ふたつのスプレッドシート
経過日数、9。残り、4。
朝の9時にスマートフォンが鳴った。
知らない番号で、都内の市外局番が表示されている。取材ノートを開いて、通話ボタンを押した。
「あの、すみません、久野木さん——久野木さんですか」
若い男性の声だった。敬語で、速い。息を吸う音がそのまま聞こえてくる。
「はい」
「突然すみません、井上と言います。変な電話だと思われるかもしれないんですけど——瀬川さんのアパートの管理人さんに、連絡先を教えてもらって」
管理人さんとは、三度訪ねた2号室のかぎを貸してくれた人だ。
「管理人さんが?」
「はい。僕も瀬川さんの部屋を見に行ったんです。管理人さんに、前にも調べに来た人がいるって聞いて。記者の方だと——あの、怪しいものじゃなくて」
声が詰まった。言い直そうとして、言い直せないまま息だけが受話器の向こうで続いている。
取材ノートにペンを走らせた——井上、瀬川のアパートに来た別の人間。
「井上さん、なぜ瀬川さんの部屋に」
「弟のことです」
声のトーンが変わった。早口が止まって、1拍の間があった。
「弟が、あのサイトに参加していました。それで——いなくなったんです」
ペンが止まった。
「会って話していただけませんか。電話だと——すみません、ちょっと、電話だと全部話しちゃいそうで」
管理人さんは以前、「お父さんが動かさないでくれって言う」と言いながらかぎを貸してくれた人だった。困っている顔を見たら助ける人。瀬川の部屋を何度も訪ねてくる女性ライターの連絡先を、同じように困った顔をした男に教えた。それは管理人さんらしい判断だった。
「分かりました」
待ち合わせの駅を決めた。渉——井上渉というフルネームを電話で聞いた。渉が住んでいるのはアパートから電車で3駅の場所。11時に改札の外で。
電話を切った後、取材ノートに書いた文字を見た。「瀬川のアパートに来た別の人間」。自分と同じ場所を訪ねた人間がいる。
コートを着て、財布とスマートフォンと取材ノートをバッグに入れた。玄関で靴を履くとき、ドアチェーンが視界の端にあった。昨夜からかけたままにしている。外に出るためにチェーンを外す。金具の音がして、ドアの隙間から廊下の冷気が入ってきた。
◇
改札の外に、井上渉は立っていた。
紺色のダウンジャケットにリュックを背負って、スマートフォンを両手で持って画面を見ている。電話で聞いた26歳という年齢より疲れて見えるのは、目の下に暗い色があるせいだろう。
「久野木です」
「井上です。ありがとうございます」
頭を下げたとき、リュックのストラップをつかむ指が白いのが見えた。
「歩きながらでいいですか。人がいるところだと、ちょっと」
並んで歩いた。駅前のロータリーを抜けて幹線道路沿いの歩道に入ると、車が途切れた瞬間に二人分の足音だけが舗装の上を叩いているのが聞こえる。歩幅が違う。速度を合わせようとして、二人とも少しずつ調整した。
風が冷たかった。銀杏の葉が歩道に貼りついて、乾いた端だけが風にめくれている。
信号待ちの間に、渉が話し始めた。
「弟は海斗って言います。22歳です。大学4年の夏にあのサイトを見つけて、秋に——」
声が途切れた。信号の向こうの交差点をじっと見ている。口元が動いて、音にならなかった。
「——いなくなりました」
「いつ頃ですか」
「10月です。2ヶ月前です。警察には届けてます。ただ、サイトのことは話してないです」
信号が変わった。
「話しても信じてもらえないし、僕自身も最初は信じてなかった。大学辞めたくて逃げたんだと思ってました。就活がうまくいってなかったので」
渉の歩幅がそこだけ狭くなった。
「何がきっかけで」
「弟のスマートフォンです。部屋に残ってました。ロックは解除できました」
渉は自分がSEだと言った。弟のスマートフォンから削除されたブラウザ履歴を復元し、キャッシュファイルとダウンロードログを時系列で並べ替えた。
「サイト自体には触ってないです。掲示板にも登録してない」
言い方が速くなった。自分に言い聞かせるような調子で、ダウンジャケットのポケットに突っ込んだ手が生地を握りしめている。
「怖かったので。弟がいなくなるまでの2週間、毎日あのサイト開いてるんです。全部ローカルデータだけで追ってます、僕は一度もアクセスしてないです」
「URL履歴は残ってますか」
