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レーヴェンシュタインは空になった飯椀を見て、自分が何をしでかしたのかを悟った。商人専門のアカデミーを卒業し、これまで着実にキャリアを築き上げてきたこの自分が、体面も忘れ飯椀を三つも空にしてしまったのだ。これで侮られはしないだろうか、今後の取引に支障をきたしはしないだろうか。様々な懸念が彼の心をよぎった。
「これは失礼いたしました。面目次第もございません。こちら、素晴らしいおもてなしへの心ばかりの礼でございます」
「いやはや、お金など結構ですよ! わしも領主様のお陰で米なら山ほどありますし、むしろ持て余しているくらいですからな」
「いえ。これほどのもてなしを受けて謝礼をせぬは、商人としての矜持が許さないのです。私の為にも、どうかお受け取りください」
「商人の方がそこまでおっしゃるなら……」
村人は銀貨を一枚受け取った。彼がもてなした食事は、せいぜいニシンの塩焼き二匹と飯三杯がすべてであったため、銀貨一枚はかなり破格の金額であった。最初はあまりに高額なため断ろうとしたのだが、商人の矜持に関わることだと言われては、受け取らざるを得なかった。
「ありがとうございます。ありがたく使わせていただきます」
「ご馳走になった」
レーヴェンシュタインは静かに立ち上がり、再び馬車に乗り込むと、領主の下へと向かった。外へ出てみると、護衛の兵士たちが何とも言えない表情でレーヴェンシュタインを見つめていた。
「何か用か?」
「あ、あの、殿。」
「む? 何だ?」
「口の周りに、白いものが付着しております。食べ物かと存じますが……」
「あっ! いかん!」
レーヴェンシュタインは素早く背を向け、慌てて口元を拭った。普段の彼ならば、あり得ない失態であった。
キャラバン(隊商)の一行が領主の城に到着したのは、それから数十分後のことであった。立派な身なりの護衛数名と荷馬車が到着すると、村人たちと兵士たちが入り混じって歓声を上げた。
ヴァルデンブルクという大都市で暮らしてきたレーヴェンシュタインにとって、この城は城と呼ぶのもはばかられるほど小さく、みすぼらしいものだった。だが、それだけで侮ることはできなかった。『米』という正体不明の作物。そして、村人たちの目に宿る活力と希望。――確かに、ここには『何か』がある。
城門の前には、白髪の老騎士が槍を手に、微動だにせず立っていた。その眼光は鋭かったが、村人が事情を説明すると、特に制止することなく一行を中へと通した。
領主の城の内部は、外観と同様に質素なものであった。華美な装飾はなく、実用的な家具が置かれ、廊下を行き交う使用人たちの姿も、忙しない中にもどこか温かみが感じられた。村人はレーヴェンシュタインを小さな応接室へと案内した。
しばらくして、扉が開き、一人の男が入ってきた。がっしりとした体躯に、農夫のように日焼けした顔。しかしその眼差しには、聡明さと共に、何か深い懊悩のようなものが宿っているように見えた。レーヴェンシュタインは直感した。この男こそがシュヴァルツフェルト男爵、アルブレヒトであると。
「遠路、ご苦労であったな。『鉄塩商会』のレーヴェンシュタイン殿と伺っている。儂はこの地の領主、アルブレヒト・フォン・シュヴァルツフェルトだ」
アルブレヒトは落ち着いた声音で名乗った。典型的な田舎貴族の訛り。だが、その佇まいには、言葉では言い表せない威厳が漂っていた。実際にまみえるまでは分からなかった――会頭がこの男を信頼する理由が、今、レーヴェンシュタインには理解できた気がした。
「お目にかかれて光栄です、領主様。道中、領民の方に素晴らしい食事をご馳走になりまして。我が人生においても、指折りの経験でございました」
エリート商人を自負するレーヴェンシュタインですら、これほど美味なものを口にする機会は滅多になかった。レーヴェンシュタインは心からの敬意を込めて一礼し、アルブレヒトはかすかに口元を綻ばせた。
「レーヴェンシュタイン殿に気に入っていただけたのなら何よりだ。お望みなら、帰り際に取引品とは別に、米をいくらかお土産にお渡ししよう」
「では、お言葉に甘えさせていただきます。よろしくお願いいたします」
「もしよろしければ、我々が販売しようとしている米を、直接ご覧になるか?」
「もちろんです。現物を確認できる機会をいただけるのであれば、感謝に堪えません」
アルブレヒトに案内されてたどり着いた倉庫の前で、レーヴェンシュタインは息を呑んだ。巨大な倉庫がいくつも、床から天井まで、真っ白な米俵で埋め尽くされていたのだ。ほのかに漂う炊きたての飯の香りと共に眼前に広がる圧倒的な物量は、彼の想像をはるかに超えていた。
