2 先導者の苦悩
「ふぅ………」
デスクに支給されたパソコンを落とすようにして置き、これまた支給された椅子に深めに腰掛ける。
昨日は夜遅くまで吹き替えの収録だった。新人の子が連発するリテイクを指導しながら待つ時間のせいで予定より一時間押した終了となってしまった。
結局終了したのは終電時間ギリギリ。今日は朝から授業に入っていたから実質の睡眠時間は五時間と無かった。
「どしたんすか、安﨑パイセン。」
教員室向かいのデスクから気の抜けるような声が俺を呼んだ。
「…何だよ高畠、鬱陶しい顔して。」
「ひっどいすね。同じ職場の同僚が心配してやってるのに受け答えがそれですか。」
「お前今日二年のオーディション対策だろ?早めに行ってやらなくて良いのかよ。」
「今お昼っすよ…先輩、そんな事も分かんないくらい疲れてるんすか。」
「…は?」
家電量販店で買った高くも無く安くも無い腕時計で時間を確認する。
記された時間は13時。良く見れば教員室も昼食を摂る職員や財布を持って外食に向かう職員ばかりだった。
時間感覚が狂うほどに働きづめだったのか…
「………高畠、一服付き合えよ。」
「ういっす。」
アラフォーのおっさん二人、仲良く喫煙所に向かう。喫煙者ってのはどうしてこうも群れで行動したくなるのかね。きっと年々狭くなっていく肩身から少しでも現実を忘れる為なんだろう。
教員室の横に併設されたガラス張りの空調直下の空間で二人仲良くヤニの匂いを充満させる。
「だあぁぁぁ………」
「ずいぶんと追い詰められてるっすね。そんなにスケジュールやばいんすか?」
「先週まではこんな予定じゃ無かったんだよ。リスケに次ぐリスケ。」
「多忙っすねぇ。さすが売れっ子。」
「レギュラー本数だけで見れば今クールはお前の方が多いだろ。」
「俺は一日一本、多くても二本なんで今は楽勝。」
ケラケラと軽率に笑う高畠。このフランクな感じが後輩や先輩、現場の関係者に好かれている要因だろう。もちろん本人の実力もあるが、コミュニケーション能力が無ければこの業界ではやっていけない。
コミュニケーション能力か…
「…高畠、お前俺と話すときに何か計算して話してる?」
「え、どういうことすか?」
「こう言ったら俺が喜ぶなーとかこれはこの人の地雷だろうなーとか。」
「なんすか急に。もう二十年近い付き合いなんですから今更そんな打算的な事考えるわけ無いでしょ。」
「打算…そうだよな。」
コミュニケーション能力の高さというのはもちろん相手の事を考慮するのは必要な事項だ。だがそれはあくまで分かる範囲で相手を怒らせないようにしたりとか相手を楽しませるように喋ったりすること。
相手の感情をコントロールして意図的に好かれようとしたり相手に洗脳じみた思考改変を施すなんて以ての外だろう。
「じゃあ今度はさ、天才の定義って何だと思う?」
「…病んでんなら話聞きますよ?落ち着いたら飲み行きます?」
「病んでねえって。大マジだよ。」
真剣に今俺の抱えている問題解決の糸口を求めての質問だった。
「俺からしたら、先輩も十分天才だと思いますけど。そういう感じじゃ無いんすか?」
「いや、知りたいのは俺が天才かどうかじゃなくて…」
「あー。何だそういうこと。」
高畠はスマホで生徒名簿をスライドさせながら器用に口だけでタバコを吹かす。
「先輩の虎の子の話しっすか。」
「虎の子って言うか…うん、まあそういう風な見方になるか。」
この学校で唯一高畠だけは俺がエリに二年ほど演技を教えていることを知っている。もちろん本人もそのことは了承を得ているし、アイツの兄貴、村雨アクトとの関係のことは全く話していない。むしろこの話は本人が納得するまでこの業界の人間の誰も知るべきでは無いことだとすら思っている。
「さすがに先輩が教えてるだけあって上手いっすよ。一年の六月とは思えない実力だ。これで演技始めたのは高校、しかも二年の時からってんだから驚きですよね。」
エリがここ水道橋アニメーション学院に入学してから二ヶ月。その実力は高畠を初めとする他の教員からの噂も聞くほどだった。
「案件部でも夏休み明けくらいから仕事を試しに振ってみようかみたいな話上がってるみたいですし。」
