序章①
女子高生の朝は早い。
私の通う高校は制服の可愛さが売りで、かくいう私もそれ目当てで入学した程だが、可愛いと言うことはそれ相応に着こなしが面倒と言うことだ。今時コスプレでもここまで複雑な制服は存在しないだろう。アニメの中からそのまま出てきたかのような可愛らしい制服は、二年生になった今でも完全に着替え終わるまで五分は必要だった。
加えて私は超が付くほど朝が弱い。そりゃ年頃の乙女たるもの人並み程度に寝癖くらいは直して登校するが、簡単なメイクや朝食は登校中に済ませてしまうのが日課だった。別に遅刻ギリギリというわけでは無い。ただ朝はどうにも行動に移す速度が日中の三割減になってしまうような気がしてならないってだけで。
「お兄ちゃんごめん!洗面所から適当にヘアゴム取ってくれる?」
自室から慌ただしく飛び出して即座に玄関に並べられたローファーに足を突っ込む。踏みつけてしまったかかとを直し、姿見鏡で乱れた制服を最終確認。軽くリボンを直して、玄関に置かれた私用のヘアブラシで髪を整えていると。
「おはよう、エリ。時間には余裕あるんだから、たまには一緒に朝食食べようよ。」
朝一番に見るには少し重ためのイケメンがヘアゴムを手渡してくれた。
「あー…時間には余裕あるんだけどさ、今日ちょっと友達と待ち合わせしてて…」
待ち合わせ場所は家から少し離れたバス停。バスに乗るわけでは無いがいつもその友達と待ち合わせするときは家の前ではなくそこにしている。
「いつも一緒に登校してる子でしょ?ハイこれ。」
手渡されたのはヘアゴムともう一つ、小さくたためるタイプの弁当鞄。
「今日の朝食、ハムサンド。間食用に一個多めに入ってるから、お友達がハム苦手じゃなかったら一緒に食べな。」
開けてみるとそこには彩りも量も女子高生好み、朝食や間食にはちょうど良いがおよそ個人の素人が作ったとは思えないようなクオリティのハムサンドが二つ。
「…お兄ちゃん、今日何時から起きてるの?」
「え?5時半。」
「昨日も夜中まで仕事してなかった?なんか会社の今後に関わる大きめの仕事任されたとかで。私のことより自分の事心配した方が良いんじゃない?」
「今週は在宅ワークで昼寝も出来るから楽勝だよ。社会人ならこれくらいサクッとこなすでしょ。」
「はいはい、兄が高スペック過ぎて生きるのが辛くなってきた妹がこちらになります。」
この早朝から店顔負けのサンドイッチを制作し、就職からわずか五年で在宅での重要案件の処理を任される高スペックなイケメンの男は私の兄だ。名前を村雨アクト(むらさめあくと)という。
そして私はさすがの同じ遺伝子、容姿には多少の自身があるが残念ながらそこまで。それ以外の共通点は殆どと言って良いほどない、強いて言えば兄と同じ超甘党、現役女子高生の村雨エリ(むらさめえり)。
昔から美男美女の兄妹としてご近所では評判だったが、私に向けられる評価の殆どは兄のおこぼれみたいな物だった。『アクト君に似て美人だねー』とか『将来はアクト君みたいなしっかり者になるのかなー』とか。いつでもメインはお兄ちゃん、そしてプラスで私。けれども、私は全く気にしていない。小さいときに両親と死別した私にとって、唯一の家族がお兄ちゃんだった。何をするにもいつもお兄ちゃんについて行って、そんな私がブラコンに育つのはもはや決定事項と言っても良いほどだった。あえて言っておこう、私はお兄ちゃんが大好きだ。
「そんなこと無いよ。俺なんかよりエリの方がずっと優秀だ。」
「嫌味にしか聞こえないよそれ。」
これもお兄ちゃんの口癖。鞄を背負い直してスマホを確認。友達との集合時間には余裕で間に合いそうだった。ハムサンドを一つ手に取って玄関の扉に手をかける。
「じゃ、行ってきます。今日進路講話があるから帰るのいつもより遅くなっちゃうかも。」
「もうそんな時期か。分かった、気をつけて行ってらっしゃい。」
