考えとく
アップミスしてましたので修正しました
テーブルの上で伏せてあった画面が明るくなって、通知音が鳴った。LINEの通知で、相沢真奈からだった。
<最悪。クライアントからリテイク4回目きた>
午前2時12分、私がスプレッドシートを見つめている時間に、真奈もデスクに向かっている。フリーランスのグラフィックデザイナーで、5年前にコワーキングスペースで隣の席になったのが最初だった。私がコーヒーをこぼして真奈のMacBookにかかりかけたのを真奈が素手で受け止めて、謝り倒す私に「いいよいいよ、ほら乾いた」と笑っている。それ以来、どちらかの仕事が減ると飲みに行き、増えると忙しくて会わなくなり、また減ると集まる。5年間ずっとその繰り返しだった。
<4回目は多いね>
<多いよね!!! 聞いてよ。フィードバックが毎回矛盾してるの。1回目は『もっとポップに』。OK分かった、ポップにした。2回目『もう少し落ち着いた感じで』。ポップにしろって言ったじゃん、でもOK、落ち着かせた。3回目『もっとインパクトがほしい』。落ち着かせろって言ったじゃん、でもOK。4回目『やっぱり最初の方向性で』。どれ???? 1回目のこと??? 聞いたら既読つかない。あの人11時に寝るんだよ。発注は深夜にしてくるくせに。寝たなーーー。こいつ絶対寝たなーーー。ああもう腹立つ、ほんと腹立つ。でもね、腹立つんだけど、デザイン自体は面白い案件なの。音楽フェスのフライヤーで、構成が凝ってて、ちゃんとやりたいからこそ腹が立つっていうか。いい仕事のリテイクほど腹立つよね???>
画面をスクロールしたが、真奈のメッセージは1画面におさまらない。
<そのフライヤー、何のフェス>
<来年の春に幕張でやるやつ。出演者まだ秘密なんだけどラインナップ教えてもらったらめちゃくちゃ良い。通いたい。自分がデザインしたフライヤー持って入場したい。つーか行かない? 静も。春だよ春。冬終わるよ。なんか楽しみなかった方がよくない?>
春。今は11月で冬はまだ始まったばかりだったが、真奈のカレンダーにはもう春の予定が入っている。
<考えとく>
<考えとくは行かないの意味だって知ってるけど、チケット確保しとくね。でね、リテイクの話に戻ると>
戻った。
<腹が立つのは本気でやってる証拠だと思う。朝まで待って冷静に聞いた方がいい>
<正論ーーー。分かってる。分かってるけど今は愚痴モードだから正論は3割カットで聞いてる。あ、そうだ、この前教えてくれたフォント管理アプリ入れたよ。あれいいね。Adobeのやつより全然早い。最近入れた游ゴシック系のフォントが1覧で見やすくて助かってる。ただフォント多すぎて逆に迷うっていう新しい悩みが生まれた。贅沢な悩み。さっきコンビニ行ったらシュークリーム半額だった。2個買って2個食べた。カロリーはゼロです。深夜なので>
話題が3回変わって、リテイクの愚痴からフォント管理アプリの感想に飛んでシュークリームに着地したが、真奈の愚痴はいつもこのパターンで怒りのピークが過ぎると脈絡なく別の話が混ざり始める。フォント管理アプリからシュークリームへの遷移は、真奈としては通常の動線だった。
<深夜だとカロリーが消えるメカニズムを教えてほしい>
<最新の論文で証明されました。ソースは私の胃袋。えーとなんの話だっけ。リテイク。もういい。明日やる。やってやるよ。5回目のフィードバックが来る前にこっちから完成品叩きつける。で、静は? こんな時間に何してんの。仕事?>
<スプレッドシートを見てた>
<それは仕事なの?>
少し考えた。
<仕事の不在を確認する作業かもしれない>
<笑。なにそれ。哲学? ごはんは食べた?>
冷蔵庫の納豆を思い出したが、賞味期限が1日過ぎている。
<食べた>
<嘘。食べてないときのテンポだよ。返事に2秒空いた。嘘つくとき1拍考えるでしょ、静>
何も返さなかった。
<まあいいけど。明日お昼食べよ。駅前のタイ料理屋がランチ始めたって。パッタイ。パッタイ食べたい。パッタイ>
3回。真奈は食べたいものの名前を繰り返す。カレーのときは1回、ラーメンは2回、パッタイは3回で、期待度に比例しているらしい。
<いいよ。何時にする>
<12時半。いやだめだ、1時にして。午前中にリテイク片づける。5回目のリテイク、日本最速で返してやる。寝る! おやすみ!!! 静もちゃんと寝なよ。スプレッドシートは逃げないから!!!>
