51 絵の行方
ガブリエルはその宿に泊まりこんで絵を描き続けている。
部屋に来るたびにシャーロットは絵の中の自分を確認する。絵に魂が込められていく過程を、驚きを持って見てきた。
線画だけの人物に立体感が生まれ、肌の質感、髪の重さ、瞳の輝きがガブリエルによって生み出されていく。まるで神が土くれから人間を創造する手際を見ているようだった。
モデルを務めている数か月の間に、シモンとも会っているがモデルのことは言わないでいる。
ある時は二人で馬に乗って走ったりある時は田舎町の食堂で食事を楽しんだり。お茶と菓子の店で飽きずにおしゃべりもした。
「もっと華やかな場所に行くべきなのはわかっているんだ。次は王都の繁華街に行こうか」
「私は森の家とお城しか知らなかったので、どこへ出かけても新鮮で面白いですよ。繁華街はまた後にしましょう」
とシャーロットは笑う。
シモンが人の視線を嫌ってることはとっくに気づいていた。不躾な視線がどれだけ疲れるかは、シャーロットも十分知っている。
シモンは仕事が忙しいらしく、目の下にはうっすらとクマができていた。こんな時は尚更視線は不快だろうと労りたい気持ちになった。
(早くあの絵が売れてシモンさんの役に立てばいい)と思いながら疲れた顔のシモンを見ていた。
◇ ◇ ◇
ガブリエルの絵が完成した。
ロウウェルは数日おきに絵の進み具合を見に来ていたが、その日、ガブリエルが絵を描いていなかった。お茶のカップを手に、立ったまま自分の絵を眺めている。
「もしや、完成したのかい?」
「ええ。ロウウェルさん」
ロウウェルは急いで部屋の中に入り、少し離れた位置から三枚の絵を眺めた。長い時間黙って二人で眺める。
「ガブリエル、これは傑作だよ」
二人の前には三台のイーゼルにそれぞれに置かれた三枚の油絵。
室内にはテレピン油の匂いがこもっていた。
顔にも手にも服にも油絵具をくっつけたガブリエルは、やるべきことを成し遂げた達成感に満ちた表情をしている。
ロウウェルは画商たちに案内状を出した。
隣国バンタース王国の知り合いの画商にも。案内状には『悲劇の王妃を彷彿とさせる素晴らしい絵を手に入れました。ぜひご覧いただきたい』と書いた。
イブライム国王は馴染みの画商からその話を聞いた。
「内容が内容ですので陛下にも念のためにお知らせをと思いまして。ソフィア様を彷彿とさせる絵だそうですよ」
「ほう。モデルは誰が務めたんだろうね」
「そうおっしゃると思って問い合わせました。お城で働いている侍女だそうです。画商はフォーレ侯爵の叔父です」
「そうか」
興味がなさそうな顔で返事をしたが、イブライムは確信していた。
侍女でソフィア王妃を彷彿とさせる女性ならば間違いなくシャーロットだ。
イブライムは画商が部屋を出るとすぐに控えている侍従の方を向いた。
「ルイ、頼みたいことがある」
「絵を何が何でも競り落とすんですね?」
「さすがだね。私の私財を使え。絶対に他の客に絵を持ち帰らせるな」
「おお、豪気な買い付けを経験できますね。お任せください。絶対にしくじりません」
イブライム国王は従者ルイが出て行くと父親が療養している部屋へと向かった。
父のジョスラン前国王の部屋は、まだ夏の終わりだというのに暖炉が使われていた。
ムッとするほど温められた寝室で、ジョスランは浅い呼吸をしていた。
「父上。お加減はいかがです?」
「イブ、ライム」
「おつらそうですね。あれほど酒と食事を摂りすぎないでくださいと申し上げたのに。でも、仕方なかったのですね、父上。飲み食いしないではいられなかったのでしょう?」
ジョスランは眉を寄せて、苦言を呈する息子を見た。長年の不摂生で痛めつけられた身体はゆっくりと死に向かっていた。
「父上、今のうちにひとつだけ教えてほしいのです。父上の兄であるライアン国王は病死ですか?それとも父上が命じて毒殺させたのですか」
ジョスランは答えなかった。その代わり、腕を伸ばしてイブライムの頬をそっと撫でた。
「私の、宝物」
それだけを言うと伸ばした腕をベッドにパタンと落とし、うとうとと眠り始めた。盛大に贅肉を付けていたはずの父の身体は、今は枯れ木のように痩せ細って乾いている。イブライムは父に向かってささやいた。
