番外 名前を呼ぶのは難しい
◇
私はやっぱり困っていた。そしてやはりお兄様に抱きこまれている。
「お兄様」
「エルセルトだ」
呼び名を変えるように言われているのだけれど、お兄様の名前を自分が口にするのがてれくさい。ずっとうやむやにしていたのだけれど──
今まで散々お兄様と言ってきているし、やっぱり気恥ずかしい。
「エルセルトだ、ラーリア」
抱き寄せたまま、顔を寄せてくる。
私は顔を隠すように俯いた。でもそれくらいじゃあ、顔が赤らむことが隠せない。
「お兄様ではだめですか?」
ちらりと見上げた私に、お兄様は首を横に振る。
「兄じゃないだろう? 私はお前の婚約者になったのだから」
結局、さくっと婚約は成立した。根回ししていたのかな? くらい早かった。私は部屋から出ることが出来なかったから、どういうかんじになっていたかわからない。
両親共々了承済ならそりゃ早く話は終わるかもしれないけれど。
そして、両親とも私は会っていない。気配もないなと思っていたけれど、どうも離れた領地の別宅に住んでいるらしい。
なら私には会いにいけない。物理的に出ること出来ないし。
そしてこの夢、覚めないままなのか、覚めてしまうのか、それとも……様々に思いながらも、お兄様、いえ、エルセルト様と共にいる。
もしかすると次の瞬間には私が消えてしまうかもしれないですよ? 何度となくそう伝えても、私を強く抱きしめて、決してお前を離したりしないよと耳元で囁く。
私のいるここに、誰も入れないように何かわからない結界みたいなものまで張り巡らせているみたいだけれど。魔法もチートだからなぁ。
他の攻略対象達が屋敷までお見舞いに来てくれたのに、入れないようにしていたっけ。
何故か戦いが始まりそうになった時には、やめてくださいと必死でお兄様を止めたけれど――結局ちゃんと会わせて話をさせてもらえなかったな。
結婚の準備も進められている。ふたりきりでいいよね?
ラーリアは私のだとは言いたいがその姿を誰かれなく見せたいとは思わないとか言い出しているし。
まぁ私も大勢の前とか怖いし、見世物は嫌かもだから頷いたけれど、そんな訳にもいかないのじゃないかな?
しかし、夢から現に戻るそれまで防ぐことが出来るものだろうか? そういうものを編み出し張り巡らしているのだろうか?
幾らチートレベル高くても、ありかな? それ感はする。
婚礼の儀式で一緒に魂レベルで結びつければいいかみたいな話を普通にしていて、どうなってるの? と頭を抱えそうになった。
エルセルト様ならするんじゃないかな。
それが嫌だとか思わないし、こんなふうに好きを表現されていて、それはてれくさいけれど嫌ではないし。
まぁ私は監禁ラッキーハッピーとは思わないかな? だけれど──夢だと思っていたけれど、そもそも現世に私の体はあるのだろうか。
本当にあったのかわからなくなるくらいに、うすぼんやりしてきている元の世界だと思っている私の記憶。どんどん私の中はお兄様いや、エルセルト様でいっぱいに塗り替えられていくようで……。
「ラーリア」
思考に気を取られていた私の意識が外界に向いた。気がつくと私の頬をエルセルト様の両手が触れていて、そっと上を向かせるように動いて離れた。
「少し試してみてもいいかい?」
「? 構いませんけれど?」
手首を軽く掴まれる。
瞳を閉じてエルセルト様は複雑な呪文を唱える。さっぱりわからないが、歌うような声が耳に心地よくて。どんな魔法なのか、青い光が満ちていて、それを纏うようなエルセルト様は見惚れる美しさで、私はついうっとりと見つめていた。
「ラーリア」
目の前で長い睫毛に覆われた形良い瞼が開き、吸い込まれるような綺麗な薄紫色の瞳と出会う。エルセルト様は言葉を重ねた。
「やはり、夢ではなくラーリアの中に眠っていたお前が目覚めたのではないか。転生? 今は覚醒して融合している」
私に向けて優しく微笑むお兄様。
「夢ではなく?」
お兄様は何をどう見たというのだろうか。そんなことまでわかるような魔法ってあるものだろうか?