<おやすみ。パッタイ楽しみにしてる>
<楽しみにしてて! マジで! では!!!>
猫が寝転がっているスタンプが送られてきて、真奈はいつもスタンプで会話を閉じる。
既読だけつけて、画面が暗くなった。
◇
部屋が静かに戻ると、冷蔵庫のコンプレッサーが回る音と、窓の隙間風が足首を冷やしている感覚が戻ってきた。スプレッドシートの数字は変わっていないし、企画書のカーソルも同じ場所で点滅している。
真奈とやり取りしている間は部屋の音が気にならなくて、冷蔵庫が回っていたかどうかも覚えていない。今また聞こえるということは、たぶん回っていたのだと思う。
パッタイか。明日の1時に約束があって、明日には明日の昼がある。それだけが決まった。
椅子から立ち上がって台所で水を1杯飲むと、蛇口から出た冬の水道水が歯に沁みる。コップを置いて洗面台へ行き歯を磨いてから眼鏡を外すと、鏡の中の自分の目の下に薄い隈が浮いている。いつからある隈なのか、覚えていない。
MacBookを閉じたが企画書は白いまま保存されていて、洗い物をしようかと思って台所を見てもシンクにはマグカップがひとつあるだけだった。ひとり暮らしの洗い物は少ない。水を流してスポンジで擦って水切りかごに伏せると、それだけのことに妙な達成感がある。今日、何かを最後まで終わらせたのはこのマグカップが初めてだった。
部屋の電気を消して布団に入ったが、靴下は2枚のままでパッキンが死んでいるので冬はいつもそうしている。頬に触れるシーツが冷たくて、体温で温まるまで数分はかかる。暗い天井を見上げたまま、窓の外を車が1台通り過ぎるのを聞いていた。
何か書かなければ、と思う。自分がここにいるということを、誰かに分かってもらえるようなものを書かなければならない。記事を書く。自分にしか書けないものを。
その「自分にしか」が何なのかは分からないまま、いつの間にか眠っていた。
◇
目が覚めると、部屋にカーテンの隙間から薄い光が差し込んでいた。時計を見ると8時過ぎで、靴下を履いたまま寝た足が温まっていない。布団の中で10分ほどぼんやりしてから起き上がった。
台所でインスタントコーヒーをいれると、お湯を注いだマグカップの底で粉が溶けきらずにざらついている。スプーンを取りに行くのが面倒でそのまま飲んだ。粉っぽさが舌に残った。窓の外は曇りで、向かいのマンションのベランダに洗濯物が干してあった。他人の生活が見える。他人の生活には洗濯がある。私も洗濯をした方がいい。
コーヒーを飲みながら昨夜のスプレッドシートを開いたが、数字は変わっていないし、当たり前だ、寝ている間に入金が増えることはない。企画書のタブも開いたが、昨夜と同じ画面のままだった。昨夜消した「AI時代の」はファイルに跡を残さない。
コーヒーが冷めていて最後の一口はぬるくて苦かったが、飲み干して、マグカップを昨夜洗ったばかりの水切りかごに重ねた。
携帯を見ると、メールの受信箱には広告が3通あって仕事の依頼はなく、昨日も1昨日もそうだった。LINEを開くと、真奈が朝7時半に1通送っている。
<起きた。リテイク5回目これから返す。日本新記録出す。応援して>
<がんばれ>
既読がつかないのは、もう仕事に入っているからだろう。
歯を磨いている途中で、携帯がまた鳴った。口の中にミントの泡がある状態で画面を見ると、知り合いのテックライター山際からのメッセージで、仕事を何度かやり取りしたことのある相手だ。
<久野木さん、代替現実ゲームって知ってますか。ちょっと面白い話があるんですが、興味あったら連絡ください>
歯ブラシを口から抜いて、泡を吐いて、水で口をすすいだ。
代替現実ゲーム。現実世界とフィクションの境界をあいまいにする体験型のゲームで、ウェブサイトや実在の場所に散りばめられた手がかりを頼りに参加者が謎を解いていく。海外では10年以上前から事例があるが、日本ではまだニッチなジャンルだった。テック系の題材としては面白いし、書きようによっては読まれる記事になる。
昨夜1文字も打てなかった企画書を思い出しながら、歯を磨き終えてから返信を打った。
<知ってます。詳しく聞かせてください>
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