「父上。両親がいて贅を尽くされた環境で育っても、私の人生はずっと不幸でした。蘭を育て、美しい絵を見ている時以外はずっと、ずっと苦しかった。父上の噂が耳に残って消えませんでした。とてもつらい人生でした」
眠っているジョスランからの返事はない。
シャーロットに出会う前、会議の席で「前国王の連れ去られた赤子が現れたらどうなる?」と尋ねたことがあった。多くの家臣はたとえあの時の赤子が現れても、イブライムなら問題ない、あの赤子が王になる目はないと言った。
だが、今、イブライムはそうは思っていない。
シャーロットが自分の出自を高らかに叫べば、バンタースの国民は狂喜して彼女を迎え入れただろう。
民たちは黒い噂が絶えなかった父の子である自分よりも、悲劇の王妃にそっくりなシャーロットが女王となることを望んだだろう。
だがシャーロットは自分のことを忘れてくれ、と言った。
地位も権力も財産も持たない彼女だが、幸せなのだろうと思った。死にゆく父よりも王となった自分よりもずっと確かに幸せなのだろう。
「僕は君が望むなら、喜んで王位を譲渡したのに。夢だった学者になっただろう。君が羨ましいと言ったら、君と君を守ってきた人たちに失礼なんだろうな」
イブライムの独り言を聞いているのは壁に飾られた歴代国王夫妻の肖像画だけだ。
◇ ◇ ◇
美術商ロウウェルの審美眼は広く知られていたので、指定された日には各地から続々と画商たちが王都にやって来た。その中にはバンタース王国の画商たちもいた。
「悲劇のソフィア王妃」はバンタースでは大っぴらには口にできない言葉だ。その『悲劇』という言葉にジョスラン前国王への批判が滲むからである。
だが、バンタース王国ではソフィア王妃への敬愛の念は今も色濃く残っている。悲劇で幕を閉じた絶世の美女は、悲劇であったがゆえに国民の心の中で長く生き続けているのだ。
その王妃を『彷彿とさせる絵』とはいかなる物なのか。バンタース王国から来た画商たちは、今か今かと絵の公開を待っていた。
ロウウェルが用意したホールは熱気に包まれている。
三枚の絵がイーゼルの上に置かれ、上から深い青色の布が掛けられている。知らせてきた時刻通りにロウウェルが壇上に現れて、絵の説明をした。
「バンタースの悲劇の王妃は冥界へと旅立たれてしまいました。我々はバンタース王家の許可なくソフィア様の絵を扱うことはできません。しかし、今回皆さんにお披露目するのは悲劇の王妃を彷彿とさせる若い女性の絵であります。歴史に残る素晴らしい作品です。きっとみなさん驚かれることでしょう。どうぞ、ご覧ください」
ロウウェルが次々と青色の布を取り去った。
静まり返るホール。集まった数十名の画商たちが全員息を止めたかのように微動だにせず、食い入るように絵を見ていた。
右の絵は真っ赤なドレスを着た女性が長椅子に座り、美しい顔を斜め前に向けている。指を伸ばして持ち上げた右手には一匹のアゲハチョウが止まっていた。ゆるく結い上げられた豊かな髪、細身の身体から発散される生命力。ドレスの強い色に負けない美しい顔で曖昧に微笑んでいる。
真ん中の絵は白く柔らかい布を何重にも身体に巻き付けた森の女神のような姿で、弓矢を構えている。今まさに矢を放とうという場面。すらりとした腕や脚にうっすらと浮かび上がる筋肉。女性の背景は深い森だ。初夏の瑞々しい木の葉、木の枝に止まっている小鳥。木の葉に光る朝露。地面に生えている柔らかそうな草むらには小さな野の生き物が見え隠れしている。
左の絵は緑色のドレスを着た女性がひと房の髪を乱して剣を振り抜いた瞬間の絵。
ピタリと密着したドレスの上半身。スカート部分は布をたっぷり使われていて柔らかく膨らんでいる。上品なドレスをなびかせて、女性は見ている者の心を貫くような強い視線をこちらに向けている。
顔に漂うのは怒りと悲しみ。片方の目から涙がツッと伝い落ちている。
長い静寂のあとで自然に人々から拍手が起きた。
拍手が収まったあと、右側の赤ドレスの絵から順番に競売が始まった。
画商たちが進行役の男性に向かって小金貨の数を告げる。五枚から始まった競り合う声は熱気を帯びて五十枚まであっという間に駆け上がった。
