7 ケヴィンの記憶
ケヴィンは消えなかった記憶を繰り返し思い出している。その中に消えた記憶を思い出す手がかりがあるかも知れないからだ。
ケヴィンは隣国バンタース王国の兵士だった。最後の記憶はソフィア様の部屋を警護していた。ソフィア様は少し前まで王妃だった方だ。
ソフィア様と陛下が結婚されてしばらくして、国王陛下がご自分の胸を両腕で抱きしめるようにしてバタリと倒れられ、そのままあっという間にお亡くなりになった。会議の最中のことで、心臓の病だろうというのが医師の診立てだった。しかし陛下はまだ三十代だったから毒殺の噂が流れた。ケヴィンも噂は聞いていた。ソフィア様はご懐妊が判明したばかりだった。
亡くなられた国王陛下に代わり、すぐにジョスラン王弟殿下が新国王に即位され、ソフィア様は「前王妃」となられた。
ある日いよいよソフィア様に陣痛が始まった。
ソフィア様は陣痛と陣痛の間に人払いをし、ケヴィンと侍女のリーズを呼び寄せ、三人だけになると小声でとんでもないことを言い出された。
「陛下がお亡くなりになられてから、ずっと考えていたことがあります。私にもしものことがあったら、隙を見て赤ちゃんを連れて逃げてくれませんか。そしてあなたたちの子どもとして育ててほしいのです」
ケヴィンは(一体何をおっしゃってるんだ?)と理解できないまま話を聞いていた。
「名前は、男の子だったらシャルル、女の子ならシャーロットと名付けて、一人でも生きていけるように強く育ててほしいのです」
そう言ってソフィア様は枕の下からお金の詰まっていそうな革の袋を取り出し、リーズに手渡した。そんな物をいったいいつ準備したのかと、ケヴィンとリーズは驚いた。
「ソフィア様、縁起でもないことをおっしゃらないでください」
そう言ったリーズに向かって首を振って、ソフィア様は言葉を続けられた。
「袋の中には私の指輪も入っています。私の形見として私の子にいつか渡してほしい。袋の中の金貨で十六年は暮らせるはずです。お願い。このお金と指輪を持って、どこか遠くでこの子を成人するまで育ててくれませんか。あなたたちが恋仲なのは知っています。夫婦としてこの子を育ててほしいのです。どうか、私の願いを聞いてください」
それまでソフィア様は上半身を起こして長座していたが、そこで自分たち『侍女と護衛』に深々と頭を下げられた。
「私の実家は頼れません。今は兄が当主だから、実家を頼ればこの子はすぐにここへ連れ戻されてしまうでしょう。兄にも子どもがいますから、ジョスラン国王陛下のお怒りを受けるわけにはいかないのです。けれどここにいればこの子はきっと殺されてしまう。こんなことを頼んで本当にごめんなさい。でも、あなたたちにしか頼めないの」
ソフィア様がこんなことを頼むのには理由があった。これからお生まれになるお子様には王位継承権があるのだ。バンタース王国では君主の男女を問わない。
ライアン前陛下に続いてソフィア様までが亡くなったなら、生まれてくるお子様の命が狙われるだろうことは容易に想像がついた。ジョスラン新国王陛下には三歳の男児がいるからだ。
「ソフィア様、王位継承権の返上をなさればお子様は安心なのではありませんか?」
ケヴィンがそう言うと、ソフィア様は眉を寄せて首を振った。
「その程度のことではジョスラン陛下は手を緩めないわ。この子が王族として生きている限り、何かしらの手を打ってくるはずです」
それを言われてケヴィンには思い出すことがあった。ジョスラン新国王が第二王子だったころのことだ。
剣の鍛錬中に「うっかり手が滑って」ジョスラン殿下が兄のライアン王太子殿下に向かって剣を投げつけた。しかもその日に限ってなぜか、ジョスラン殿下は真剣を使うことにこだわっていた。
ライアン王太子殿下は間一髪で剣を避けた。
ジョスラン殿下は「うっかり手が滑った」と繰り返し言い張っていたが、ケヴィンを含む兵士たちにはジョスラン様がライアン様を狙って投げたようにしか見えなかった。
真相を解明すれば第二王子を処刑する可能性が出るからか、裁判が開かれることもなくジョスラン第二王子は王都から遠く離れた王家の領地に送られた。
その後、ライアン王太子殿下は国王に即位された。
今回、そのライアン国王陛下もお亡くなりになったので、『かつて実の兄を殺そうとしたかもしれない人物』は王城に戻って新国王になったのだ。
反対の声もあったが、王位継承順位を反故にするほどの理由は誰も挙げられなかった。
リーズはソフィア様の手を握り
「ご安心ください。お子様のお命は私が全力でお守りします。神に誓ってお約束いたします」
と安心させるように優しく返事をしていた。
ソフィア様は安心したお顔になり、やがてやってきた陣痛に顔を歪めながら
「ありがとうリーズ、ごめんなさいケヴィン」
と小さな声でおっしゃった。
