クラゲ・スペクトル
部活の練習から逃げ出した。変わり映えしない練習に飽き飽きしたからだ。みんなは練習をやっているふりをして時間を浪費している。譜面をただ無心に追っている。それよりもわたしはもっと、音楽表現というものを突き詰めてみたかった。それを行うには、まず音楽室から抜け出す必要があった。
ユーフォを取り出して、斜めに差す紅光につられて窓際へ向かう。今日は早めに学校が終わったから誰もいなかった。知らない女子が喋りながら下校していた。わたしもはやく帰りたい。
「クラゲ、先生が探してる」
振り返るとサカナがいた。最近はネコを飼い始めたとかいう話である。いつか食べられてしまわないか心配だ。部活ではトランペット担当で、わたしよりも真面目ちゃん。真面目ちゃんなんだけど、なんか知らんけどゆるゆるしている。ぽやぽやしている。ぼけー。
「ちょっとお花摘みに……」
「サボってただけでしょ。ほらほらレリゴー」
「あと五分」
「……」
サカナはあきれた目で見てくる。黒く流れる髪が風にゆれた。
「クラゲってさ、やればできるんだからやれば良いのに」
「やればできるからやらなくて良いんだよ」
「言われてみればそうかも。あれ?」
ちょろ可愛いやつだ。
サカナとはもう2年の付き合いになる。入学のときに知り合って、それからずっと同じクラス。窓の外を眺める瞳は、最初に出会ったときよりも美しく見えた。目下には田舎の住宅街がひろがっている。太陽が山の裾野へゆっくり沈んでいくのを二人でじっと見つめていた。
「わたしはたまに、クラゲが羨ましい」
「え、急になに」
「べつに」
電灯がつき始めたとき、サカナがあっと声をあげた。
「もう解散時間じゃん」
「一緒にサボっちゃったね」
「クラゲのせいだからね」
だれもいない廊下をサカナと駆けた。長い廊下がどこまでも続くようだった。蛍光灯の長い影がずーっと伸びている。音楽室についたころ、部活はもう終わっていた。先生が音楽室から出てくる。
「どこ行ってた」
「あー、お花摘みに……」
適当に誤魔化して女子更衣室にはいる。あの先生は苦手だ。なにかにつけて努力努力と連呼する。そんなことしなくても、このまえのコンテストでは優勝したのに。
ジャージを脱いで制服を着る。すると髪留めがない。
「リボン知らない?」
「知らない」
サカナは一緒に探してくれた。このやさしさが懐かしい。
椅子の下にも、ロッカーにもない。埃ばかりが散らかっている。なんだか無性に焦ってきて、椅子に顔を突っ伏せた。サカナはそっとわたしの背中をたたいた。
「クラゲ、わたしのシュシュ貸したげる」
「でも、大切なシュシュって前言ってたし」
「クラゲだから、特別」
サカナはさっとシュシュを外してわたしの髪をまとめた。焦っていた心がすっと落ち着いて、サカナの吐息だけがやけに大きく聞こえた。
「ねぇ、サカナ」
「……?」
わたしはサカナをぎゅっと抱きしめた。柔らかかった。
「好きだよ。大好き」
「わたしも」
「サカナ、うぅ……ひぐ。えっ」
「もう、泣かないの!」
「だってぇ」
サカナの好きは、わたしの好きとは違う。
―=*=―=*=―=*=―=*=―
サカナの家に遊びに行くと、黒いネコが歩いてきた。
「ひさしぶり。ミミにゃ」
「なるほど」
壁際の水槽の中にはそら豆がただ浮かんでいた。サカナが自慢していたっけ。カレンダーは先月のまま変えていなくて、ちょっと意外である。いや意外でもないかもしれない。サカナはどうせ気づいていないだけだ。雲みたいなお魚さん。
和室の後ろにはラジオがなっている。ふーむ、これはドビュッシーのRêverieかな。ミミに案内されてこたつに入ると、サカナがぽやぽやしながら寝ていた。ミミが上に乗るとそっと目を開けて、なんどかパチパチさせる。
「来たんだ」
「シュシュ返しに来た」
「ちょっとまってて、みかんとお茶持ってくる」
そうやってサカナは台所に逃げて行った。
よく考えると、ミミに先を越されたらどうしよう。だって同棲してるし、仲よさげだし。だんだん心配になってきて相談してみると、全然大丈夫そうだった。
「姉妹みたいなものだから。そーゆーのじゃない」
「えー、でも」
「サカナをそんな目で見てるのはお前ぐらいにゃ」
冷めた目を突き刺してくるので、とりあえず信じておくことにした。
「そんなことより、うしろ」
「……何かあるの?」
振りかえると、サカナが目をまんまるくしていた。
聞かれてた、いつから、どういう。
「クラゲ、わたしのこと好きなの?」
「あ、えーと、その。あはは」
どうしよう、頭が回らない。
みかんと紅茶がこたつのうえに置かれて、サカナが座った。ラジオの音楽が虚しく響いている。時間がその倍音で震えているように、ひどく不安定に感じられた。
「あんたら両想いにゃ」
「ちょ!!」
え!?!!?!?!?!?!!?!!?!?!?!?!???!!!?!?!??!!!???!?!?!??