「二百枚」
全員が口をつぐむ。五十枚の次に二百ということは、「何が何でも競り落とす」という意味だ。
「二百十」老紳士風の男性が挑戦した。
「三百」若い男がすぐさま大幅に数字を上げた。
「三百五十!」
「四百!」
赤いドレスの絵は小金貨四百枚で若い男に競り落とされた。小金貨四百枚と言えば王都にそれなりの庭付きの屋敷が買える金額だ。
このあと、同じ光景があと二回繰り返され、黒縁の眼鏡をかけた若い男性が三枚とも小金貨四百枚で競り落とした。
会場のあちこちから「あの若者はいったい誰だ?」という声が漏れるが、誰も知らなかった。男は前髪を下ろし、眼鏡をかけ、裕福な平民とも気楽な身なりの貴族とも見えるような服装だった。
三枚の絵は布に包まれ、もみ殻とともに木箱に詰められて会場から運び出された。馬車の行く先はバンタースの王城だ。長距離を馬車に揺られ、絵はイブライム国王の執務室に運び込まれ、王の目前で取り出された。
包んでいた布から取り出された絵を見守るイブライム国王。絵は三枚ともイーゼルの上に置かれた。
「これはまた素晴らしい。ありがとう、ルイ」
「どういたしまして、陛下。陛下の予想通り、モデルはシャーロット嬢でしたね」
「相変わらず美しい。ソフィア様の儚い感じの美しさも胸を打つが、シャーロットの強さがあふれ出すような美しさもまた胸を打つ」
「この画家は注目株ですね」
「そうだね。次のオークションも見逃さないようにしたいものだ」
「陛下、この絵はどこに飾るのですか?」
「これは三枚とも行くべき場所が決まってるんだ」
その夜、再び布に包まれ、もみ殻を詰められた木箱は、隠居しているフェリックス・エルベ前侯爵の家へと運び込まれた。
「国王陛下からの贈り物です」
木箱を運んできた男は、それだけ告げるとさっさと帰って行った。
「いったいなんだろうね、ジョセフィーヌ」
「なにかしら。大きい箱だわね、フェリックス」
シャーロットの祖父母は使用人に命じて箱を開けさせた。包まれていた布をめくって、老夫婦は息を止めた。
見間違いようがなかった。そこには愛しい孫のシャーロットが描かれていた。
「あなた!」
「これはシャーロットじゃないか。何と美しい」
老夫婦は愛娘にそっくりでいて娘にはなかった強さと逞しさを身に付けたシャーロットの姿にただただ見惚れた。年々足腰が弱ってきていて、いつ孫に会いに行けなくなるかと心配していた老夫婦には最高の贈り物だった。
「生きている間にあと何回会えるのかと思っていたが」
「これからは毎日会えますね、あなた」
三枚の絵は夫妻の屋敷の居間にさっそく飾られた。
前侯爵夫妻は国王イブライム宛に感謝の手紙を書いた。その夜以降、老夫妻は毎日孫娘の絵を眺める楽しみに浸っている。
老夫妻の居間に飾られている三枚の絵の噂は、訪れた客たちの口から少しずつ広がっていった。
「どうかひと目見せてほしい」と願う人が訪れるようになった。
絵を見てもらえるのは夫妻も嬉しく、月に一度ずつ居間を開放した。
毎月十八日には老夫妻の屋敷には結構な数の見学者が集まる。十八日は娘のソフィアが旅立った日でありシャーロットが生まれた日だ。
老夫妻は訪れる人々に「この絵はイブライム国王陛下からの贈り物です」と伝えるのを忘れない。それを聞いた訪問客たちは皆驚いた。イブライム国王の父が兄王を毒殺したのではないか、と疑ってきた者たちは、その息子である新国王の思いやりと人柄に感心した。
小金貨千二百枚の売り上げから経費を引いた残りは全て、ロウウェルから甥っ子のシモンへと贈られた。
箱にギッシリと詰められた金貨を見せられ、その由来を聞かされたシモンはしばらく顔を両手で覆った。
「シモン、シャーロットはお前を助けたいと、それだけを繰り返していたよ、それと、イブライム国王からの伝言だ。『絵は全てあるべき場所へと送り届けた。シャーロットの祖父母に喜んでもらえたようだ』とな。商売で知り得た秘密は口外しないのが美術商だ、安心しなさい。私はそれでやっと気がついたが、シャーロットの出自をお前は知っていたんだね」





書籍『シャーロット 上・下巻』