お産は長引き、ソフィア様は陣痛に苦しみながら二日目を迎えた。
「このままではおなかのお子様の体力が尽きてしまう」
と医者も産婆も酷く心配し始めた。
陣痛が始まってから二日目の夜。
ソフィア様のお産の途中で大量出血が起きたらしかった。
ドアの外にいるケヴィンにも室内の慌てた声は聞こえてきた。手の打ちようがないまま、どうにかお子様は産まれた。産声を聞いて、ホッとしたのを覚えている。
だがソフィア様はお産の直後に意識を失い、そのまま息を引き取られた。
ソフィア様がお亡くなりになり、部屋は大変な騒ぎになった。
皆はソフィア様のベッドの周囲で嘆き悲しんでいた。その隙にリーズはそっと赤ん坊を籠に入れ、「乳母のところにお乳を貰いに行って来ます」と告げて部屋を出た。
「誰も自分と赤子の方を振り返らなかった」とリーズは言っていた。
リーズは部屋を出てケヴィンと目を合わせると、生まれたばかりの赤子が息をできる程度にふんわりと小さな布を被せて中を隠した。それを確認してケヴィンもそっと持ち場を離れた。もう一人の警護の騎士には
「一緒に行ってくる」とだけ告げた。
ケヴィンは城門の手前でリーズから籠を受け取り、それを脇に抱えて(泣かないでください。どうか、少しの間だけは泣き声を出さないでください)と赤子に願いながら門番の前を通った。
城門を出たあとは、赤子とリーズの三人で夜道を馬で逃げた。
「自分たちは名前を変えて、二人でこの子を育てよう」
と話し合いながら馬を急がせた。そして……。
そこから先の記憶がない。全く何も思い出せなかった。
時おり二十代のリーズの笑顔を思い出したし、シャーロットと名付けたはずの赤ん坊はその後どうなったのだろうと思う。自分は三十二歳だったはずなのに、鏡の中の自分は五十近い外見になっていた。
城から逃げたあとのことを思い出そうとすると、急に頭の中が真っ白になる。そして胸が掻きむしられるような、じっとしていられないような焦燥に駆られる。
土砂崩れに巻き込まれてから二ヶ月後には、ケヴィンは杖なしで動けるようになった。クレールとの暮らしにも馴染んできた。
だが失われた記憶は一向に戻らないままだった。
クレールはクレールで「どうしようもないことなら言わない方がケヴィンのためだろう」と判断し、ケヴィンに馬車のことは言っていない。
「あなたは一人で土砂に埋まっていた」と説明していた。
クレールは二十年前に夫を病で亡くして以来、独りで自給自足の生活をする農民だった。今は穏やかな性格のケヴィンとの暮らしに馴染み始めていた。
クレールは
「町の警備隊に事情を話して掲示板にケヴィンのことを貼り出してもらいましょうよ」
と提案した。だがケヴィンは
「絶対にやめてほしい。そんなことは望んでない」
と言う。理由を聞いても答えない。クレールはそんなケヴィンの態度に少しの不安はあったものの、ケヴィンを追い出さなかった。
(シャーロット様はどうなったのだろう。リーズはどこにいるのだろう。そもそも俺は今までどこで暮らしていたのか)
一人になるとケヴィンは失われた年月のことを思い出そうとする。だがどうしても思い出せない。
「まずはシャーロット様を探さなくては」
自分たちはこの国に住んでいたのだろうか。そう仮定しても、この国の王都に住んでいたとは思えなかった。
ソフィア様に頼まれたことを実行したのなら、自分とリーズは人のいない森や町外れに住む場所を求めたはずだ、と思う。
骨折がすっかり癒えたある日、ケヴィンはクレールの家を出て二人を探さなくては、と決心した。
「クレール、俺には探し出さなければならない人がいる。あなたにはとても世話になった。いつか必ずお礼はする」
黙って話を聞いていたクレールは(今こそ本当のことを告げるべきだ)と思った。
「ケヴィン、あなたはおそらく馬車でここを通りかかったんだと思う。その馬車は土砂崩れで潰れ、二度目の崖崩れで崖下に落ちたの。中に人がいたかどうかはわからないわ。今まで隠していてごめんなさい。あなたが覚えていないことで苦しむのは気の毒で言えなかったの」
それを聞くとケヴィンは家を走り出て、街道まで下った。崖下を覗き込み、膨大な量の土砂を呆然と眺めた。背後から足音が聞こえて、ケヴィンは後ろから付いてきたクレールを振り返った。
「馬車に人が乗っていたのかいなかったのか、俺は何が何でも確かめなければならないんだよ。クレール、お礼は必ずする。畑仕事も手伝う。だから頼む、俺をもう少しここに置いてくれないか」
「いいわよ。好きなだけここにいればいいわ」
クレールは(また元の一人暮らしに戻るのは寂しい)と思い始めていたところだったから、ケヴィンとの別れが先送りになったことはありがたかった。
ケヴィンは昼間は畑仕事を手伝いながら、朝夕の時間を使って毎日一人で土砂を取り除き続けた。