みっつ目がある
便箋を両手で持った。
ピンクの罫線の上に鉛筆の文字が並んでいて、ひらがなと漢字が混じり、筆圧のムラが文字ごとに違っていた。「お」の丸い部分が大きすぎて罫線からはみ出し、「に」の2画目が右に流れている。教室で先生に直されながら、それでも自分なりの形を崩さずに1文字ずつ押し通した字だった。
「おにいちゃんへ」の下に、本文が続いている。
けさ、おにいちゃんがいってきますって言ったのが聞こえたよ
しろい息がまどの外に見えて、寒いのかなって思った
冬の朝だ。窓の内側から、出ていく兄の白い息を見ている。
手紙を書くのはじめてだけど、おにいちゃんに読んでほしくて
便箋の紙が薄くて、鉛筆の筆圧で裏側におうとつができていた。初めての手紙を、力を込めて書いている。
あのね、わたしはおにいちゃんがいちばんすき
「いちばんすき」の「す」の縦棒が、他の文字より深く紙に食い込んでいた。
元気でいてね
るすばんはへいきだから、しんぱいしないでね
それだけだ。
この手紙を、瀬川が見つけた。
元同僚の言葉が蘇る。「見つけた、って言ったんです」。「作った」ではなく「見つけた」。瀬川はフリーマーケットで給食袋を見つけ、リサイクルショップで連絡帳を見つけ、そしてこの手紙を見つけた。兄にあてた、妹の手紙。
「作り話にできない」。瀬川がそう言った理由が、手の中にあった。
便箋をもう一度読んだ。「るすばんはへいきだから、しんぱいしないでね」。最後の一行。兄に心配をかけまいとして、平気だと書いている。この子は8歳で、手紙を書くのが初めてで、兄がいってきますと言って出ていく朝の声が聞こえる場所にいた。
便箋を封筒に戻した。息を吐くと白くなった。この部屋は暖房が入っていない。
◇
段ボールの中のものをすべて元に戻した。給食袋、連絡帳、通院記録、写真3枚、封筒——最後に手を入れたとき箱の底に指が触れて、段ボールの紙の段差だけが指の腹に当たる。もう何も残っていない。
立ち上がって部屋を見回した。
デスクの横に、前回持ち帰らなかったものがある。青い表紙のB5キャンパスノートで、方眼ノートとは別の1冊だった。初回の訪問で存在は確認していたが、方眼ノートとUSBの解析を優先して後回しにしている。
ノートを開くと、最初のページに15ヶ月前の日付が書かれていた。
「給食袋——市内のフリーマーケット。300円。箱の中に他の子供用品と一緒に入っていた。出品者は話したがらなかった」
遺留品の入手記録だ。瀬川の字で、方眼ノートと同じ筆跡だが文字が少し小さい。
ページをめくると、連絡帳はリサイクルショップの古本コーナーから、通院記録と母子手帳はフリーマーケットで給食袋と同じ出品者から入手したと記されている。「二度目に会ったとき、急に話さなくなった」という一行がある。
瀬川は遺留品をひとつずつ集めていた——作ったのではなく、14年の時間をかけて町の中に散らばったものを拾い上げている。
ノートの中盤に入るとメモの密度が上がり、「フリーマーケットの出品者——同一人物の可能性。3回目は出品自体がなかった」という一行が目に止まった。遺留品を売っていた人間が姿を消したことを、瀬川は追っていた。
後半に入ると筆圧が変わっている。文字が大きくなって走り書きが増え、余白には矢印と疑問符が散在していて、整理された記録が思考の断片に変わっていく。
あるページで目が止まった。
一行だけ書かれている。
「終わらせる方法はふたつある。解くか、忘れるか」
その下に、少し間を空けて。
「でもみっつ目がある」
取材ノートを取り出して、USB-Aの暗号化テキストから読み取った断片を探した。「このゲームにはみっつの〈不明〉がある」。
みっつ。
ふたつの情報を並べて書いた。
「①サイト暗号: みっつの〈不明〉がある」
「②制作者ノート: 終わらせる方法はふたつ。でもみっつ目がある」
ひとつ目は「解く」。ふたつ目は「忘れる」。みっつ目は——瀬川は書かなかった。知っていたのか。知らないまま書いたのか。
ページをめくった。次の見開きも走り書きで、矢印が3本引かれている途中で止まっていた。その下の余白に、筆圧の違う一行がある。
「声を聞いた者は——」
ダッシュの先は空白で、ページの残りには何も書かれていない。
