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序章③



四月。この年は全国的に早い春の訪れで既に桜の開花は過ぎてしまった。そして週末から三日間ほど続いた雨の影響で、桃色の美しい花びらは散ってしまって道路脇に薄汚れた絨毯を作っていた。

都内マンションのエントランスで書類にサインをし、配送員とそれが運転してきたトラックを見送る。

「荷物は今ので全部?」

エレベーターから降りてきた女性が私に話しかける。雨上がりの少し冷えた気候だからニットのワンピースを着ている。しかしそのスタイルの良さから胸の辺りは繊維がかわいそうになるくらいにぱっつぱつに伸びきっていて、しかもその下はシャツなど着ない下着とスキニー。引っ越し業者の男達が何度も視線を送っていたのがこの人は見えてなかったのだろうか。

「うん。」

「そう。ずいぶんと少なかったわね。」

「一年前から少しずつ荷物をこっちに移してたからね。」

「一年…あっという間だったわね。」

「…全く時間が足りないよ。『先生』に教わっていながら教えられたことの六割もマスターできなかった………」

この一年、私は先生と彼女の認めた声優のもとで演技に付いての基礎、声優としての基礎知識を学んだ。ネットやテレビの情報で持っていた知識と統合したとしても、全くの素人が回りと同レベルに成長するには、圧倒的に時間が足りなさすぎた。

「都合の良いときだけ私を先生呼ばわりするの止めなさい、エリ。」

「えへへ、ごめんなさいアカネさん。」

村雨エリ、十八歳。最終学歴高卒。春から住居を東京に移し、声優志望として漫画家轟アカネの家に居候させて貰うことになっていた。

「…さ、冷えるから戻るわよ。荷ほどきしながら今後のことを再確認しときましょう。」

「はーい。」

エレベーターに乗り込み、タワーマンション中層階のアカネさんの自宅に向かう。アカネさんは同じマンションの中に仕事場があり、そっちは基本的にアシスタントの皆の作業部屋と終電を逃したアシスタントの仮眠室がある。

声優志望となってからは長期の休みは東京に来てアカネさんの元で稽古をしていた。その際にアシスタントの皆には何度か会っている。仕事場に来るのは男子二人女子四人の計六人、その他にも地方で作業データを遠隔で送ってくれるアシスタントが二人いるらしい。皆が言うにはこんなに作業環境が充実した仕事場は他の漫画家さんのところでは絶対にあり得ないと言っていた。アカネさんはあまり自分に対して投資すると言うことをしない。服も基本的に通販で買っているし、趣味も特にない。とことん漫画家というステータスに全振りしたような人間で余った能力値を見た目に振った感じだ。

人としてはちょっと抜けたところはあるけれど、表現者としての彼女はまさに才能と技術の塊のような人だった。

彼女が私の表現に対しての指導をこの一年半たたき込んでくれた。同時に彼女の友人の声優のワークショップに継続的に通わせて貰って声優としての技術の基礎を身につけた。

そこには売れないアラサー声優や新人声優、声優養成所に通う人など様々な人たちが通っていた。皆どこかで何かしらの勉強や実績を積んでいるだけあって、ワークショップでの私は皆について行くのでいっぱいいっぱいだった。

だから初めの数ヶ月は死ぬ気で体作りに費やした。肺活量と体力を培う為に今でも欠かさず続けているランニングはこの時に習慣が続いているものだ。スタイルの維持、見た目磨きにも今まで以上に気を使った。美容やケアを毎日入念に行い、空いた時間はアカネさんについて回って業界のことや表現についての知識を吸収していった。

それだけ徹底してやっても、才能の無かった私はスタートラインに立てたとしか思っていない。

「…ずいぶんと髪が伸びたわね。手入れ大変でしょう。」

「んー、ちょっと面倒くさいなーって思うことはあるよ。でもこっちの方が『世間ウケが良い』から。」

同時に世間に対する『ウケ』の研究も今年に入って始めた。

実験対象はアシスタントの皆やワークショップに来ている人たち。たまに都内のカフェテリアで試してみたこともあった。

幸いなことに見た目には多少の自身があったので、あとはそれをどうやって生かすかの研究だ。笑うタイミング、仕草、言葉、そして服装。最初こそ慣れないことに苦しんだが何ヶ月か続けていく内に本当の自分と作り上げた自分がゆっくりと溶けて混ざっていくような感覚になった。