「つ、付き合う?」
「ふつつかものですが」
なんかわたしの初恋、一話もしないで実っちゃったらしい。サカナの水面みたいな瞳がうるうるしていた。きっとわたしもそう。なんとなく難しくなって、みかんを食べた。ほんの少し酸っぱかった。
「めでたしめでたし。にゃ」
―=*=―=*=―=*=―=*=―
朝起きて、空に浮かぶ水面を見る。結晶のような泡がまだ星みたいに残っていた。
昨日のことがまだ信じられないみたいで、布団の中にもぐってわーっと叫んでみた。
「学校いかなきゃ」
パジャマを脱いで、制服に着替える。髪の毛を整えたり、ほかいろいろ。ぜんぶ身に力が入らない。鏡の奥からやさしい低音が響いていた。あのあと、サカナ達とは何気ない話をした。シュシュは貰ってしまった。折角なので使う。ありがたやありがたや。準備が終わってドアを開けると、サカナ。
「おはよー」
「なんで居るの?」
「だってもう彼女だし」
どっちが彼女よ。とツッコミを入れながら、とりあえず学校に歩きだす。
見慣れた通学路が輝いていた。田んぼですら、地の底ふかくの暖かさが地上にまで輝いて立ち上ってきた。つめたく澄んだ空気は余白みたいにサカナの暖かさを引き立たせた。
「手とか、繋いじゃったりする?」
「繋いじゃったりするかも」
あたたかくて細い指が手袋ごしに伝わる。冬だったのが悔やまれた。けれどその確かな温度と感触は、夏に劣らずサカナの存在を伝えていた。わたしはその奥から薄く伝わる鼓動を見つけて、ゆっくりにぎにぎしてみる。にぎにぎが帰ってきた。
「ジャスミンみたい」
「……?」
やっぱりよくわからない女だ。
やがて学校に近づくと、同じ制服を来た人間たちが増えてくる。なんとなく恥ずかしくなって、それでも手は離さなかった。ことさらにつないでいた理由は言うまでもないだろう。
「そういえば、ミミとは一緒に登校しないの?」
「なんか、今日は友だちと行くんだって」
「気を遣わせちゃったかな」
「こんど、高級ねこまんま入荷しようかな」
時計の針がチクチク動いていた。その音がだんだん信号と同期してきて、すこしずつ離れていった。そのサイン波みたいな挙動に底しれぬ親近感を覚えて、やっぱり恥ずかしくなってサカナの顔を覗き込む。くちびるがまだ遠く離れて見えた。
それでいいなと頷いてみた。
「サカナ」
「なーにー」
「ずっと手、つないでて」
「わーお」
そのあとサカナは、授業が始まるまで手を繋いでいてくれた。
―=*=―=*=―=*=―=*=―
今日もわたしは部活の練習から逃げ出していた。今日もパートの皆は曲を通して練習して、中身がなにも改善しないままやった気になっている。喫緊の課題はパートで揃わないことではなく、個々の技術量が低いことなのだから、なんだかなぁって感じ。
なんと今日はわたしのために練習メニューを作ってきたのだ。その名もクラゲメソッド。いま名前をつけた。というわけで夕日に照らされながらリップスラーを始める。
「てれれれてれれれてれれれてーーー。てれれれてれれれてれれれてーーー。てれれれてれれれてれれれてーーー。てれれれてれれれてれれれてーーー。てれれれてれれれてれれれてーーー。てれれれてれれれてれれれてーーー。てれれれてれれれてれれれてーーー。てれれれてれれれてれれれてーーー。」
みたいなのをしばらく続けていると、サカナがやってきた。
「わたしも教室使っていい?」
「いーよー」
「ってか許可取ってる?」
「もちろん」