学内の優秀な生徒は在籍中から現場でインターン形式に仕事を受けることが出来る。その際のマネージャー的役割を担っているのが案件部と呼ばれる部署だ。
俺たちのような業界にそれなりに長くいる人間でも基本的に仕事はオーディションで勝ち取る。そのオーディションも事務所の中で目立った成績や実力が無いと巡ってくることは無い。在学中に案件部から貰った仕事は卒業時のプロフィールに公開される。つまり所属してすぐ他の同期と比べて大きなリードを持って業界に本格的に参戦できるというわけだ。
「上手いのは分かってるんだよ。問題は本人が自分の実力を自覚してないって事だ。」
「ええ?自覚して無くても良いんじゃないですか?ほら流行でしょ『ボクまた何かやっちゃいましたか』ってやつ。先輩も去年アニメでやってませんでした?」
タバコの灰を落としながらエリの事を考える。
「…自分の実力を自覚できないってのは実力不足よりも実力過多の方が面倒なんだって思い知ったんだよ。」
「周りの嫉妬とか反感とかそういう話ですか?」
「嫉妬ねぇ…」
嫉妬の方がまだ可愛げがあった。エリのクラスはもっと重大な問題を抱えている。しかも主にエリのせいで。
「お前、1Aの授業受け持ったことあるよな?」
「あるから轟さんの実力知ってるんでしょ。」
「あのクラス、どう思った。」
「どうって…まあ多少特殊なクラスではあるかなとは思いますけど、けど一年のクラスなら今までも無い話じゃ無いでしょ。」
ああ、こいつに聞いた俺がバカだった。確かに問題は無いとも言えるが時季が肝心なんだよ時期が。
「…先輩、考えすぎなんじゃ無いですか?」
「うるせえ。そういうお前は昔から楽観的すぎるんだよ。」
「養成所の頃から変わんないっすね。真面目で堅物、おまけに暑苦しいまでに後輩や教え子に真っ直ぐ。」
「ほんとお気楽なヤツ…」
高畠とは昔世話になった養成所の一年後輩だ。今はそれぞれ別の事務所に所属しているが、こいつも俺も事務所の世代代表なんて言われてた時期があった。
「さっきも言ったと思いますけど、俺は先輩のこと本当に天才だと思ってますし尊敬してますよ。先輩がいなかったら俺は声優に何てなれてなかったかも知れない。」
「それ聞き飽きた。何回も言うけど、俺がいなくたってお前は声優になれてたよ。」
「なれてたとしても、ここまで続けられる事は無かったでしょうね。イキリ小僧だった俺に真っ正面から向合ってくれたのは同期でもマネージャーでも無い、先輩だけだったんですから。」
「…実力あるヤツが正当な評価されなかったのが嫌だっただけ。別にお前のためじゃない。」
「はいはい。ツンデレツンデレ。」
「デレてねえ、しめるぞ。」
二人きりの喫煙所に同じ銘柄の煙が立ち上り空調に吸われていく。
「だから変なこと考えずに向合えば良いんですよ。俺にそうしてくれたみたいに轟さんにも。」
向合う、か…
「…ん。まあやれるだけやってみるわ。」
「それでいいんすよ…戻りますか。授業あと一本、乗切れそうっすか?」
「途中でぶっ倒れたら事務所に連絡してくれ。」
「洒落になってねえっすよ、それ…」
アカネちゃんにこの子に演技を教えて欲しいと言われたときからエリはすでに兄の復讐に取り憑かれていた。どす黒い感情、十代の女の子が持つには余りに危険な感情。俺はワークショップの中であの子に何度も演技をすることは楽しいことなんだ、出来ることが増えればそれだけ色んな世界を知れるんだと遠回しに教えてきたつもりだった。
だが、新たな知識を手に入れれば入れるほど、実力をつければつけるほどあの子の復讐に現実味が帯びていくのを感じて、怖くなってしまった。
結果として役作りや読解、感情面での稽古は全面的にアカネちゃんに任せ、俺は声優としての技術や知識を教えるに留まった。作家とは言え何本もメディアに作品を出しているアカネちゃんなら一応感情面の稽古をつけられないことは無いから、育成を放棄したわけじゃ無いと自分に言い聞かせて。
育っていった歪な復讐者がたくさんの被害を出して、それに気づいたときにはもう今のザマだ。
せめてここからでもあの子の実力に向合わなければ。
紛れもない天才の妹、村雨エリに。