研究の成果は上々。アシスタントの皆はアカネさんの大切な仕事仲間だから引っかき回したりはしないけど、ワークショップの人たちには情も何も無い。何人かの男を引っ掛けて実験をしてみたし、女同士の派閥を上手いことくぐり抜ける会話術も身につけた。実験の代償として二人の男が私のストーカーになったけど、ストーカーを作り上げることが出来るというのは、それほど私に本気になれる男を作り上げる技術を手に入れたという動かぬ証拠と自身になった。二人の男は警察に捕まったが、別にこれからその人たちがどうなろうと知ったことじゃないし、別にどうでも良かった。

「そう…何だかエリ、ずいぶんと変わったわね。」

「んー?そうかな?」

「ええ。良い意味でも、悪い意味でもね。」

「何それ、声優志望の自覚が出てきたーとかそういうやつじゃないのー?」

「…似てきたなって思いはしたわよ。あなたのお兄さんに。」

エレベーターの扉が開いてアカネさんが先に出る。私とお兄ちゃんが似ている…それは私にとっては聞き慣れた、でも何よりも嬉しい褒め言葉だった。

「そっか。ありがと。」

数年前、突如として業界から姿を消した人気声優村雨アクト。その天才的なセンスと技術で業界に革命をもたらそうとした結果、理不尽な闇に飲み込まれた。

私はその男の実の妹で彼の為し得なかった革命を成し遂げるため、そして今ものうのうと仕事をしている業界のゴミ共にお兄ちゃんが正しかったとその口で言わせるために、声優志望となった。

そのためにアカネさんに協力して貰っているのだ。

玄関に入って今日から正式に私の部屋となる部屋に向かう。

初めてアカネさんからお兄ちゃんのことを聞いたその日から私の練習部屋となっている部屋だ。

私がここに来るようになってからアカネさんが何段階かに分けて室内を改造してくれた。壁や天井には吸音材が敷き詰められ部屋のカーテンも重く吸音性の優れたものに変えられている。

「最後にもう一回聞いとくけど、本当にこの部屋好きに使って良いの?」

「…防音施工してくれとか厚めのカーペットにしてくれとか言うだけ言っておいて今更なんなのよ…心配しなくても、あなたがこの家を出て行ったらシアタールームにでも切り替えるわよ。」

「そっか。じゃあ未来への投資ってことで!」

「未来ね………」

アカネさんは無骨な吸音材だらけの私の部屋に置かれた数少ない乙女要素であるピンクのハート型クッションに腰を下ろすと、私に座るように促した。私はもう一つの乙女要素水色の星形クッションに座って、横に置かれた空の段ボールを手持ち無沙汰に畳み始める。

「アカネ…最後の確認よ。本当に声優業界を目指すのね?」

「当たり前でしょ。何?私にアシスタントでもやって欲しくなっちゃった?」

「嫌よ。あなたにベタ塗りを頼むくらいならその辺の中学生捕まえて小銭握らせて手伝わせた方がまだマシ。」

「わー、ひっどい言い方。」

けど全くもってその通りだ。夏休みの間、住ませて貰っているお礼として簡単な漫画の手伝いをさせて貰ったことがあったが…

後日アカネさんから言われたのは『エリに頼むと作業量が三倍になって返ってくる』と言う言葉だった。

「…心配してくれてるんだよね。大丈夫、この業界の厳しさはワークショップとアカネさんの話で十分に分かってるつもりだから。」

「…この一年であなたは驚くほど成長したわ。アクトの妹という言葉に負けないほどに。」

「でもお兄ちゃんみたいに数ヶ月で有名になれたわけじゃないよ。」

「あれはアイツが異常なのよ。一専門学生や養成所生として見れば、あなたの実力は周りとは桁違いなものだと断言してあげる。」

「先生や安﨑(やすざき)さんに教えて貰ってたんだもん。当然でしょ!」

私が声優としての基礎を教わっていたのは安﨑成伸やすざきしげのぶと言う現役の声優だ。お兄ちゃんと違ってアニメがメインの声優では無いが、吹き替えの現場では知らない人はいないほどの超有名声優。とんでもない話だが、なんとこの人アカネさんの親戚らしい。兄妹従兄とか叔父姪とかの近い等親ではないが、親戚間で交流があったらしく、私の演技の技術が一定水準を超えるとすぐにワークショップに紹介してくれた。他にもアカネさんの親戚は結構芸能界に多いらしく、まさに現代版華麗なる一族と言った感じだ。

