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10 火種



夏場のランニングは早朝に限る。それも日の昇っていない本当の早朝。

理由は単純。ここ数年の日本の夏は暑すぎるからだ。

日中にランニングをしている運動部の学生も目撃することはあるが、全員が死にそうなほど汗を流している。

ショーパンにタイツ、スポーツブラにスポーツウェアというランニングをする女性として可能な限り薄着の軽装で走っているがそれでも汗だくだ。

元々の生態がインドアの私にとってはランニングをするだけでも最初のうちは死にかけていた。

そこから年単位の継続を経てやっと毎日10キロくらいなら疲労感を余り感じずにほどよい運動量としてこなすことが出来るようになった。

基本的には毎日、警報ややばい注意報が出ていない限りは決まったコースを走り続けている。

アスリートやフルマラソンを走る人のような速いペースでは無いけれど、きちんと走り終えれば息が上がるようなペースを継続して走る。学校のある日なら学校が始まる前に、どこか買い物に行く日でもその前に、収録の日だって、朝四時からしっかり走ってシャワーを浴びてスタジオに向かった。

「はっ…はっ…はっ…」

決まったテンポで呼吸をし、目一杯肺を使ったイメージで走る。肺活量と体力を鍛えるのにランニングは最適だと思っている。もちろん、もっと効率の良い方法はあるのかも知れないが、今の私が出来る中ではこれが最高率のトレーニング方法だ。

「はっ…はっ…はっ…」

継続することで高校の時よりも明らかに肺活量に余裕が出来た。体力だって、授業では何曲踊ったって基本的にバテることは無い。

それでもあの日の収録ではたった一回のテストで息が上がった。

それどころか、本番では終盤にかけて失速してるまであった。

安﨑さん達の本気に気圧されたのもあるだろうが、一番は収録二回分の体力がまだ備わっていないと言うことだろう。

台詞なんて十数秒くらいしか無かったのにそのザマでは先が思いやられる。

もっともっと体力をつけなければ。

実力不足を痛感したあの日のスタジオの光景は今でも鮮明に思い出すことが出来る。

次元の違う芝居をする二人、それに喰らいついて行く人たち、私ただ一人があの場で実力の見合っていない役者もどきだった。

安﨑さんのプッシュが無ければ未だに私は声優志望のまま、あの壁の高さも知ること無く夏休みを過ごしていただろう。

あの日から私は新人声優になった。正確にはなれて等いないのかも知れない。でもそう思うようにした。

私の大切なライバルの言葉が私を新人声優にしてくれた。

だから今の私の直近の目標は、志穂のくれたこの肩書きにふさわしい役者になること。そのためだったら努力は惜しまない。

…惜しまないのだが、喉は渇く。

いつもは中間地点辺りにある自動販売機で水分を補給するのだが、今日は小銭を忘れてしまった。ランニングポーチの中にあるのはスマホと家の鍵だけ。ならばキャッシュレスで、と思ったがその自販機はおろか、道行く自販機の全てがキャッシュレス非対応という事実は今日知ったことだ。

「まっずい…これは非常にまっずい………」

ならばもういっそ水分補給せずに家まで一直線で帰ろうかとも思ったが、私の体は情けないことにそこまでの運動には耐えきれなかったようだった。

空元気で回していた脚のテンポは次第に遅くなり、やがて停止する。上がった呼吸が乾いた喉を通って夏の空気に吐き出される。

「はぁ…はぁ…」

いやいやいや、本当にまずい…!

このままだと確実に脱水コース、こんなことならどこかの公園の水道で水道水でも飲んどくんだった…!

コンビニという手もあった。でもこの汗だくの状態でコンビニとは言えお店に入るのは私の乙女の部分が許さなかった…!

膝に手をつく私の横にあるのは赤い自動販売機。

すがりつくように右下を確認するが、あるのは小銭とお札の投入口、そしておつり返却のレバーだけだった。

「…くぅ。」

ずりずりと時代に取り残された自販機に額を当てて頭を抱える。

ああ、どうしよう…本当にどうしよう…

万が一脱水で救急車に運ばれてもスマホはあるから身元の確認と連絡は取れる…アカネさん来てくれるかなぁ…今日原稿が忙しくて夜までスマホ見れないか持って行ってたしなぁ…

なんてことを熱のこもった頭でぼんやり考えていると、すがった自動販売機にお金が入っていく金属音がした。

「何か飲まれますか?お姉さん。」

すぐ後ろで現金を入れた当人らしき男の声が聞こえた。

「…い、いえ…お構いなく…」

「お構いなくって言ったってなぁ…」

ボタンが押されたのか、私の目の前の取り出し口に二本のスポーツドリンクが落ちてきた。

「同期が熱中症寸前なのにお構いしないのは無理あるだろ。」

「え…?」

重たい頭を上げるとそこには見覚えのある青年の顔があった。


「ごめん、助かったよ蛍火君」

私は恩人である同期、蛍火匠馬君と先ほどの自販機から少し歩いたところにある公園のベンチで休んでいた。

彼は籠のついた原付に近くのコンビニのレジ袋を引っ掛けてそこにおにぎりのゴミを入れている。

「…新聞配達の途中?もしかして蛍火君の配達地域ってこの辺なの?」

「いやあ、今日はたまたま。系列の支部のバイトが体調不良で軒並みダウンしたんだってさ。んで、原付は俺だけだから俺がこの辺に派遣されたって訳。」

「なるほど…大変だね『新聞学生』は…」

新聞学生とはうちの学校のシステムのことだ。

水道橋アニメーション学院は専門学校である以上、当然学費という物が存在する。しかもそれなりに高めの金額、一括で払うことはもちろん、分割でも支払いが厳しいと言う人が一定数存在するのも事実だ。