爽やかな笑顔でひらひらと手を振るお兄ちゃん。自分の兄で無ければあふれ出るイケメンオーラに気絶していたかも知れない。私が家に友達を呼べない理由は大きく二つ。その一つがこれ、イケメン過ぎる兄の存在。三年ほど前に体調を崩した私のもとへ当時の同級生がお見舞いに来てくれたことがあった。寝込んでいた私が当然出られるはずも無く、インターホンを鳴らした友達を出迎えたのはお兄ちゃん。自分の妹をお見舞いに来てくれたのが相当嬉しかったのかお兄ちゃんは惜しげも無い笑顔をその友達に向けた。結果、そのイケメンオーラに絶えきれなくなった友達は気絶し、数日間私よりも高熱にうなされた。その後は卒業まで家に行かせろと懇願され続けたので、兄と私の身を案じてその友達との関係は緩やかにフェードアウトさせていった。その事件からこれ以上犠牲者を増やさない為にも、私は友達と集合するときは基本的に家から少し離れたところにしているし、お泊まりや勉強会でも決して自分の家は提供しない。お兄ちゃん的には二人で住むにはやたら広い家だからもっと友達を呼んで欲しいみたいだけど、そういうわけにもいかない。お兄ちゃんはもっと、自分の存在という物を危険視した方が良い。
家を出て、残暑の少し残る通学路を友達と歩く。ちなみにハムサンドは友達と会う前に全部食べた。友達と分けて、と言われていたが別にこの子とはそれほど仲が良いわけではない。頭の先からつま先まで、今の流行を詰め込んだだけのカースト上位の女の子。その子の周りはいつも可愛い女の子や、運動部のキャプテン、イケメンが取り巻いている。一度家の外に出れば、私もそんなスクールカーストの最上位層。面白そうなことに適当に相づちいれていれば、ありがたいことにこのルックスのお陰で楽に緩ーく学校生活が送れる。この子もこの子で私みたいなビジュアルの良い子を取り巻きにしていれば色んな男が食いついてくる。両者Win-Win、だからこの子は友達って言うよりはいわゆる共生関係ってヤツ。
「なーんかエリって『熱』が無いよね。」
放課後、文化部部室棟の三階その奥。そもそも文化部部室棟自体が過疎地帯な上に、教員達が教室入り口の札を取り替えるのが面倒という理由だけでかつての場所にそのまま部室を作られたことで、私たち以外誰も寄りつくことが無い埃の城の更に奥に鎮座しているアニメーション研究会、通称『アニ研』
「熱?そりゃ熱があったら学校休むし…」
「あー天然ぶってんじゃねえよ、うっぜえな。」
私はアニ研の部員では無いが私の幼馴染みの鶴海ヒナ(つるみひな)がアニ研の部長をしているので、放課後のたまり場としてこの場所を使わせて貰っていた。もちろん、他の子は呼んだりはしない。この場所は私が家以外で私でいられる唯一と言って良い大切な場所なのだ。そんな所に有象無象は呼んだりしない。
「物事に興味がなさ過ぎるって言ってんのよ。あんたこの前サッカー部のイケメンに告られたって言ってなかったっけ?」
「あー、橋本君?うん、この前行ったカラオケの帰りに。」
「返事どうしたのよ。」
「ふつーに無理って言って断ったよー?あ、ごめんヒナ、秘薬忘れた。」
「現地調合しろ。あいつ高校生の日本代表に選ばれてなかったっけ?プロ入りはもう確約ーとかウチのクラスの女どもが騒いでたわ。」
こうして何も考えずに一日の終わりにヒナとお菓子を食べながらゲームをする時間が学校に行く目的だったりする。小さい頃は近所に住んでいたけれど、ヒナのお父さんの仕事の関係で引っ越してしまった。高校で再会したときには、エリを放っておくとろくでもない進路を選びそうだから、と言う理由で一人暮らししてまで戻ってきてくれたらしい。私の大事な親友だ。
「それねー、告白の時も言われたよ。来年から日本代表になるから、将来苦労させないから付き合ってくれって。」
「なにそれ、おっも。」
「ねー。高校生で結婚前提のお付き合いはちょっと無理かなーって。」
「ルックスもまあ及第点くらいには良いからなアイツ。それでもこのエリとか言うムカつくほどのルックスに釣り合うとは思えんけどねえ…これで自信喪失とかしなきゃ良いけど。」
「大丈夫でしょ、それくらいで落ちるメンタルなら端からスポーツ選手なんて向いてないって。あ、宝玉欲しいから部位破壊お願い。」
「自分で振っといてよく言うぜ。あと言うのが遅え、もう捕獲したわ。」