「残ってます。ブラウザ履歴を全件抽出して、日別で整理しました。1日目から13日目まで」
13日。
「アクセス数が右肩上がりです。7日目に跳ねてて——」
渉が突然、背後を振り返った。歩道に人はいなかった。トラックが通り過ぎた風が、渉の襟元をめくった。
「すみません。続けます。7日目にアクセスが跳ね上がってて、12日目に深層のURLにアクセスしてます」
7日目——自分のスプレッドシートにもメモがある数字で、過去の参加者のログでも7日目にアクセスが跳ねていた。
「深層」
「トップページからリンクされてないURLです。パスが深い。『archive/deep/』って階層。弟はそこに辿り着いてました」
取材ノートを開いて歩きながらペンを走らせた。自分がサイトの深層で暗号化テキストを見つけた階層と同じだ。
「そのURL、記録してありますか」
「してあります。後で送ります」
ドラッグストアの前を通り過ぎた。店内からヒーターの暖気が漏れてきて、一瞬だけ空気が温かくなった。
「久野木さんは、あのサイトの何を調べてるんですか」
問い返された。先に相手の情報を聞いて、自分の手の内は最小限にする——取材の手順が反射的に働いた。ただ、この男は弟を失っている。
何を、どこまで話すか。数秒で判断した。遺留品の原本のことと、サイトが実話であること——このふたつは渉にも直接関係がある。瀬川のノートの「3つ目がある」は、まだ出さない。
「制作者のアパートに行きました。三度。押入れの段ボールの中に、サイトにスキャン画像が上がっていた遺留品の原本がありました」
渉の足が止まった。
「原本」
「給食袋。連絡帳。通院記録。全部実物です。サイトの画像と照合して、一致しました」
渉がこちらを見た。初めて目が合う。目の奥が揺れていた。
「実話なんですか」
「実話です」
渉は数秒、何も言わなかった。歩道を通り過ぎる自転車のベルが鳴る。渉はその音に肩を竦めて、前を向いて歩き始めた。
「弟は——実話に巻き込まれた」
「まだ分からないことが多いです。ただ、制作者の瀬川さんもいなくなっている。遺留品は本物。参加者が13日目にいなくなるパターンがある。弟さんも——」
「はい」
短く切った声は震えていた。喉の奥で、飲み込むような音がする。
「パターンに合致してます。データで見れば。知ってます」
公園の入口が見えた。ベンチがひとつ空いている。
「座りますか」
座ると、噴水は水が抜かれた底にイチョウの葉が溜まっていて、ベンチのコンクリートの冷たさが太腿に伝わってきた。
渉がリュックからスマートフォンを取り出して、画面を見せた。指先が微かに震えていて、画面が小刻みに揺れた。
スプレッドシートだった。弟のブラウザ履歴を日別に整理した表で、行見出しがDay 1からDay 13まで並んでいる。各行にアクセス回数と滞在時間とアクセスしたURLが入っていて、列の幅が整えてあり、条件付き書式でアクセス数の多い日がオレンジ色に塗られている。
自分のスプレッドシートと同じ構造だった。列の順番まで似ている。
「Day 12に深層URLアクセスが3件。Day 13の朝に最後のアクセスがあって、そこで終わってます。その日の午後から、弟の電話はつながらなくなりました」
画面をスクロールすると、Day 13の行にはアクセス1件、滞在時間7分とだけ記録されている。それが最後の行だった。
深層URLの列をもう一度見た。渉が以前送ると言っていたURLと同じパスだった——archive/deep/。自分も見つけていた階層。弟も、同じ場所に辿り着いていた。
渉がスマートフォンをしまうとき、ロック画面が一瞬見えた。弟と二人で写った写真だった。
「ひとつだけ、データじゃない話をしていいですか」
声が小さくなった。視線がベンチの足元に落ちる。
「弟がいなくなる前に、誰かと会ってたと思うんです」
「誰かと」
「12日目の夜、弟が出かけてるんです。ブラウザ履歴の後、4時間空白になってる。スマートフォンのGPSはオフになってました」
渉が自分の膝を両手でつかんだ。
「弟はGPSを切らない人間です。僕が設定してって言ったのをずっとそのまま使ってるような——そういう弟で」
言葉が切れた。噴水の乾いた石を見ている。