そんな生徒達への救済処置として学校が提案しているシステムが新聞学生。在学中の二年間、提携する会社の新聞配達を行えば学費が免除になるほか都内のアルバイト相応の時給も貰えるというシステムだ。

ウチのクラスには新聞学生は蛍火君しかいないが、全国にある水道橋アニメーション学院の生徒全体で見れば十人に一人くらいの割合で新聞学生がいるらしい。

「それより何で自販機にもたれかかって死にかけてたんだ?」

「あー…お恥ずかしながら、ランニングの水分補給用の小銭を忘れちゃって…」

「へー?毎日ランニングしてるんだっけ。ストイックに体作ってるな。ダイエットって訳じゃ無いんだろ?」

「む。女の子にそんな言い方はちょっと失礼じゃ無い?」

奢って貰ったスポーツドリンクと日陰に心地良い風のお陰もあって少し呼吸も落ち着いてきた。いつもより少し高いトーンの取り繕った声で対応する。

志穂の前では普通でいられるようになったけど、まだ他の人の前ではキャラをつくって置いた方が良いような気がする。まして蛍火君はウチのクラス唯一の男性生徒だ。日常生活を生きる上では私の一番の武器である顔面の強さ。いざとなれば男相手であればこれが通用する。であればまだ彼を利用する可能性がある今は取り繕ったままの方が色々と今後に有利に働くだろう。

普通にしんどいけど、声優になるため、現場の最前線に立ち続けるために利用できる可能性があるならその選択肢を捨てるわけには行かない。

「冗談だって。うちのクラスの誰よりも努力家だもんな」

「そんな…大げさだよ。」

努力家なんじゃ無い。本物の世界からしてみれば、私の何てまだ努力と言える代物なんかじゃ無い。

「大袈裟なもんかよ。だからあの金井志穂と一緒に俺たちの中で誰よりも早く案件を貰えた。違うか?」

「え…?な、なんで蛍火君がそれを…?」

私からは皆には言ってなどいない。もちろん志穂だって言っていないだろう。

情報漏洩は何よりも罪が重い。そんなことを私たちがするはずが無い。

「俺がって言うか、もうクラスの奴ら皆知ってるぞ?」

「…どうして、一体誰から…」

「えーっと、多分初日から。俺ら全員教室の扉の前で聞き耳立ててたから。」

「えぇっ!?」

「そりゃあクラスの実力者が二人も同時に先生に呼ばれたら誰だって気になるだろ。安心しろよ。その後高畠先生に俺らが詰め寄って聞き出したけど、俺らの誰一人として他には漏らしてないから。」

高畠先生…それでいいのか…?いや、良いわけないだろ…なにしれっと情報漏洩してんの、バレたら大問題だよ…

「…ただ、バラしちゃいないが、多分全員胸の内でその情報が火種になってるぜ?」

蛍火君は原付に欠けたゴミ袋の口を縛って籠にしまった。配達の終わった大きな空の籠に乾いた音を立てて袋が落ちる。

「火種って…どういうこと…?」

まさか、だれかが私たちに嫉妬を?

「ああ、安心しろよ。嫉妬とか妬みとかそういうヤツじゃ無い。まあゼロだとは言い切れねえけどな。」

そう言うと彼はスマホのチャットアプリを見せてきた。そこに書かれている名前は恋、そしてプリクラで加工された木森恋ちゃんが写っていた。

「恋は自分の武器のアピール力とダンスを磨くために週末は一日中地下アイドルやコンサートホールに通ってる。」

次に写されたのは本とコーヒーのアイコン。可憐のアイコンだ。そのトーク履歴にはたくさんの文学作品の名前が羅列してある。

「可憐は自分の中の想像により実体と説得力を持たせるためにありとあらゆる著書を読みあさってる。」

そして最後に。

「そして華南。あいつは寝てる時間とバイトの時間以外の全ての時間に演劇のワークショップを入れてる。声優だけじゃねえ、舞台、朗読、ナレーション…俺たちの中でこの夏一番演技に触れてるのはダントツであいつだ。」

「…皆、凄い…!」

私だって負けてられない。私はこの中で志穂を除けばただ一人現場を経験してる。その経験を生かして皆よりも大きく成長してるんだ…!

「そんで俺。」

「そうだよ。蛍火君はどんな夏を過ごしたの?」

「ああ。来月から一ヶ月、プロの舞台に立つ。」



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