ゲーム機を置いてパソコンに向かうヒナ。窓辺で風になびく髪を乱暴に押さえながらキーボードに指を走らせる彼女をお菓子を咥えながらじっと見つめる。
「………なんだよ?」
「ねえ、私ヒナも十分可愛いと思うんだけど。」
「はぁ?何言ってんだお前。」
「嘘でもお世辞でも無いって。人のルックスには多少の審美眼がある私が言うんだから間違いない!」
目元こそ連日の不規則な睡眠習慣で隈が染みついているが、元々肌はキレイなのだ。そばかすだってチャームポイントだし、髪の毛も全くケアしてないと本人は言っているがそれにしてはさらさら過ぎる。目つきが悪いのは昔から変わらないが、今はそういう需要だってあるっていうし。
「ほんとはちょっとオシャレしてみたいなーとか思ってんじゃ無いのー?恥ずかしがらなくたって私には言ってくれて良いんだよー?皆にばれにくいヘアケアからこっそりやってるんでしょー?」
「あーもううっぜえ!!!カースト上位にキモオタ陰キャの気持ちが分かるかってんだ!!!」
「ヒナはキモくないよー、可愛いよー…わっ、これヘアオイル?すっごい良い匂い…」
「ギャーーーッ!?いきなり人の髪の毛嗅いでんじゃねえ!!!」
パソコンに夢中になってる隙にヒナの背後に回り抱きつくようにじゃれつく。ああ、こんな日常がずっと続けば良いな。ヒナとは大人になってもこうやって他愛も無い会話やゲームで楽しく過ごしていられたら良いな。
「ねえねえ可愛いヒナちゃんはさっきから何を見てるのー?」
「あ?…あー、最近見たちょっと前のアニメに出演しててな。ちょっと気になったんだよ、てめえが男のルックスに対して厳しくなった原因でもある…」
彼女のピンク色の愛らしいノートパソコン。そこには学校の有線インターネットに接続された検索エンジンが、見覚えのある文字の羅列を映し出していた。
「『元声優 村雨アクト』お前の兄貴だよ。」
「………あー、お兄ちゃんの事調べてたんだ。」
ルックスに恵まれて、才能もあって、コミュニケーション能力も高い。選ばれた人間と言って過言でも何でも無い、そんな兄が声優になったのは彼が19になる年だった。元々アルバイト感覚で雑誌の読者モデルをやっていた兄に、何かの番組が企画として声優をやらせたのだ。面白おかしく取り扱って本職の声優の人たちを立たせるいわゆる引き立て役のエキストラの仕事。
「…当時のDが語った、村雨アクトの神がかった魅力、ねえ。」
『企画倒れも良いところですよ、その回はおかげさまでお蔵入り』
見出しにはそう書かれている。
エキストラ、いわゆるその他大勢の役どころのはずだった。しかし、彼の才能を収めるには器が小さすぎた。記事の中に書かれていたのは、メインの声優陣の中に放り込まれて、初めての声優芝居にもかかわらず、周りと何一つ遜色の無い演技を見せつけていしまい、番組を企画から崩壊させてしまった男、そう書かれていた。
「その後、Dが大手の声優事務所に売りつけるように紹介、その後養成所で二ヶ月学んだって…マジで怪物だな。」
「お兄ちゃんが家を出たのも丁度その時期だったよ。その後いきなり仕送りが増えたから何事かと思ったもん。」
「当たり前だろ。アクトの兄貴は昔から凄かったけど、この記事初めて見たときにはアタシもさすがにビビったよ。天は二物どころかお土産も背負わせてる。」
この記事のことは私も調べたことがある。当時の声優関連の雑誌のバックナンバーにもお兄ちゃんのことは必ずと言って良いほど紹介されていた。テレビやアニメのレギュラーに瞬く間に呼ばれ、一日の内にお兄ちゃんの関わっている作品を見ない日は無いくらいだった。担当するキャラクターイベントで全国でライブをしたこともある。
まさに新進気鋭、そんなお兄ちゃんの記事はある地点からぱったりと無くなっていた。
「………大体五年前、アクトがこっちに戻ってきた頃と同じだな。」
その日は急に訪れた。いつものように家で過ごしていると突然兄が訪ねてきたのだ。兄の私に対する態度があまりにもいつもと変わらなさすぎたのでてっきり私はいつもの一時帰省かと思っていた。しかし何日経っても、何週間経っても、兄が東京に戻る気配は無い。そして翌月のニュースで兄が声優を引退したことを知った。
