赤ずきんの、あまりに平和すぎる一日
その日、赤ずきんは朝から楽しそうに準備をしていました。
お母さんが焼いたパンと、少しばかり体に良いワインをバスケットに詰め込みます。
「いい、赤ずきん。森にはオオカミが出るっていうから、くれぐれも気をつけてね」
「わかってるわ、お母さん。でも心配なのは私よりおばあちゃんよ」
赤ずきんは、真っ赤な頭巾の紐をキュッと結びながら、しみじみと言いました。
「おばあちゃんったら、この前も自分でお茶を注ごうとして、手がプルプル震えていたもの。あんなに細くて、綿毛みたいにふわふわしたおばあちゃんだもの、もし怖いオオカミに遭ったら、驚いて気絶しちゃうわ。私、早く行って元気づけてあげなくちゃ」
赤ずきんが家を飛び出していくのを見送りながら、お母さんはぽつりと呟きました。
「……そうね。おばあちゃん、最近は『退屈だ』って言っていたものね。あまりオオカミが彼女を刺激しなければいいのだけれど……。いってらっしゃい、赤ずきん。森を壊さないようにね」
その頃、おばあさんの家。
一匹の空腹なオオカミが、首尾よく寝室へと忍び込んでいました。
「ヒヒヒ、ババアは寝てやがる。まずはこいつを丸呑みにして、後から来る孫娘を待つとしようじゃねえか」
オオカミはベッドに飛びかかり、布団の上から老婆の頭をガブリと噛みました。――しかし。
「――がふッ!? ガハッ、ゴホッ!?」
噛んだ瞬間に、牙に凄まじい反動が襲いました。鋼鉄の塊を噛んだかのような衝撃。それどころか、口の中の「老婆の頭」が、みるみるうちに巨大化し、オオカミの下顎を力尽くで押し返してきたのです。
「……あいたたた。最近の若いのは、挨拶もなしに人の寝所に飛び込んでくるのかい?」
布団がゆっくりと剥がれ、そこから一人の老婆が起き上がりました。しかし、その姿はオオカミの想像とはかけ離れていました。
「な、なんだ……? おい、おかしいだろ!?」
オオカミは腰を抜かし、尻もちをついたまま後ずさりました。
おばあさんが深呼吸を繰り返すたびに、老いた皮膚の下で、まるで大蛇がのたうち回るように筋肉が膨張していきます。
「おいババア……なんだその腕は! さっきまで枯れ枝みたいだったのに、なんで今、俺の胴体より太くなってんだよ! 服が悲鳴を上げてるじゃねえか!」
「おや、よく気づいたねぇ。これは一子相伝『赤嶺流』の呼吸――。鍛錬を積めば、細胞の一つ一つが『戦いの意志』を持つようになるのさ」
「なるわけあるか! 細胞に意志を持たせるな!!」
おばあさんの背骨がパキパキと音を立てて伸長していきます。影は壁を伝い、天井を這い、ついには部屋全体を覆う巨大な「怪物」のシルエットへと変貌しました。
「ま、待て! なんで背丈まで伸びてんだ! なんで今、天井に頭がめり込んでんだよ! ミシミシ言ってるぞ、家が!」
「ホッホッホ。視界が変われば、見える景色も変わる。お前がただの『少し喋るだけの害獣』に見えてきたよ」
身長二メートル二十センチ。首から下は、鋼鉄のワイヤーを編み込んだような筋肉の巨塔。しかし、その頂点に乗っているのは、先ほどと変わらぬ「穏やかで優しげな老婆の顔」。オオカミの理性が完全に焼き切れました。
「ヒッ……! 来るな!」
逃げようとするオオカミの眼前に、壁のような厚みの「何か」が立ちはだかりました。おばあさんの拳です。
「待て……最後にもう一つだけ聞かせろ! なんで、なんでそんなに拳がデカいんだよ! それ、もう人を殴る道具じゃねえだろ! ……っていうか、お前のようなババアがいるかぁぁぁぁ!!」
「ホッホッホ……。お前が知っている世界の狭さを、その身で呪うがいいよ」
「ひぎゃあああああああああ!!」
ドゴォォォォォォン!!
暴力的なまでの拳圧。オオカミは家を突き破り、空高くへと消えていきました。
それから数分後。
「おばあちゃーん、お見舞いに来たわよー!」
赤ずきんがのんびりとドアを開けました。
室内には砂埃が立ち込め、壁にはなぜか見事な「オオカミの拓」が取られた大穴が開いています。しかし、その中央には、いつものように小さくて可愛らしいおばあちゃんが、のんびりと椅子に座っていました。
「あら、赤ずきん。ちょうど今、お部屋の換気をしていたところだよ」
「もう、おばあちゃん。換気にしては大胆すぎるわ」
赤ずきんは呆れたように笑って、バスケットをテーブルに置きました。
「あら? おばあちゃん、そのパジャマ。袖がボロボロじゃない。どうしたの?」
「ああ、これかい? さっきね、少しばかり『自分を大きく見せよう』としたら、弾けてしまってねぇ。年を取ると、なかなか加減が難しくて」
「ふふ、おばあちゃんたら。見栄を張らなくても、おばあちゃんは世界で一番素敵よ」
赤ずきんはおばあちゃんの震える(ように見える)手を取り、優しくワインを注いであげました。
「おばあちゃん、お手てが震えてるわ。やっぱり私がいないとダメね。はい、元気が出るプロテイン入りワインよ」
「ありがとうねぇ。赤ずきんは本当に優しい子だね」
おばあちゃんは、一口でワインを飲み干すと、床に転がる「粉々になったオオカミの牙」を、孫に見つからないよう素足で砂利のように踏み潰して隠しました。
「あ、そうだ。おばあちゃん、来る途中で大きなワンちゃんが空を飛んでいくのを見たわ。最近のワンちゃんは元気ね」
「ホッホッホ。きっと、何かいいことでもあったんだろうねぇ」
二人は窓から見える、のどかな森の景色を眺めながら、仲良くパンをかじるのでした。
今日も森は、赤ずきんの知らないところで、とても平和に守られているのでした。
(おわり)




