8 リーズと兄のエイデン
今回でひと区切り。次回からはシャーロットの話に戻ります。
シャーロットの養母マーサの本名はリーズ・オーバン。
バンタース王国のオーバン男爵家の三女だった。
侯爵家に行儀見習いに上がり、侯爵家のご令嬢ソフィア様に気に入られ、そのままソフィア王妃殿下付きの侍女になった。オーバン男爵家にとってリーズは出世頭だった。
そのリーズが『ソフィア様の生まれたばかりのお子様を連れ去った』ことは、とんでもない大事件だった。
オーバン男爵家は領地なしの貴族で代々文官を務める堅い家柄だったが、この事件で父と兄は職を失い、爵位も取り上げられた。平民となった兄のエイデンは代筆業、代読業、商家の書類仕事などをして働いていた。
だが、エイデンも両親もリーズを恨んではいない。
なぜならソフィア様のご両親から密かに援助を受けていたからである。
リーズはシャーロットを連れて城から逃げてからしばらくして、ソフィア様のお父上である前侯爵に事情を書いた手紙を送っていた。
『ソフィア様は生まれてくるお子様の命が狙われるのを恐れ、私とケヴィンに遠くの地でシャーロット様を育てるようにとおっしゃいました。シャーロット様はご無事で健やかにお育ちです。お名前はソフィア様が付けられました』
赤子の髪がひと房、赤いリボンで束ねられて手紙に同封されていた。細く柔らかい赤子の髪の色は、前侯爵の愛娘と同じダークブロンドだった。
それまで悲嘆に暮れていた前侯爵夫妻は涙を流して喜び、苦しい生活を強いられていたリーズの実家を夫妻の私費で援助することにした。
しかし当主となった長男には
「ソフィアの子が殺される前に連れ出されたなら、むしろ幸いだった。何かあれば私と私の子が目を付けられてしまう。もう一切その件に関わらないでください」
と釘を刺された。
「多くは望むまい。シャーロットにはソフィアの分まで生きてもらえば良い。リーズの忠義に感謝する」
前侯爵はエイデンにそう伝えた。
前侯爵夫妻はその後も年に一度ずつ送られてくる手紙で、シャーロットの成長の様子を知ることができた。シャーロットは愛娘のソフィアそっくりに育っているらしかった。手紙には差出人の名前も住所も書かれていなかった。
ただ、人を使って調べた結果、手紙が隣国の王都の業者を使って送られてきていることだけはわかった。
・・・・・
シャーロットが十六歳になる頃、マーサは体調を崩していた。
とにかく胃が痛い。顔色も悪くなり最近は痩せてきた。だがシャーロットの前では必死に元気なふりをし続けた。
(どうせ助からないのなら、この子に心配をかける時間は短いほうがいい)
そう覚悟を決めていたマーサだったが、
「死ぬ前に迷惑をかけた家族に謝りたい、ひと目だけでも顔を見たい」
マーサがそう訴えた時、リックは反対した。
「その身体で母国に向かうのは無理だ。寿命を削ってしまう。諦めてくれないか。俺とシャーロットのためと思って一日でも長く生きてくれよ」
それを聞いてマーサは「そうだったわね」と弱々しく微笑み、それ以上は何も言わなかった。だがそれ以降マーサが少しずつ弱っていくのを見て、リックは考えを変えた。
「危険を犯すことになるが、義兄上に手紙を出そう。この国まで義兄上に来てもらおう」
『自分は大病でもう長くない。死ぬ前にひと目、父様母様兄様に会いたい』
エイデン・オーバンの家に、妹のリーズから手紙が届いた。実に十六年ぶりの手紙だ。エイデンは読んでいる途中から涙を堪えきれず、すすり泣いた。妹がなぜあんなことをしたのかは、前侯爵様から知らされていたからだ。
妹は忠義者だったばかりに十六年間も隠れて生きている。