どうしてなのか、何故引退したのか、何かあったのか。時とタイミングを変えては何度も兄に聞いた。それでもその度に、適当な理由を付けてはぐらかされた。声優の話を聞いているときの兄は、その瞬間だけいつもの明るい兄とは別人のようだった。やんわりと何かあったのだと思うようにして、以来私たち兄妹の間で声優の話題が自然とタブーになっていた。
「…おーおー、好き放題書かれてんな。全部事実無根じゃねえか。」
兄が辞めてから業界はそれなりに荒れていた。隠し子がいるだとか、人気声優を妊娠させただとか…腹の立つ内容ばかりだった。お兄ちゃんがそんなことするわけ無いのに、どうして憶測だけでこれだけ酷いことを書き込めるのだろう。誰も、私でさえ、お兄ちゃんが声優業界を去った理由は知らないのに。
「………悪かった。ちょっとした興味本位だったんだよ。」
「大丈夫だよ。この記事もそれ以外のもっと酷い書き込みも、全部見てるし知ってるから。」
「は…?おい、エリ…それってどういう…」
「あ、そろそろ職業講話の時間じゃん!」
「あ?お前今日の講話受けてんのかよ。」
この学校は高校にしては珍しく毎年秋になると各分野の職業の人を招いて講話を開く。営業職の卒業生だったり、起業家だったり、呼ばれる人は日替わりで変わるが今日の講話はひと味違っていた。
「今日の講話って漫画家だろ?確か…」
「轟アカネ先生。お兄ちゃんも出演してた『アクセル・ソード』とか描いてる人。」
「アクソ(アクセル・ソード)か。なんの偶然だろうね、アタシがアクトのこと調べようって思ったのもアクソがきっかけだよ。」
「こういう所はアニ研様々だよな」ヒナはそう言って立ち上がり、歴代の部費で購入された円盤が羅列されている棚の中から一つのディスクを取りだした。
「アクセル・ソードでも屈指の人気を誇るシリーズ『ルミナスナイツ編』テレビでの放映は今から八年前くらいか。アクトが演じてるのは重要キャラクターの『エーラ』だな」
アクセル・ソード。私もルミナスナイツ編は家で見たことがある。お兄ちゃんはレギュラーでの出演ではないにしても、身内の贔屓目無しで強烈な印象を受けたのを覚えている。
主人公達がこのシリーズの敵と戦うきっかけになる少年の役で途中で死んでしまう役。それでも彼の台詞が画面から流れているときはまるで吸い寄せられるような不思議な力が働いて、主演の人間より目立ってしまうカリスマ的魅力、声優を始めてすぐの彼は自分の魅力を押さえられないような印象さえ見て取れた。
「昔のお兄ちゃんのこと知ってる人なら、何か話してくれるんじゃ無いかなって。」
「いや、知ってるとは限らないだろ。原作者ってだけでアクトと共演してたわけじゃ無いんだから。」
「それでも私よりは確実に当時のお兄ちゃんに近かった。」
「大体なんだって今更アクトの過去を知ろうとしてるんだよ?戻ってきてからアイツはエリに昔のことを話そうとしないんだろ?それはお前に話したくない何かがあるからじゃ無いのかよ。」
「…私は——————」
戻ってきたその日、お兄ちゃんは笑顔だった。片手にはいつものように私の大好きな東京のお菓子を持って、いつものようにただいまって言ってた。だけど、その時の私は気づけなかった、いや気づかないふりをしてた。
その時のお兄ちゃんはかすかに泣いているように見えた。
お兄ちゃんの涙なんて見たことが無かったから、私は気のせいだと思い込むようになった。
「私はただ、知りたいだけだよ。」
インターネットの情報にもどの雑誌にも残っていないお兄ちゃんの引退理由、私にも喋ってくれない声優時代のお兄ちゃんの話、そしてあの日お兄ちゃんが戻ってきたわけを。
私は知れる可能性がある全てを知りたいだけ。重いのかも知れないけれど、知ったことじゃない。誰に何を言われようと、どうせ私はシスコンだし。
こういうときの妹って便利な免罪符だなと思いつつ、私はアニ研の部室を後にした。
職業講話は校内で行われる。参加資格はこの学校に在籍していることで、生徒であれば一年から三年まで希望者が全員受けることが出来る。よって薬剤師や理学療法士といった言ってしまえば現実的な人気のある職業の時は優に百人規模で集まるのでホールや図書室など広い空間が貸し切られる。
