、丁寧だが感情のない事務的な声だった。
「当時の児童について、住民記録の状態を確認したいのですが」
「お名前はお分かりになりますか」
「いえ、分かりません」
「確認しますので、少々お待ちください」
保留音が流れた。パイプオルガンの短いループで、通話タイマーの数字を見ながら待った。1分10秒、1分30秒。パイプオルガンの旋律が2周する間にスプレッドシートに目を戻して、遺留品のファイルを上から順に見た——給食袋、連絡帳、アンケート、写真台紙、メモ断片、地図コピー。ひとつひとつの遺留品の向こうに、14年前の生活がある。パイプオルガンが3周目に入った。
「お待たせして申し訳ございません」
声が戻った。
「確認いたしましたが、該当する児童の住民記録が現在こちらの市にはございません」
「住民記録がない」
「はい。転出届が出ておりまして——お一人分の届出になります」
「ひとり分。その児童だけですか」
「はい。ご家族の方の転出届は出ておりません。この児童お一人分のみの届出です」
家族は転出していない。この子だけが、ひとりで転出処理されている。
「行方不明の児童が、転出届で処理されているということですか」
間が長くなり、受話器の向こうで紙をめくる音がする。
「制度上の説明になりますが、転出届が提出されると住民登録は移転先に移りますので、届出を受理した時点で当市の住民台帳からは除かれます。届出がこちらに出ている以上、手続きとしては完了しているという状態です」
「転居先を教えていただくことは可能ですか」
「本来、電話での個人情報の開示はいたしかねますが——」
声が少し落ちて、迷っている間があった。
「こちらの件は、以前にも照会がございまして」
以前にも——自分以外の誰かが、同じことを調べていた。
「その際に所管課で確認した記録がございます。転居先の住所が……東京都、1000代田区、4番町3丁目、12番6号、とあります」
メモして住所を復唱した。
「届出日も教えていただけますか」
「平成24年12月14日です」
行方不明届が出された月の翌月だった。
「最後に1点だけ。届出人のお名前は」
沈黙が3秒、5秒と続いた。受話器の向こうで空気が動いて、誰かに視線を送っている気配がする。
「少々お待ちください」
保留音が流れて、1分15秒で声が戻った。
「お待たせして申し訳ございません。届出人欄は、瀬川正志さまとなっております」
瀬川。
「ありがとうございます。助かりました」
電話を切って、メモに書いた転出先の住所を見た。東京都1000代田区4番町3丁目12番6号。
地図アプリに入力する。
「一致する住所が見つかりません」
番地を変えて検索したが、4番町3丁目までは実在するものの12番以降が存在しない。
渉にLINEを送った。
<椿市役所に確認しました。住民票は転出届で処理済み。この子ひとり分だけの届出です。家族は転出していません。転居先住所は実在しません。届出人は瀬川正志。児童と同姓です>
返信に時間がかかった。入力中の表示が出て、消えて、また出た。3分近く経ってから、ようやくメッセージが来た。
<すみません、1回画面閉じました。打ちながら手が止まって>
<転出届で住民票を抜いて転居先を偽にしておけば、戸籍附票を辿っても存在しない住所にしか行きつかない>
<行政手続きに詳しい人間の仕事ですね>
30秒の間があった。入力中の表示が点いたまま、メッセージが来ない。
<でもこれ、子供ひとり分だけって>
<家族ごと引っ越したなら全員分出すはずなのに、この子だけ。この子だけ消してるんだ>
<職員の態度が途中で変わりました。届出人の名前を聞いたとき、明らかに誰かに確認を取っていた>
<共有情報がある>
<はい>
<以前にも照会があったという点が気になります。瀬川さん本人が調べた可能性がある>
和彦——段ボールに遺留品を集めて、サイトを作って、3つ目があると書いて消えた制作者。和彦が市役所に同じ電話をかけたとしたら、同じ住所を聞いて、同じように地図で検索して、同じ結果を見ている。
行政から消された。住民票を抜かれて、実在しない住所に送られて。写真台紙のpage_008は欠番で、家族アルバムからも顔を抜かれている。ふたつの方向から、この子の痕跡が消されていた。
渉からもう1通。
<正直ちょっと手が止まってます。子供の住民票をひとりだけ偽住所に飛ばすって、普通やらないですよ>
<調べてると怖くなってきます>
東京都1000代田区4番町3丁目12番6号。実在する区の、実在する丁目の、実在しない番地。調べなければ気がつかない嘘だった。住所のふりをした空白。この住所に届くものは何もない。この住所に住む人間は誰もいない。ここに送られた子供は、行政の上では存在しなくなる。
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