ノートの残りのページをめくったが、白紙が続いていた。「みっつ目がある」の後にも、「声を聞いた者は」の後にも、書き足した形跡はない。
ノートを閉じて、デスクの上に戻した。
瀬川はこの部屋で遺留品を集め、サイトを作り、「終わらせる方法」を探している。給食袋と連絡帳を段ボールに入れ、方眼ノートにサイトの設計を描き、USBにデータを保存して、手紙を見つけて「作り話にできない」と言い、みっつ目があると書き残して——いなくなった。
管理人さんの言葉が頭をよぎる——「お父さんが動かさないでくれって言う」。3ヶ月分の家賃が溜まり、充電アダプターの緑のランプだけが光り続けている。灰色のパーカーが椅子のひじ掛けに垂れたまま、瀬川の生活が時間の止まった標本のようにこの部屋に残っていた。
ノートに「みっつ目がある」と書いた人間が、その先を書かないまま消えている。
「終わらせる方法」を探していた制作者が、終わらせられなかった。
立ち上がると膝が冷えていた。デスクの椅子が目に入り、パーカーの袖がひじ掛けから垂れている。座れば瀬川と同じ景色が見える——同じモニター、同じ段ボール、同じ「みっつ目」の問い。
座らなかった。
◇
玄関で靴を履くと、管理人さんが通路で待っていた。
「見つかった?」
「少し」
「そう。瀬川さんのこと、何か分かったら教えてね。いい人だったから」
かぎを管理人さんに返す。
「瀬川さんの荷物、お父さんが引き取りに来ることはあると思いますか」
「どうかしらねえ。電話は出るのよ。動かさないでくれ、もう少し待ってくれ、って。待ってても帰ってこないのにね」
管理人さんはかぎをエプロンのポケットに入れて、階段を降りていく。
外階段の手すりには触れなかった。掌にまだ別のものの感触が残っていて、給食袋の綿の生地と便箋の薄いピンクの紙とノートの表紙のざらつきが、みっつの質感になって重なっている。
帰り道を歩いた。信号を渡って道幅が広くなると車のエンジン音と人の声が戻ってきて、ドラッグストアの前を通り過ぎる頃には腐葉土の匂いが排気ガスに変わっている。
駅に向かいながら、取材ノートを開いて整理した。
全てがつながった——と書きかけて、ペンを止めた。
つながっていない。
瀬川は「みっつ目がある」と書いて消えた。制作者がこのゲームを「終わらせる方法」を見つけられないまま消えたなら、残された方法はふたつしかない。解くか、忘れるか。解くための情報はUSB-Bに暗号化されたまま開かない。忘れることは——スプレッドシートの13日パターンを忘れられるかという問いと同じだ。忘れた人間がどうなったかは、データが教えている。
駅の改札を通った。ホームで電車を待つ間に、スマートフォンを取り出した。
カメラロールに通知が1件入っている。
開くと住宅街の写真が表示された。ブロック塀と道路のカーブ。道路の反対側に自販機が写っている。
自販機の横に、スーパーの買い物袋を提げた人の後ろ姿が写っていた。
ピンチアウトで拡大した。ダウンジャケットの背中。フードが出ている。買い物袋は自分が使っているスーパーのものと同じ白い袋に見えるが、この辺りなら誰でも使う。身長や体型は分からない。画面の端に切れかけていて、顔は写っていない。
最寄り駅の南口を出て、スーパーに向かう途中にある自販機だ。
撮影日時を確認した。今日の午前11時。今日——自分がこのアパートに来る前の時間だ。午前中はデスクにいた。この道は通っていない。写っているのは自分ではない。自分ではないが、自分がいつも歩く道を、同じ方向に歩いている。
ホームに電車が入ってきた。ドアが開くのと同時に乗り込み、ドアの横に立った。窓の外を住宅街が流れていく。帰り道に、あの道を通る。
指の中に給食袋の手触りがまだ残っていて、手紙の最後の一行が頭の中で繰り返している。「るすばんはへいきだから、しんぱいしないでね」。8歳の子が兄に心配をかけまいとして、自分は大丈夫だと、留守番は平気だと、力を込めた鉛筆の字で書いている。平気だった。きっと平気だった。そう書いて、封筒に入れて、誰かに渡すつもりだったのか、それとも渡せないまま箱の中に入ったのか。
14年前の子供の手紙と、3ヶ月前に消えた制作者のノートが、同じ段ボールの中にあった。
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