「4時間後にスマートロックのログで帰宅記録があって、翌朝いなくなった。その4時間、どこで誰と会ってたか分からない。LINEもメールも、知らない相手とのやりとりはなかった。でも、弟の方から会いに行ったんだと思います」
「なぜそう思うんですか」
「GPSを意図的に切った。見られたくない場所に行った。弟はそういうことをしない人間でした」
風が吹いて、枯葉がベンチの下を横切っていく。銀杏の実がつぶれた跡が地面にあって、微かに匂った。
渉が立ち上がり、リュックを背負い直す。ストラップをつかむ手が、さっきより力が入っている。
「一緒に調べてもらえませんか」
声が裏返りかけた。渉はそれを隠すように咳払いをして、もう一度言った。
「ひとりだと、もう分からなくなりそうなんです。正直、3回やめようとしました。データ全部消して、弟は就活嫌になって逃げたんだって思い込もうとして——でも消せなかった。画面見てると弟の最後の2週間を見てるみたいで、ひとりだと、そこで止まるんです」
迷わなかった。
「はい」
渉は何も言わず、深く頭を下げた。リュックが背中でずれる。
◇
渉と改札で別れて、連絡先を交換する。LINEのアイコンは設定されていない。渉がブラウザ履歴のスプレッドシートと復元データをメールで送ることになった。
「僕の方は全部出します。持ってるデータは全部」
渉は改札の向こうで一度振り返り、片手を上げて人混みに紛れていく。
ホームで電車を待ちながら、スマートフォンを取り出した。
カメラロールに通知が来ていた。開くと、4枚の写真——昨日までに届いた4枚が時系列に並んでいる。その下に、もう1枚あった。
5枚目。
サムネイルをタップした。横長の構図で、駅のホームが写っている。コンクリートの縁石。黄色い点字ブロック。屋根を支える柱が等間隔に並んでいて、柱の間から線路が見える。対岸のホームに電光掲示板の緑色の文字が滲んでいる。
ベンチが1脚、手前の柱の横にある。
顔を上げた。
同じベンチがあった。
同じ柱があった。
同じ点字ブロックの黄色が、自分の足元から写真の中まで続いている。
「ここだ」
声に出ていた。隣に立っていた女性がこちらを見た気配があった。
画面に目を戻した。ベンチの位置。柱の間隔。電光掲示板の角度。全部同じだった。
写真をピンチアウトした。柱と柱の間からの構図。自分が普段待つ側のホームを、反対側から撮っている。
対岸のホームの柱の陰に、何かが重なっていた。柱の輪郭の右側に、丸みのある影が少しだけはみ出している。柱の色とは違う、暗い色。
撮影日時を確認した。
2日前の午前10時22分。
平日。この時間帯にこの駅を使う。
視線が画面から離れて、対岸のホームに向いた。2日前の午前10時に、あちら側から、こちら側を撮っている。
自分が毎週立つ場所を。自分がいつも電車を待つ、この場所を。
足の裏が冷たかった。コンクリートの冷気が靴底を通って伝わってくる。さっきまで何も感じなかった足元が、急に温度を持った。
渉にメッセージを送った。5枚の写真をまとめて添付する。
<話していなかったことがあります。写真が5枚、カメラロールに入っています。撮った覚えがない写真です。1枚ずつ近づいてきています>
既読がついた。
30秒、返信がなかった。
1分後。
<この角度>
30秒の間。
<防犯カメラでもスマホ遠隔でもない。目の高さで水平に構図を決めてる。人間がカメラ持ってそこに立たないと撮れない角度です>
20秒の間。次のメッセージが来るまで、入力中の表示が消えて、また現れて、また消えた。
<でも写真自体が勝手にカメラロールに入ってくるわけだから>
<分からないです。分からないけど、構図だけ見たら人間の目線です>
30秒の間。
<弟のスマホにも、同じような写真が入ってました>
電車が来た。乗り込んでドアの横に立つ。ホームが動き始める。
渉のLINEがもう1通届いた。
<弟の写真は消える2日前から届いていました>
ドアの窓に額を寄せた。ホームの柱が1本ずつ流れていく。さっき撮影者が立っていたはずの場所——対岸のホームの端が、電車の加速とともに遠ざかっていった。
2日前のこの駅が、撮られている。
ポケットの中のスマートフォンが、手の体温で温まっている。5枚目の写真が、その中にある。
感想や評価をいただけると励みになります。
気に入っていただけたらよろしくお願いします。