「米俵を一つ……開けてみてもよろしいでしょうか?」
人口三百の片田舎でこれほどの食料が生産されるとは常識では考えにくかった。アルブレヒトがそのような人物とは思わないが、万が一、誰かの差金で土くれでも混ぜられていないか、確認しておきたかったのだ。
「無論だ」
レーヴェンシュタインは無作為に選んだ米俵を二つほどき、中身を検分した。均質な品質の、真っ白な米粒が姿を現す。
(――美しい……)
これを炊けば、あの美味なる飯になるというのか。感嘆したレーヴェンシュタインは、俵を再びしっかりと結び、元の場所へ戻した。
「確かに確認いたしました。米の状態は、極めて良好ですな」
「うむ。我が領地の誇りだ」
「それにしても、これほどの量が生産されるとは……よほどの豊作だったのでしょうな?」
「ああ、それは違う。米という作物は、麦よりもはるかに生産性が高く、豊作でなくともこれだけの量を収穫できるのだそうだ」
「…………」
にわかには信じがたい話だった。三百人の農民が、これほどの穀物を毎年生産できるだと? それは単なる『優れた作物』というレベルではない。世界の歴史を塗り替えかねない、革命だ。レーヴェンシュタインは悟った。――これは、何としても手に入れねばならない。自分は今、歴史の岐路に立っているのかもしれない。この米をどれだけ確保できるかで、我が商会の、いや、世界の運命すら左右されるかもしれないのだ。
ようやくレーヴェンシュタインは、この任務の真の重要性を理解した。これは……単なる取引ではない。自分にしか成し遂げられない、重大な使命なのだ。
(――会頭の先見の明は、やはり常軌を逸している)
かつては小さな組織だった『鉄塩商会』をここまで育て上げたジョルジュ会頭への尊敬の念が、自然と湧き上がってくる瞬間だった。
「それで、領主様は……買値を一俵あたり、銀貨何枚とお考えでしょうか?」
麦ならば、一俵あたり銀貨1.5枚といったところか。二俵で3枚程度。だが、この米は格段に美味い。これまで存在しなかった作物であり、領主や貴族たちが美食に目覚め、高値で買い付ける可能性は十分にある。それらを考慮すれば、市場価値は最低でも銀貨5枚、最大で8枚程度にはなるだろう、とレーヴェンシュタインは冷静に弾き出した。
一方、アルブレヒトは、そんなレーヴェンシュタインの様子を窺いながら、読み取れない表情で静かに思案に耽っていた。やがて意を決したように、重々しく口を開いた。
「――銀貨、1.5枚」
「えっ?」
予想外すぎる価格に、レーヴェンシュタインは思わず間の抜けた声を上げた。
「そ、それは……どういう……?」
「麦と同じ価格で売るつもりだ」
「アルブレヒト様、恐れながら、この米の価値をご存じないのでは……」
「価値が高いことは承知している。その上で、1.5枚と言っているのだ」
「……何故、です?」
理解不能だった。莫大な利益を生む機会を、自ら蹴飛ばすようなものだ。しかし、続くアルブレヒトの説明は、レーヴェンシュタインの価値観を根底から揺るがすことになる。
「俺が高値に売ったら、商会ではそれ以上高値をついて莫大な利益を得る。そうなると一般人は想像もできないほどモノの値段は高くなる。」
「つまり…」
「そうだ。儂からの個人的な頼みだ。『鉄塩商会』がこの米を買い付けるのであれば、儂が値を下げた分、そちらでも良心的な価格で販売してほしい。すべての人々が、等しくこの米を味わえるように」
「…………」
再び、会頭の先見の明が脳裏をよぎった。会頭は、単に米という新たな作物の可能性を見抜いただけではない。アルブレヒトという人物そのものの価値をも、見抜いていたのかもしれない。
レーヴェンシュタインは複雑な思考を整理し、最大限の敬意を込めてアルブレヒトに向き直り、深々と頭を垂れた。「領主様の深遠なるお考え、しかと拝察いたしました。その価格、我々『鉄塩商会』、喜んでお受けいたします。そして、決して暴利を貪ることなく、良心的な価格で販売するよう、必ずや会頭に進言いたします」
その声には、興奮と共に、心からの敬意が滲んでいた。
「良き決断だ、レーヴェンシュタイン殿。」
アルブレヒトは満足げな笑みを浮かべ、手を差し出した。レーヴェンシュタインは微塵の躊躇もなく、その節くれだった、しかし力強い手を握り返した。日に焼けた農夫のような領主の手と、洗練された都市の商人の手が固く握り交わされた瞬間、歴史の新たなページが開かれるかのような予感が、二人の間に漂った。