おにいちゃんへ
経過日数、8。残り、5。
昨夜から画面の前を離れていない。USB-Aから取り出した就学時健診の書式と、ニュース検索で見つけた3行の記事が、モニターの中で並んでいる。椿市、14年前、小学生、行方不明——続報はない。スプレッドシートの「地域調査」シートでは時期と地域と遺留品の年齢層が交差していて、その交点にひとりの子供の輪郭が浮かんでいる。
データの上では確定した。
モニターを閉じて、取材ノートを開いた。昨日の深夜に走り書きした一行——「1次資料——現地確認」。テックライターの仕事で原稿の最終工程にあたる手順で、画面上のデータと現場を照合する作業だ。スプレッドシートの数字は14年前の子供の存在を示しているが、それはすべてモニターの中のデータで、指で触れたものは何もない。
USB-Aの短い文章が頭から離れない。「おぼえている人がいるなら」。制作者のMacBookでも自分のスマートフォンでもない場所から、14年の沈黙を越えて届いた言葉だった。
制作者のアパートに、もう一度行く。
◇
同じ駅で降りた。
前に来たのは取材を始めて間もない頃で、段ボールの中のUSB3本と方眼ノートとアクセスログを持ち帰っている。二度目の今日は、コートの内ポケットに取材ノート、外のポケットにスマートフォンだけを入れて来た。持ち帰るためではなく、確認するために。
信号をふたつ渡ると道幅が半分になり、排水溝のふたがずれた場所で枯葉がはさまっている。前回は茶色だった葉が黒く湿って崩れかけていて、11月の終わりに近づいた腐葉土の匂いが道路の端まで漂っていた。
木造アパートの外階段を上がると、靴底に金属の振動が伝わった。2階の通路は風の通り道で下より一段冷たく、2号室の郵便受けのチラシは前回よりさらに増えている。1枚が通路の床に落ちていた。ピザのデリバリーのチラシを、受け取る人間がいないまま紙だけが積み上げて、落ちた1枚が風にあおられて通路の端まで滑っている。
1階のインターホンを押すと、管理人さんが出てきた。
「あら。2回目」
エプロンの色が前と違っていて、茶色から紺に変わっている。
「すみません。もう一度だけ」
「いいわよ。まだ何もないから。お父さんも来ないし」
かぎを受け取って階段を上がり、2号室のドアを開けた。
匂いが、また変わっていた。煙草の残り香は消えている。埃の匂いが前面に来ていて、その奥にエナジードリンクの甘さの残骸が微かに漂っていた。人の出入りがないまま季節だけが進んだ部屋の空気だ。
靴を脱いでフローリングに足を置くと靴下を通して冷えが上がってきて、11月の、誰もいない部屋の温度がそのまま足裏に伝わった。
デスクは前回と同じで、モニター2台と閉じたままのMacBookが並んでいる。充電ケーブルが差しっぱなしで、アダプターの緑のランプがまだ光っていた。3ヶ月以上この部屋で電源アダプターだけが仕事を続けていて、持ち主の不在を気にかけた様子もない。
デスクの前を通り過ぎて、押入れの前に立った。引き戸に手をかけると前回と同じように木枠がゆがんで引っかかり、力を入れると乾いた音を立てて開いた。
上段に布団がたたまれていて、その横に段ボール箱がある。ガムテープは前回はがしたままで、フラップが少し浮いていて、押入れの中の埃っぽい空気と一緒に段ボールの匂いが降りてきた。
箱をフローリングの上に下ろして、膝をついた。
◇
フラップを開くと段ボールの中は前回と同じ順でおさまっていて、自分が戻したとおりに薄黄色の綿生地が最初に見える。
給食袋を取り出した。
スマートフォンを出してサイトのスキャン画像を開き、画面の中の給食袋と手の中の給食袋を並べた。画面の画像は720ピクセル四方のJPEGで、巾着の紐が白い線として写り、布地の色は液晶のバックライトに照らされた薄黄色をしている。ステッチの位置と紐通し口の形も、手の中の実物と同じだった。
薄黄色の綿に指の腹を当てると、布目が指紋に触れる。洗濯を繰り返して生地が薄くなっていて、巾着の紐の先端では綿の繊維が1本ずつほどけている。画像では白い線にしか見えなかったものが、触ると繊維の1本1本に分かれる感触だった。
同じものだ。
画像を拡大して布の端のステッチを確認しながら、実物のステッチに指を沿わせた。ミシン目の間隔ごとにおうとつが指紋に触れて、針が通った穴の連なりを指先がなぞっていく。ミシンの送り歯が布を引いた痕跡が、14年経っても残っている。
布に顔を近づけた。
段ボールと埃の匂いの下に、かすかに別の層がある。洗剤の残り香ではなかった。布そのものが発する乾いた繊維の匂い——何年も密閉された空間に閉じ込められていたものだけが持つ匂いで、その奥にもうひとつ、甘くもなく酸っぱくもない形容できない微かなものが混じっている。この布を使っていた人間の痕跡なのか、箱の中の他のものが移ったのかは判別できなかった。