しかし今回の講話場所は。
「——————つまり漫画家っていうのは夢の職業なんかじゃ無いのよ。編集に急かされ読者に急かされ、この世界全てから急かされ続ける職業なの。」
気怠げに業界の闇を話している売れっ子女性漫画家。
漫画家なんて小学生くらいでしか将来の進路に示さないような職業の講話。当然集まった人数も十人ほどで、半分は本気で漫画家になれると思っている夢見がちと、もう半分は多分普通に作者のファンだろう。オタク達が自習用の空き教室に集められて、アラサーの色気を振りまきまくる美人漫画家の話を色んな意味で鼻息を荒くして聞いていた。
轟アカネ。年齢不詳ということになっているが歳の程は恐らくお兄ちゃんと同じくらいだろう。偏見的なイメージで漫画家と言えば不規則な生活を送る健康的では無い見た目の印象だが、目の前で話す女性は、連日の徹夜で出来たのであろう目元の隈こそその印象通りだが、体つきはモデルでも通用するかのようなスタイルの良さ。出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる。顔面偏差値もかなり高い方だろう、隈を隠していないと言うことは化粧もしていないのか。それでこの美しさなら顔だけでも食っていけるだろう。
だがそんな彼女は国内でも屈指のレベルの売れっ子漫画家。年単位で続いている月刊連載が一つ、漫画アプリでの隔週連載が一つ、原作という立場で作画を別の人に任せている連載が一つ。自身の作品のアニメ化経験も『アクセル・ソード』を含めて過去二回。調べれば調べるほど彼女がどれだけ超人的な才能に恵まれているのかが分かる。けれども調べても調べてもお兄ちゃんとの共通点はアクセル・ソードのみ。その共通点も原作者と端役の出演者ってだけでそれ以上の情報はネットには落ちていなかった。
「………私からの話は以上。何か質問のある人はいるかしら?」
彼女のその一言に何人かの生徒が手を上げる。その質問は全て漫画やアニメに関する質問ばかりで、彼女にとっては想定通りの質問だったのだろう。淡々と特に声色を変えることなく丁寧に返していた。
お兄ちゃんのことをこの場で彼女に聞くわけにはいかない。
私はお兄ちゃんのことを学校では隠している。現役の頃のお兄ちゃんは髪の毛を染めていて、黒色に戻った今ではぱっと見られたくらいでは村雨アクトだと気づかれることは無い。ただ、名前も本名で活動していたし、この場にいる人たちは恐らく他の生徒よりもアニメや声優に詳しい人たちだろう。そんな人たちに私が村雨アクトの関係者であると知られると今後の学校生活が少し面倒になってしまう。
タイミングを探さないと…
やがて講話の全スケジュールが終わり、轟アカネが教員の誘導で教室を後にする。
余韻に浸っていたりやメモの整理をする生徒達を教室に残して私はその後を気づかれないようにつける。講話に呼ばれた人たちは大体が応接室を待合室として利用する。そこに入ったタイミングなら彼女と一対一で話が出来ると踏んでの尾行。そしてこちらのその考えは当たった。読み通り、彼女は応接室へと誘導されて教員は教室を出て行った。
私は教員が見えなくなったのを確認して応接室の扉をノックした。
「どうぞー。」
気怠げな、それでいて妙な艶っぽさのある声がドア越しに聞こえてくる。
扉を開けると中でソファに腰掛けながらタブレットにタッチペンを走らせている轟アカネがいた。
「…あら?あなた確か、さっきの講話にいた………」
「轟アカネ先生、あなたに聞きたいことがあります。」
ずんと重い空気が応接室に充満する。
「質疑応答の時間はさっき締め切ったでしょう。それにあなた、私の話全く聞いてなかったじゃ無い?」
「そ、それは…」
「穴が開くような熱視線。あなたが興味があるのは漫画業界じゃ無くて私自身…私のファンか何かかしら?」
「…村雨アクトという男をご存じですか?」
一瞬、彼女の手の動きが止まったような気がしたが、彼女は視線をタブレットから移すことは無く再びペンを走らせる。
