カーテンを閉める
冷蔵庫のコンプレッサーが止まった。
夜中のどこかで止まって、朝になっても再起動しない。部屋が静かだった。エアコンもタイマーで切れていて、窓の外の通勤時間帯の足音だけが薄いガラス越しに聞こえている。
コーヒーをいれた。ドリッパーを洗うのが面倒でインスタントにしていたのがいつからだったか覚えていない。粉を入れて湯を注ぐと、シンクの排水口に茶色い輪ができているのが目に入る。拭けばいい。拭かない。
メールを開くと、受信トレイに新着が2件あった。1件はサブスクの請求通知で、もう1件は編集プロダクションのメルマガだった。クリスマス特集の企画会議の案内が届いているが、あて先は自分ではなくメーリングリスト全体だ。自分あてのメールは1通もない。
閉じた。
スプレッドシートを開いて経過日数の列を見た。黄色いハイライトの最後の行に自分の名前があり、経過日数の欄は6になっている。昨日は5だった。数字がひとつ増えているだけなのに、画面の明るさが少し変わったような気がした。
カメラロールに通知が来ている。
◇
スマートフォンを持ったまま、デスクに座って画面を開いた。
住宅街の写真だった。ブロック塀と電柱と2階建ての住宅が写っている。道路の左側に植木があって、根元に自転車が1台止まっている。前カゴにスーパーの袋が入ったままだ。ベランダにタオルが2枚干してあり、その奥の住宅の壁が画面の端まで広がっていた。
生活感のある通りだ。植木の陰に3輪車が見える。住宅の玄関脇に宅配ボックスが置いてある。誰かが毎日ここで暮らしている——それが分かる程度の距離で撮られた写真。
視線が奥に吸い込まれた。
通りの先にアーケードの入口がある。看板の文字が小さく写っていて、画面をピンチして拡大すると読めた。「桜ヶ丘中央通り」。
桜ヶ丘。
看板の下に赤いのれんが見える。のれんの右側に、青い看板。拡大を戻して全体を見直すと、アーケードの手前の角に中華料理屋がある。店の前に手書きのポスターが貼ってあって——「当店自慢」の文字がマジックで太く書いてある。
ここを知っている。
コンビニに行くときに通る商店街だ。自宅から歩いて15分くらいの場所にあって、駅の反対側に抜ける道の途中になる。あの中華料理屋で一度だけ餃子定食を食べたことがあり、ポスターの文字がにじんでいたのを覚えている。
Exifデータを開いた。GPSなし、カメラモデルなし、撮影日時だけが記録されている。11月17日午前2時14分——昨夜の午前2時だ。ゴミの日の前夜で、11時過ぎにゴミ袋を玄関の外に出して、そのあとシャワーを浴びてスプレッドシートを開き直して、いつのまにか寝落ちしていた。
3枚ともGPSが消されていて、カメラのモデル名も消されている。残っているのは撮影日時だけだ。消す手間をかけている。同じ人間が同じ手順で、特定につながる情報を消してから送っている。
写真ログに3行目を追加した。場所の印象の列に「桜ヶ丘中央通り(ほぼ特定)」と入力すると、一行目の「不明(知らない街)」、2行目の「既視感あり(チェーン店の看板)」に続いて3行のデータが並んだ。
モニターの前で、椅子の背もたれに押しつけられている。いつの間にか画面から離れていた。
スプレッドシートの過去プレイヤーのログを横目で見た。9人分の名前と13日の数字が並んでいる。写真は自分にだけ届いているのか。消えた9人にも同じものが届いていたのか。確認する方法はなかった。
◇
3枚目の写真をもう一度拡大した。左端の植木の向こう側で、木の幹と枝の影が重なっている。その影の中に縦長のシルエットがあって、肩と頭の輪郭に見えた。
マウスホイールを回して最大まで拡大すると、ピクセルが荒れて影の境界があいまいになった。肩の線に見えるものと頭に見えるものの比率が人間の体型に近いが、木の幹の太さと枝が作る影の角度を考えれば重なった枝の影だろう。パレイドリアだ。目が勝手にパターンを探している。
閉じて写真ログに戻り、備考欄に「背景左端に影。木の影と思われる」と入力した。
この写真がカメラロールに入った経路は、3枚目になっても分からない。AirDrop、iCloud共有アルバム、操作履歴——全部確認した。iPhoneに写真を書き込める既知の方法を全部試して、全部否定した。テックライターとして説明できる手段が、ひとつもない。
台所に行って水を飲んだ。蛇口の水が冷たくて、コップを持つ指が震えているのに気がついた。震えているのは寒さのせいだと思った。11月の水道水は冬の温度になっている。
◇
4枚目が来るかどうかで、パターンの有無が分かる。
規則性があるなら今日中にもう1枚届くはずだった。1枚目と2枚目は同じ日に届いていて、3枚目は翌日の朝だった。データが3点では判断できない。4点目が必要だった。