「だからこそ、よ。」

「…?」

「例え実力があったとしてもその実力が正当には評価されない世界。エリも知ってるでしょう、今の業界は…」

「分かってるよ。だから私は今の声優業界に行くの。」

先生や安﨑さん、ワークショップの人たちに聞いたり、自分で調べて得た確かな情報。

今の声優業界はかつて無いほど黒い噂が絶えない。声優のメディア露出が増えて、ルックスの良い声優はますます俳優や女優、アイドルの仕事を奪う状態になった。声優が映像や表舞台に進出したと言うことは、表舞台にいた人たちが声優の分野にやって来ているということ。

今まで水と油のように接することはあれど混ざり合うことの無かった業界同士が、界面活性剤をいれられたかのように混ざり始めている。

混沌とした芸能界は大きな影が生まれて当然の場所となっていた。過激な大御所贔屓、事務所のごり押し、枕…

売れるために、利益のために自分の心身果てにはプライベートさえ売り出す世界。

「汚れた場所は早めに掃除しないと…次の汚れが付着するでしょ?」

「…業界の厳しさ、もといブラックな部分を話してるって言うのに…この子は………」

笑顔で返答したら、何故かため息をつかれてしまった。

「あーもういいわよ、元々焚き付けるようにしちゃったのは私だし。エリの中でちゃんとした理由があるんなら止めはしないし、必要なら遠慮無く私を利用しなさい。」

「えへへ。アカネさんありがとっ!大好き!」

「そりゃあどうも。まあ私にも思うところはあるから、あなたに最大限協力はしてあげる。」

アカネさんは部屋の隅に積まれた書類の山の一番上のパンフレットをぱらぱらとめくった。

「『水道橋アニメーション学院』演技未経験の声優志望が行くテンプレート…」

「そ。来週から私の学び舎だよ。」

「…一応聞いておくわ。どうしてここなの?」

「どうしてって?」

「…あなたの決断を否定するわけじゃ無いわ。けどここを選ぶのは声優志望として最短コースとは言えないことをあなたが知らないはず無いでしょ?。」

「あーそういうこと。」

アカネさんの言わんとしていることはこうだ。

私が通うことになっている水道橋アニメーション学院。ここは創立してからそれなりに歴史のあるエンタメ専門の教育機関で声優以外にもアイドルやアニメーター、それこそ漫画家のようなコースもある。ここの謳い文句と言えば業界の著名人を数多く輩出していること。しかし声優は卒業してから養成所に入り直していたり、アイドルも地下アイドルが殆どだったりという、直接業界に飛び級で行けるわけでは無いのがネットで言われていたりする。

実際、卒業してから事務所に直接所属できる可能性が無いわけでは無いのだが、その可能性にかけるくらいなら事務所直属の教育場所で優秀であれば関連の事務所に直接所属できる養成所の方が近道ではある。

「いくら実績が無いとは言え、あなたの実力なら養成所の上のクラスだって十分に合格できる。それは私も安﨑さんも太鼓判を押してあげたじゃ無い。」

「んー、理由としては三つあるよ。一つは安﨑さんが常勤の講師をしてるって所。」

私にとってアカネさんが表現の師匠なら、安﨑さんは技術の師匠だ。彼から教わることはまだたくさんあるし、何より気楽に質問が出来る。

「二つ目は演技未経験者に対する養成所側の偏見があること。」

いくら未経験歓迎を謳っている養成所でもその本命は専門や短大、劇団上がりや子役上がりの演技を経験している人間の方に向いている。アカネさんの言ったとおりこの業界は努力や実力が正当に評価される世界じゃ無い。今の私が養成所に行った場合、養成所でのスタートダッシュを切れないという事態に陥る。そうなると最大で三年はロスしてしまうことを見越して、その上で水道橋アニメーション学院に進む道を選んだ。