「ええ、知ってるわ。何年か前にアクセル・ソードの声優をやって貰った。そうで無くても五、六年前くらいから活動しているエンタメ従事者なら知らない人はいない名前だと思うけれど。」
「彼が五年前に活動休止したことも?」
「…はぁ。何?あなた彼のファンか何かなの?あなたくらいの歳のファンなんて珍しいけど、彼ほどの男ならあり得ない話でも無いのかもね。」
彼女の視線が、初めてこちらに向いた。底の見えない、全てを見透かすような瞳がこちらを睨むように見ている。
足がすくむ。轟アカネがタブレットを置き、こちらに歩み寄ってくる。
「仮に、もし仮に私が村雨アクトと関係のある人間だったとして、それをあなたに言うはずが無いでしょう?業界において情報というのはお金よりも重い財産なの。私はそんな財産を簡単に手放したりしないし、簡単に手放すような人間と関係値を築いたりはしない。」
私より少し高い目線がこちらを見定めるかのごとく睨み付けてくる。怖い。けど引いてたまるか。
「…でも、情報を使って戦うことはありますよね。」
「それは私たちが交渉したりするときにはね。でも私にはあなたが私と交渉できるだけの情報を持っているとは思えない。」
言質を取った。交渉なら応じてくれる可能性があると言うことだ。
奇しくも交渉材料は、私自身にある。あとはこの手札をどれだけ有効に切ることが出来るか。
「…いいえ。交渉という土台であれば、私はあなたと戦うことが出来ます。もし私の言っていることに整合性が見受けられたら、私のお願いを聞いていただけますか。」
「………いいわ。そこまで言うからには何かあるんでしょう。言っとくけど、半端な内容だったらつまみ出して——————」
「そう言えば自己紹介がまだでしたね。初めまして轟アカネ先生、私の名前は村雨エリといいます。村雨アクトの妹です。」
「………確かに彼は珍しい名字ではあったけど、それだけじゃ薄いわよ。第一、彼に妹がいたなんて情報公表されてないわ。」
彼女は私から目線を反らさない。けれども先ほどから感じるこの違和感はなんだろう。なんとなく分かる気もするが確証が持てない。私はスマホを取りだしお兄ちゃんと私の写った写真を轟アカネに見せる
「兄が22、業界を去る前の年に撮った写真です。」
「…ファンイベントか何かで撮ったものかも知れないじゃ無い。」
「無理のある言い分ですね。後ろに写っているのは私たちの実家です。」
「…」
轟アカネは私の背後にゆっくり歩くと部屋の鍵を閉めた。
「…じゃあ一旦あなたが村雨アクトの妹だというように仮置きして、そんなあなたが私になんの用かしら?」
「私が知りたいのは、業界で兄に何が起こったのかです。」
「私が知るわけ無いでしょう。彼と私はただの演者と原作者。それ以上なんて無いと思うのだけれど?」
「それは…ごめんなさい。私の前に現れた一番初めの業界での兄を知る人だったから………」
「つまり、なんの目星があったわけでも無く、誰でも良かったと。」
反論する言葉も無い。全くの図星だ。
「…もしこれであなたを利用して私が村雨アクトに近づこうとしてたらどうするの?私が彼の質の悪いストーカーだったら?私は漫画家であって芸能人では無いけれど、知り合いを装ってお目当ての人間に近づくなんて良くあるストーカーの手口だって判断は出来なかった?」
「う………」
「引退した業界人の過去を深掘りするなんてセンシティブな話題を聞き出そうとしているのに部屋の鍵もかけない、この後もう数分したら担当の先生が戻ってくることも知らない、教室で聞いてこなかっただけ自己防衛の手段は幾分考えてるようだけど、情報漏洩への対策がはっきり言ってザル。」
彼女はソファに座り直すと再びタブレットにペンを走らせ始めた。
「守秘義務の守り方も知らない一般人に情報を公開する気は無い。お引き取りいただけるかしら?」
轟アカネと私の間に重い沈黙の時間が流れる。
「…お兄ちゃんは。」
確かに私は業界の人間じゃ無い。お兄ちゃんみたいな才能があるわけでも無ければ、似ている所なんてちょっとルックスが良いくらい。
「戻ってきたときに泣いてました。」
お兄ちゃんは何でも出来るから、戻ってきて一年もしないうちに資格を取って就職した。