おそらく生活も苦しかっただろう。
兄としては(ソフィア様の願いを聞かなかったことにして平穏に生きる道もあったろうに)と妹を不憫に思う。
しかし妹はソフィア様のお子様を育て続け、もうすぐ命が尽きるという段になって家族に会いたいと伝えてきた。エイデンは妹が可哀想でならなかった。両親は既に他界していたから、エイデンは(なんとしても妹に会いに行こう)と決めた。
『十二月の十九日、昼頃にランシェル王国で会えないでしょうか。本来なら私からそちらまで向かうべきですが、病が重く遠くまで行けません。ランシェルの王都とカナンの町の途中のニールスという集落があります。ニールスの街道沿いに、欅の大木が生えている場所があります。そこで待っています』
手紙には住所が書かれていなかった。妹はこの期に及んでもまだ、兄の自分にさえシャーロット様の居場所を隠すのだ。エイデンは
「リーズ、お前、忠義者にも程があるよ」
と妹を思って男泣きした。
住所が書かれていない以上『家族が来るか来ないかわからなくてもその場で待っている』ということだ。エイデンは十二月十九日に間に合うよう国を出た。
その日、リックとマーサはかなり早めに大欅に到着していた。
「マーサ、疑うわけではないが、義兄上がどんな状況で来るのかわからない。お前は、まずは離れた場所で隠れて様子を見ていたほうがいい。陛下の手の者が尾行している可能性もある」
「わかったわ」
マーサはリックの言葉に従って、離れた茂みに隠れて様子を見ていた。
一方、目印の大欅を見つけたエイデンは、欅の下に停まっている馬車とその少し手前で立っている男に気がついた。五十前後の男がエイデンの馬車に向かって頭を下げた。エイデンは自ら手綱を取っていた馬車を少し手前で止め、辺りをうかがってから声をかけた。
「もしやケヴィンか?」
「はい。エイデン様。リーズと共に暮らしております」
「リーズはどこだ? リーズはよほど具合が悪いのだろうか。早く会わせてくれ」
会話の間も二人は見晴らしが良い場所にもかかわらず、辺りを警戒し続けた。
エイデンが御者席から降りようとした時だ。ゴゴゴゴと地鳴りが始まった。
そこから先はあっという間の出来事だった。
エイデンの目の前に大量の土砂がなだれ込んで、今の今まで目の前にあったケヴィンの馬車を一瞬で押し潰した。
土砂崩れが収まるのを待って、エイデンはケビンと馬車があった辺りに近寄った。ケヴィンは首から上だけが見えているものの、頭部の傷から酷く出血していてピクリとも動かない。
「ケヴィン! 目を開けてくれ! リーズ! リーズ! 返事をしてくれ! ああ、なんてことだ……」
エイデンは馬車が埋まっている辺りに目をやった。もう長くないと書いて送ってきた妹は、間違いなく馬車の中で死んでいるだろうと思った。掘り出せそうもない膨大な量の土砂を見て、エイデンはガクリと膝を折り、地面に手をついた。
マーサは一部始終を離れた茂みの中から見ていた。
そしてふらふらと薮の中から姿を現し、土砂に向かって歩いた。それに気づくエイデン。十六年ぶりに会った妹はすっかり年を取り、見るからに具合が悪そうな顔色をしていた。
「リーズ! お前、お前、無事だったのか!」
「兄様、どうしよう、リックが、リックが! 私のせいだわ。ああ、どうしよう!」
そこまで言ってマーサはヘナヘナと座り込んだ。
マーサは斜面が崩れたのを見た時から、胃が焼けるように熱く痛かった。
エイデンは石や岩の混じった土砂の山を避けて大きく斜面側に回り込みながら進んだ。端の方でさえ腿まで土砂が積もっている。
エイデンはやっとのことで妹のところまでたどり着いた。妹はガタガタと震えていて顔色が真っ白だった。