そして、

「最後に三つ目で、正直これが最大の理由だよ………水道橋アニメーション学院特別講師…」

「…そういうことね。」

彼の情報は全て暗記している。というか、アクセル・ソードに関係している人物の名前はその影響が大きい人ほど私の記憶に焼き付いている。

「所属事務所『ユースエンターテイメント』年齢四十歳、芸歴二十八年、代表作『アクセル・ソード レギュラー ブレイド役』………『船堀ふなぼり 優哉ゆうや』」

あの日、お兄ちゃんが潰された現場にいた男の一人。お兄ちゃんのことを見捨てたか、あるいは潰したゴミの一人。

「水アニ(水道橋アニメーション学院)の成績優秀者は二年への進級時に通常のクラスに加えてもう一つクラスを掛け持つことが出来る…それが特別講師クラス。船堀優哉から直接指導して貰えて現場にも連れて行って貰えるありがたいクラスだよ。」

「アクセル・ソードの一期から出演している声優ね。目立ったスキャンダルや炎上もないしバラエティにも出演してるから一般ウケも良い声優じゃない。」

「けどお兄ちゃんの件に関与してた可能性がゼロな訳じゃ無いでしょ。」

「あなたまさか、それを確かめるためだけに水アニに通うつもりなの?」

「さすがにそこまで単純思考じゃないよ。ちゃんと次につながるように道筋は考えてるから。」

彼を見定め、彼がお兄ちゃんの件に関与していなければそのまま取り入って業界への足がかりにする。利用できるものは自分の命であっても利用する。そうしなければ私はお兄ちゃんの領域には遠く及ばない。お兄ちゃんのいた世界に行かなければ、お兄ちゃんが正しかったと証明することも出来ない。そのためなら、例え誰に蔑まれようと罵倒されようと反感を買おうと知ったことじゃない。

私が声優を目指す理由、私の歪んだモチベーション

『All for revenge(全ては復讐のために)』

私はこの業界の頂点で、お兄ちゃんが正しかったと証明してみせる。

「…だったらまず、入学式よりも前に事務に連絡して名前を変えなさい。」

「名前…?いきなり芸名考えろって事?」

「そうじゃないわ。あなたの目標を達成するために、今のあなたの名前じゃ目立ちすぎるって言ってるの。普通の学校じゃ大して疑われることも無かったのだろうけれど、声優志望や業界関係者が集まる場所だと『村雨』の名はまだ絶大な影響を及ぼすわ。」

「…なるほどね。私じゃまだ『声優として村雨の名前を扱いこなせない』そういうことだ。」

「理解が早いわね。そうよ、だから実力が付くまでは適当な名字でも名乗って…」

「じゃあ今日から私は『轟エリ』で!」

「…え?」

「え?」

私が私で名乗っていて村雨の次に違和感の無い名字を言ったはずなのに何故かアカネさんはきょとんとした顔を私に向けた。

「…ねえ、自意識過剰だったら本当に恥ずかしいから一応確認しておくけれど、その轟はどこから持ってきたの?」

「アカネさんのペンネームに決まってるじゃん。いつまで経っても本名教えてくれないし、表札も轟だし、轟がこの家に出入りするのに一番自然な名字でしょ?」

「…ほんとにどこまでも合理主義者ね。いいわ、好きにしなさい。」

別に合理的理由だけで轟を名乗るわけじゃ無い。東京で私が頼れる人間はアカネさんだけだ。年もお兄ちゃんと変わらないし、本人がどう思っているかは知らないけれど私はアカネさんのことも信頼してる。元彼の妹って理由だけでどうしてここまで尽くしてくれるのかは謎だし、もしかしたら何か裏があるのかも知れないけど、アカネさんの思惑なら私は操られても利用されても構わない。その代わり、私も目一杯利用させて貰うけどね。

「それじゃ、早速学校に連絡して手続きしなきゃね。」

「ああ本当に轟で行くのね…」

こうして、声優志望・轟エリとしての東京生活が始まった。


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