「お兄ちゃんの涙なんて見たことが無かったんです。それから色んな事をお兄ちゃんに聞こうとしてもはぐらかされるばかり。」
優しくて格好良くて、頭も良い、私の自慢のお兄ちゃん。
「戻ってきてからのお兄ちゃんは変わらずに私に接してくれている。けど時折見せる表情にどこか影を感じる。」
「…業界を引退する人間なんて大体ろくな理由じゃ無いわよ。あなたのお兄さんもそうだったんじゃ無いの?」
「どこを調べても、どの記事を見ても兄の引退理由は適当な憶測ばかり。証拠の揃った確証の持てるものなんて何一つ無かった。」
この行動は、決して突発的な思いつきによる行動じゃ無い。今まで何度も、何度も何度も何度もお兄ちゃんのことを調べ尽くした。所属事務所、養成所、出演作品、共演者…素人の一般人に調べられる範囲は全て調べ尽くした。それでもお兄ちゃんの情報は出てこない。出てくる情報と言えば才能があるだの選ばれた人間だのと言う薄っぺらい情報ばかり。
だから私は次のステップへと進むことにした。
『兄と関わりのある人間に直接接触して業界での兄のことを聞き出す』
「……謎の多い役者ではあったわ。インタビューなんかでも自分の事は余り話していなかったようだし。」
「インタビュー記事のことをご存じなんですね。」
「編集から聞いたのよ。掴めない人だってね。」
「そう、兄は全くの痕跡を残さずに栄光だけ置いて業界を去った。でも栄光しか無かったのであれば、あの兄の涙はなんなんですか。」
「これ以上は止めておきなさい。一般人が芸能界のグレーを覗いて良いこと何て何一つ無いんだから。」
「お兄ちゃんの事を知れるならお化けだって死体だって怖くない!!!」
びりびりと応接室の中に私の叫びが反響する。
「お兄ちゃんはずっと私のことを助けてくれた。ずっとずっと、私が辛いときはそばにいてくれた。だから私はお兄ちゃんのことをもっと知りたい!お兄ちゃんが泣いてるなら、そのわけを聞いてあげたいのに…私には、その手段が無い………!」
「………辛い思いを妹にさせたくないって言う兄の思いやりだとは思わないの?」
「きっと…っていうか百パーそうだよ…でも、それでも私は………」
頬を涙が伝う。兄の助けになれないふがいなさ、こうして当時の兄を知る人に頼るしか無い無力さ、妹としての情けなさを痛感していた。
数秒して、轟アカネが立ち上がり、荷物の整理を始めた。
「轟先生?何か大きな声が聞こえましたが大丈夫ですか?」
「…!?」
まずい…!扉の外の教員に気づかなかった。今は鍵が掛かっているから入ってくることは無いが、轟アカネが部屋の鍵を開けたらおしまいだ…
教員に私が捕まっている間に、彼女はタクシーで空港へと向かってしまう。そうなれば私は彼女の住所を知らない、情報収集がまた振り出しに戻ってしまう。
なんとかしてこの場を切り抜けて、なんとしても轟アカネから少しでも情報を聞き出さないと…!
「…村雨エリちゃん、だったかしら?」
「…はい?」
「…本当に、遺伝子って言うのはどうしてこうも憎たらしいのかしらね。」
打開策を考え続ける私の耳に轟アカネの艶っぽい声が浸透する。いつの間にか扉を背にした私の真横に、鞄を持って立っていた。そして扉に手をかけてカチリと冷たく乾いた音を立てて鍵を解錠した。
「ごめんなさいね。見ていた動画の音量が急に上がってしまって…ご迷惑をおかけしましたか?」
「い、いえ、お気になさらず…」
扉の向こう側にいた中年教師は轟アカネの美貌に鼻の下を伸ばしているのが丸わかりだった。
「…ん?なんだ君は!?何故生徒が轟先生の部屋の中にいるんだ!」
「あ、えっと………」
「この子、私の親戚なんです。忘れ物を届けに来てくれたみたいで…」
「は?何言って—————」
突然の事に声を上げようとした私を遮るかのように彼女は私にだけ見えるようにタブレットの画面を見せ、中年教師の気を会話で引いている内に画面をスクロールし何枚かのメモを順番に表示させる。
『全てを知っても後悔しないというなら、このまま私とタクシーに乗りなさい』
『お兄さんの村雨アクト、私の元カレについて知っている限りを教えてあげる』