スプレッドシートの写真ログを眺めていた。場所の印象の列に「不明」「既視感」「ほぼ特定」と並んでいて、一行ごとに写っている場所が自分の生活に近づいている。
午後3時過ぎ、4枚目が届いた。
画面を開く前に指が止まる。数秒、通知バーの文字を見ていた。
開いた。
歩道橋が画面の左から右に横切っていて、その下にバスターミナルとタクシー乗り場が写っている。歩道橋の下にパン屋の黄色いひさしが見える。先月、真奈とそこでクロワッサンを買って、隣の公園のベンチで食べた。
写真の左端にあのベンチが写っている。ベンチの背もたれに、真奈が座っていた側のひじ掛けが見えた。
撮影日時を確認した。先週の土曜日だった。先週の土曜は買い物に出ている。あのロータリーを通って、隣の駅の改札を抜けた。何時だったか——Suicaの履歴を開いた。入場時刻が午後1時12分。撮影時刻は午後1時3分。9分前に、この場所で写真が撮られている。改札に向かって歩いていた自分の9分前に。
写真ログに4行目を追加した。「不明」「既視感」「商店街」「隣駅ロータリー」。
◇
4枚の写真をFinderで並列表示した。
左から順に目を移した。1枚目は知らない街の住宅街で、2枚目は少し近づいてチェーン店の看板が読める距離になっている。3枚目には行ったことのある商店街が写っていて、4枚目は月に一度クロワッサンを買いに行く隣の駅のロータリーだ。
Googleマップで確認した。1枚目の場所は特定できない。2枚目のチェーン店を手がかりに周辺を検索すると5キロ圏内に絞れた。商店街が直線距離で約2キロ、4枚目のロータリーが約1・5キロ。
縮まっている。
椅子がきしんだ。背もたれに体重がかかっている。データを分析するときはいつも画面に向かって前傾する。今は逆だ。画面から離れようとしている自分がいる。
◇
4枚のうち3枚が、外に出た時間帯の前後に撮られている。
コンビニに歩いていく自分の近くを、カメラを持った誰かが歩いていた。
テックライターの自分は、データが足りないときに結論を出さないことを訓練されている。不10分な証拠で記事を書けば事実確認の段階でつぶされる。だから「まだ分からない」と書いて、ファイルを保存する。それが正しい手順のはずだった。
MacBookのスリープボタンに手が伸びかけて、戻した。
スプレッドシートの経過日数の列が視界の端に見えた。6日目。残り7日。写真はすでに4枚届いている。明日届けば5枚目で、このペースなら13日目までにあと9枚届く計算になる。9枚分の距離をこの1・5キロの中で詰めてくるのか、それとも——。
真奈からのLINEの通知が画面の端で光っている。返信を打とうとして、やめた。
◇
日が落ちていた。
モニターの光だけが部屋を照らしていて、写真ログの場所の列に「不明」「既視感」「商店街」「隣の駅」と4つの言葉が並んでいる。
明日届くとしたら、次はどこが写っているのか。商店街が徒歩15分の距離で、隣の駅は電車1駅分で歩けば20分だ。もっと近い場所が写っていたら——最寄り駅になる。自分が毎朝通る改札の向こう側から、こちらを向いて撮られた写真。
椅子を回して窓の方を向いた。11月の夕方で、日はもう沈んでいる。窓の外にいつもの住宅街が見えた。ブロック塀と電柱と道路のカーブが、いつもと同じように並んでいる。3枚目に写っていた商店街はこの窓から歩いて15分の場所にあって、4枚目の隣の駅はもっと近い。
立ち上がってカーテンを引いた。このマンションに3年住んで、昼間にカーテンを閉めたのは初めてだ。
部屋が暗くなった。モニターの青白い光だけが残って、冷蔵庫が動いていれば聞こえるはずのコンプレッサーの音がない静寂の中に、自分の呼吸だけが聞こえている。
カーテンの向こうで、何かが動いた気がする。耳を澄ませた。風が窓枠を叩く音だった。パッキンが死んでいるこのマンションでは、風が吹くたびに窓がきしむ。いつもの音だ。
デスクに戻った。
3枚目の写真を開き直して、左端の影をもう一度見た。木の影だと判断した縦長のシルエット。肩と頭の輪郭。
拡大して、また閉じた。何度見ても同じピクセルだ。木の影か、人の影か、解像度が足りなくて判定できない。
備考欄の「木の影と思われる」を、消さなかった。断定していないのは、自分が断定できなかったからだ。もしあれが木の影ではなく人だったら——歩いて15分の商店街に、午前2時に立っていたことになる。
その思考を振り払った。カーソルを備考欄の外に移して、ファイルを保存した。
「思われる」は残った。
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