裏返した。
内側に名前タグの痕跡がある。長方形の輪郭が前回と同じ場所にあり、4辺に沿って糸穴が並んでいて、白い糸の断片がひとつ穴の中に残っていた。
指でなぞった。前回は「タグの跡がある」というデータを確認しただけで、今は指が糸穴のひとつひとつに触れている。穴の縁が少し毛羽立っているのは、タグを引きはがしたときに布ごと引っ張られたからだ。ミシンで丁寧に縫い付けたものを、別の手が力を入れて引きはがしている。穴の間隔から推測すると、ミシンのステッチは本体と同じ送り幅で、給食袋を作った人が名前タグも縫い付けて、別の人間がそれをはがしたことになる。
タグの跡の内側に、インクの転写痕がかすかに見えた。前回と同じで文字の輪郭までは読めないが、3文字分か4文字分の色の変化が布地に残っている。
スマートフォンを構えてフラッシュをオンにしてタグの跡を接写すると、画面に拡大された転写痕が映り、LEDライトの直射で布地のおうとつが影を作っている。1文字目は縦棒が2本、2文字目は曲線を含む形、3文字目は画数が多い。
読めない。転写が薄すぎる。ただ、名前の長さだけは確認できた——3文字だ。
スマートフォンをポケットに戻して給食袋を膝の上に置くと、画面の上のJPEGは720ピクセルの情報にすぎないことが手の感触ではっきりした。布地の色と形とステッチの位置をデータとして確認し、スプレッドシートに記録して、サイトの他のファイルと照合した。膝の上の給食袋は、重さがあり、匂いがあり、手触りがあり、温度がある。この布を裁って縫った人がいて、名前を書いたタグを付けた人がいて、毎日この袋に箸と歯ブラシを入れて学校に持っていった子供がいた。そしてタグをはがした人がいた。
サイトのスキャン画像と手の中の実物が、同じものを指している。
このサイトはフィクションではない。
◇
段ボールに手を戻した。
連絡帳を取り出すと、学校名の印刷された白い表紙が手の中にある。名前の欄は修正テープで覆われていて、その白さが微かに黄ばんでいた。画面上のスキャン画像では気がつかなかった変色が、実物の紙面にだけ14年分の時間として残っている。
ページを開くと、先生の赤ペンが目に飛び込んでくる。
「今日も元気にすごしました」
ページの上端に印刷された日付は14年前の4月だった。紙の端をつまんでめくると指先に紙の引っかかりがあり、角が1箇所折れていて、スキャンのフラットベッドに押し付ければ消えてしまう程度の、実物にだけ残っている情報だった。
先生のコメントを数ページ読んだ。「お絵かきが上手でした」「給食をぜんぶ食べました」と、1日ずつ丸みのある赤い字が紙の上に並んでいる。
連絡帳を閉じて箱に戻し、残りを確認した。通院記録の束と写真が3枚入っていて、赤いランドセルの写真は前回も見たものだが、子供の顔だけが修正テープの白い長方形で覆われている。
もう1枚、写真が底に張り付いていた。
桜の木の下に、女の子が立っている。顔に修正テープもぼかしもなかった。サイトの写真は全てぼかしがかけられ、USBの書類は全てマーカーで塗りつぶされていたのに、この1枚だけが顔をそのまま残している。
小さな顔だった。桜の花びらが散る中で、カメラの方を見ている。
写真台紙の欠番——15ページ中、8ページ目だけが存在しない。7ページ目は家族4人で9ページ目は運動会——その間にこの写真が入るはずだった。和彦はこの写真をpage_008としてアップロードするつもりだったのか。デジタルのどこにも、この子の顔はない。サイトにも、USBにも。段ボールの底のこの1枚だけが、14年前の子供の顔を残していた。
写真を裏返した。何も書かれていない。表に戻して、もう一度見た。桜と、女の子。
箱の底に、白い封筒が1枚あった。
前回は気がついていない。通院記録の束と写真に隠れて、段ボールの底に張り付くように入っていた封筒で、茶封筒ではなく白い洋封筒だった。便箋が入る程度のサイズで、表面にも裏面にも何も書かれていない。
封を開けた。
中から出てきたのは、薄いピンクの罫線が入った子供用の便箋だった。鉛筆の文字が並んでいる。ひらがなに漢字が混じっていて、筆圧が強く罫線の上を大きな文字が走っている。連絡帳と同じ書き手の字だった。書き慣れていない手が1文字ずつ丁寧に形を作ろうとした痕跡が、鉛筆の濃淡に残っている。
あて名が書いてある。
「おにいちゃんへ」
手紙だった。
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