何でもありすぎるけれど、お兄様がそう言うならそうなのだろう。
お兄様は私の手首を握りしめたまま顔を近づける。
「夢であれお前を離す気などなかったが、気になったから、わかるかためしてみた。別の世界の記憶があるかもしれないが、お前は私のラーリアだ」
間近に端正なお顔。磨き抜かれた宝玉のような瞳に見つめられる。
夢だと思っていたけれど、覚醒? 夢ではなく? もしかして起きてしまえばお兄様とは会えなくなるとか思わなくてもいいってこと?
混乱している私を見つめ、
「ラーリア、もう心配しなくてもいい。どこにもさらわれたりはしない。お前を離しはしないから。早くわかればよかったのだが、私もこういうのは初めてで中々時間がかかってしまったよ」
そう言って微笑むお兄様。優しく優しく声をかけてくれるそんな様子につい涙がにじんでくる。
もしかするとという不安がなかった訳ではない。どれだけエルセルト様がチートでも、絶対かどうかはわからなくて……。
「ラーリア、いい子だ」
ぎゅっと抱きしめられる。あたたかい感触。爽やかな香り。近すぎる距離にどうしてもあからむ顔をどうしていいかわからず、ついお兄様の胸に押し当ててしまう。肌の感触やら体温やらにより早鐘を打つ鼓動や熱くなる体は、間違いなくばれているだろう。慣れない。少しは慣れたかなと思うけれど、やっぱり慣れない私だ。
「いつまでも、お前と一緒だ。離すことなどありえない。絶対に離さない」
耳元で囁かれる。より顔が赤面した。
「私も……離れません」
「ずっとだ」
「ずっと……」
──絶対に離れたくない。
ぽんぽんと私の背を軽く撫でるようにたたくお兄様の手はあたたかく優しい。
私の涙は中々止まらなかった。
◇
顔を上げると視線が合う。気恥ずかしくて、視線を外すと、
「ラーリア、私の名を呼んで」
ふわりと私の頬を両手で捕まえ、甘やかにそう言って微笑みを浮かべるお兄様。
「名を呼んで」
本当に難しいのだけどな。涙目になっているまま、望まれているのだし、てれくさいけれど名前を口にのせようとする。
「うぅ、エ、エルセルト様?」
見上げるとエルセルト様は、首を横に振る。
「様もなしで」
非情だ。様は許される気がするのに。
「エ……エルセルト」
「よく出来ました。ラーリア」
頭を撫でてくれる手の感触が心地いい。
「そうだ。これから、兄と呼んだらお仕置きをするね」
少しいたずらっぽい表情で私を見た。
「え? どんなお仕置き、ですか?」
恐々尋ねる私に、エルセルトは人差し指を伸ばして唇の前にあてた。
「それは内緒。どんなお仕置きがいいかな? ラーリア」
「お兄様ぁ」
ついうっかりいい慣れたお兄様呼びが口から出てしまった。慌てて口元に手をやったが出てしまった言葉は取り戻せない。
エルセルトはひとつ息をついた。
「困った子だ。お仕置きをお望みのようだな。まだ内容考えていなかったというのに、早急に考えるか」
「考えなくていいです。いいですから……」
望んでないと言っても聞いてくれそうにない。
「ラーリア」
口元にやった手をはずすようにそっと握られる。
なんだろうと思って顔をあげると、綺麗な顔がだんだん近づいてきて。止まるのかなと思っていたらもっと近づいてきて……。
反射的にぎゅっと目を閉じるとふっと笑う吐息を感じて。
「無防備すぎて心配だな」
そんな言葉が囁くように耳に届いて。
唇のほんのすれすれの場所──頬に軽く押し当てられた柔らかであたたかな感触。目を開くとエルセルトは私を愛おしそうに見つめている。
「おしおき」
茹で上がり真っ赤になる私を可愛いなと胸に抱きしめるエルセルト。
「おしおきされたければ、いつでもお兄様と言ってくれたらいいからね」
笑うエルセルトにもうって怒ってみても、可愛いしか言わなくて。
そう、こういうふうなエルセルトのことを、満更嫌でもない自分に気がついている。凄くてれくさいけれど──
end