(これはまずい)
エイデンは有無を言わさず妹を背負い、再び苦労して土砂の山を迂回しながら自分の馬車へと妹を運んだ。背負った妹は驚くほど軽かった。妹を馬車に横たえ、チラリとケヴィンを振り返る。やはりケヴィンは生きている気配がなかった。
「許せ、ケヴィン」
エイデンは今にも息絶えそうに見える妹を優先した。
馬車の向きを変え、馬を急がせた。せめて最後はどこか暖かいベッドの上で最期を看取ってやりたかった。エイデンからは、斜面の上の奥まった場所に建てられているクレールの家は見えなかった。
(来る途中に農家があった。あそこまで行けば……)
馬車を走らせ、覚えていた農家にたどり着いた。
エイデンは妹を抱いてその農家に駆け込んだ。農家の住人は土まみれで血走った目をした貴族風の男性とぐったりと抱えられている女性の様子に驚いた。
「どうなさいましたか!」
「すまない、土砂崩れに遭遇してしまったのです。どこか部屋を使わせてもらえないだろうか」
農夫は急いで自分たちの寝室を提供し、暖炉に火を焚いてくれた。
「申し訳ありません。この辺りにお医者様はいないのです」
そう頭を下げる農夫に、エイデンは首を振った。
「こうして暖かい場所を貸してもらえるだけでも感謝しています」
(兄にシャーロットの居場所を伝えるべきか、隠すべきか)
兄と農夫の会話を聞きながら、リーズは必死に考えを巡らせていた。
おそらく自分の持ち時間はもうすぐ尽きる。自分たちが戻らなければシャーロットはエドル商会に行くだろう。生きていくための技術は自分たちが知っている限り伝えてきた。
(もう、あの子には王家からもあの国からも縁を切らせたい。この国で平凡に平和に生きてほしい)
リーズは兄にシャーロットの居場所は言わないと決めた。
「リーズ、ソフィア様のお子様はどこにいる? お前たちの家はどこなんだ? 私がお子様を迎えに行くよ」
しかしリーズはそれには答えず
「兄様、会えて嬉しかった。迷惑をかけてごめんなさい」
とだけ伝えて目を閉じた。
リーズはゆっくり薄れゆく意識の中で愛する娘を思い出していた。
シャーロットが初めて立った時のこと。
ヨチヨチ歩きで嬉しそうに自分に近づいて来る様子。
初めて「あーたん」と自分を呼んでくれた時の嬉しさ。
甘い野いちごを食べて目を丸くした幼い笑顔。
夫と二人で弓矢を放つ凛々しい立ち姿。
リーズにとってシャーロットは、ソフィア様からの預かり物ではなくなっていた。自分の命よりも大切で愛しい娘だった。
(私のシャーロット。どうか、強く生きて)
こふり、と口から細く血をあふれさせ、マーサ・アルベールことリーズ・オーバンは、その夜、兄に見守られながら息を引き取った。
翌朝、エイデンは農家の主人に妹を埋葬したい旨を告げ、墓の用意をしてもらっている間に急いでケヴィンの所へ戻った。
土砂崩れの現場では、四十人ほどが集まって土砂を取り除く作業をしていた。ワイワイガヤガヤと賑やかな集団の一人にそっと
「ここに人は埋まっていませんでしたか」
と尋ねたが、
「初日から作業をしているが、誰も埋まっていなかった」
と言うのみ。
(どういうことだ? 生きてたのか?)
それ以上は探しようもなく、エイデンは不慣れな他国で手続きを済ませ、妹をその地区の墓地に埋葬した。
真新しい墓石に触れながらエイデンが話しかける。
「リーズ。お前は本当によく頑張った。これからはのんびりするんだぞ。ケヴィンがもしそっちにいるのなら、仲良くな。父さんと母さんもきっと待ってる。私もいずれそっちに行くよ」
エイデンは帰国後、前侯爵夫妻に今回のことを残らず報告した。