1.クロキ
資本主義の解体は50年前——バブル崩壊、AI革命、生命操作技術の爆発的進化が交錯した時代に起きた。そして、真空状態となった世界経済は、新たな価値基準を創出した。
人が、人そのものが「通貨」となる世界。
"人本位制" そう呼ばれる経済システムの下で、人々は息をするだけで経済を動かしている。
1.クロキ
夜明け前、ネオンの残像がまだ網膜に焼き付いている5:58分。 スマートロックが低音で「カチッ」と鳴り、クロキの端末が青く発光した。バイブレーションが腕に伝わる。
「ベーシックユマ:支給完了」
いつもと同じ額。呼吸するには十分、夢を見るには不十分な数字。 293.45ユマ。
「生存最低線。今月も、か」
クロキ、28歳。職業:人口庁サブデータ課・パターン認識エラーの手動修正オペレーター。 住所:第17居住タワー・ユニット241。
彼が住むのは、垂直に積み上げられた箱の一つ。単身者用ブロック、17層目。 高さ300メートルの巨大な蜂の巣——各部屋は一辺が2.4メートルの完全な立方体。 白いジェルコート壁、防汚性ナノコーティングの床、自動調整LEDライト。 キッチンユニットとシャワーブースは壁に埋め込まれ、使わない時は存在を消す。
窓はない。代わりに壁一面がスクリーンになっていて、好きな風景を投影できる。クロキは何も映さない。空虚な白さが似合っている気がした。
彼の仕事場は地下8階。太陽を見ずに一週間が過ぎることもある。 仕事内容は単純。AIの認識エラーを手動で修正するだけ。 文字通り「機械の失敗を拾う」下請け労働。
「どうせAIが99.9%正確なら、俺みたいな人間はエラーの対応で十分だ」
そう自分に言い聞かせる。接客もなく、チームワークもなく、評価もない。 個室のキュービクルに座り、ひたすらエラーパターンを直すだけ。 それでも、誰とも話さなくて済むのが唯一の救いだった。
朝食はリマソーセージ。合成たんぱく質の棒を電子レンジで温める。 灰色の物質が次第に肉の質感を模倣していく。 味はない。栄養素だけが計算されている。
端末に表示された自分の資産状況を眺める。 「293.45ユマ」 「医療保険特別納付:280.00ユマ(支払期限:14日後)」 「残高予測:13.45ユマ」
そして、画面の左下に常に表示されている小さなアイコン。 「出産権売却市場:現在価格 20,000ユマ〜」
指先がそのアイコンに触れそうになる。 だが、まだ決断できない。
クロキは「出産権」を一つ持っている。 成人した全員に与えられる「命を創る権利」。 一人に一つだけ。売ることもできる。高額で取引される。
ホログラム広告が壁に勝手に表示される。 「あなたの出産権、最高価格で買取します!」 「子供のいる生活を始めませんか? 出産権ローン、24時間審査!」 「体を売らず、未来を売る——出産権の賢い売却法」
クロキはそれらをスワイプで消す。
隣室からは、相変わらず酒瓶の転がる音が聞こえる。 ヤナギ。40代。十年前に出産権を売った男。 部屋からは常に酒と煙草とシンセドラッグの混じった匂いが漏れ出している。 深夜に吠えるような笑い声。朝に聞こえる乾いた咳。
壁は薄い。その生活音が伝わってくるたび、クロキは考える。 「あれが、出産権を売った先の人生か」
俺はまだ売っていない。 だが、それは高潔さでも希望でもなく、ただ「決めきれていない」だけだ。
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