これは本当。帰りの会のあと、ちゃんと先生にOKを貰った。
「パートの子たちはいいの?」
「なんか揉めてた。部長が自主練でいいって」
「へー。人数が多いと大変だね」
「わたしはクラゲと一緒にいられるから良いけど」
サカナは譜面台を組み立てながら椅子に座る。流れるような動作だった。
「てーーーーーーーーーーーーーーー。。。。てーーーーーーーーーーーーーーー。。。。てーーーーーーーーーーーーーーー。。。。てーーーーーーーーーーーーーーー。。。。てーーーーーーーーーーーーーーー。。。。てーーーーーーーーーーーーーーー。。。。てーーーーーーーーーーーーーーー。。。。」
「てれれれてれれれてれれれてーーー。てれれれてれれれてれれれてーーー。てれれれてれれれてれれれてーーー。てれれれてれれれてれれれてーーー。てれれれてれれれてれれれてーーー。てれれれてれれれてれれれてーーー。てれれれてれれれてれれれてーーー。てれれれてれれれてれれれてーーー。」
それから2時間ぐらい一緒に練習した。その間、とくに何もなかった。
いや、なにかしたかったんだけど。ほぼ個人でやってたし、いま同じ動きしてる曲もないし。やがて練習が終わる十分前ぐらいに、サカナが寄ってきた。
「ねー、ユーフォ吹いてみても良い?」
「いーよ。あ、じゃあわたしトランペット吹いてみたい」
「うす」
サカナからトランペットを受け取る。まだ生ぬるかった。てか間接キスだし。マウスピースに口を当てると、サカナの息の温かさなんだと意識してしまう。なんかわたし、ちょっとキモいかも。
息を入れてみる。う、出ない。
「sshhhbbbhhbhbhぶおふぁわあああーーーーー」
「っぷ、あはははははは!」
「え、笑わないでよ!」
ごめんごめんとサカナが笑う。そのあとサカナも初めて吹く中学生みたいな音を響かせていた。大いに笑ってやった。でもそのままキラキラ星を吹き始めたので、わたしも追いかけて吹いた。窓の外はもう暗く、まばたきをするみたいに星がまたたいていた。
「そろそろ終わりにしよっか」
「あと5分じゃん。やばやば」
まただれもいない廊下をサカナと駆けた。なんだか走っているうちに楽しくなってきて、ぜんぶどうでも良くなった。音楽準備室に楽器を片付けながら、先生に遅いぞーと怒られた。
「来週からテスト期間だから、部活はない。なので譜面を4つ配る。来年の課題曲だ。来週には吹けるようにしてこい」
テスト勉強できないじゃねーか。ともあれ部活が終わって帰ろうとすると、サカナが教室にペンを置いてきたみたいだった。取りに戻る。
「ごめんね、わたしのために」
「べつにいいけど」
サカナは教室についてから窓の外を見た。そうして振り返って、わたしをじっとみる。
「ねぇ、クラゲ」
「……?」
サカナはわたしをぎゅっと抱きしめた。柔らかかった。
「だましてごめん、ぎゅってしたくて」
「もー、しょうがないなぁ」
「好きだよ。大好き」
「わたしも」
しばらくしてから、ようやく家に帰った。途中、公園の自動販売機でカフェオレを買って、家に帰ってから廊下の壁に寄りかかる。窓の外を見ると、ひときわ大きく輝くシリウスが、波打つ水面の奥から、なつかしい光を落としている。楽器の光沢に似ていた。
次回予告:
サカナ「次回は……」
クラゲ「ねえ、もっかいぎゅーしない?」
サカナ「ちょっと待って、次回は……」
クラゲ「お願い」
サカナ「ぎゅー。これでいい?」
クラゲ「ぱぁー!」
サカナ「次回は(文字数