32 遠眼鏡は見ていた
オレリアン王子は今も遠眼鏡を愛用している。
早朝に小さな笛を持って見張りの塔に登る。
笛は森に見学に行った日からしばらくしてシャーロットから頼まれたと言ってシモンが持ってきてくれた。
早朝、見張りの塔に登り、笛を鳴らす。
最初の頃はスピスピ言うだけでとても小鳥の歌にはならなかったけれど、連日練習しているうちに段々と上手く鳴らせるようになった。
小鳥の鳴き声を真似して笛を鳴らし、素早く遠眼鏡で辺りの木々を観察する。
するとある日、ピチットとは違う種類の小鳥が笛に応じて鳴いてくれるようになった。心臓がトクンッと跳ねるほど嬉しい。
笛を鳴らすと競うように小鳥がそれに応える。野鳥好きなオレリアンは毎日夢中になっていた。
そんなある日。
小鳥の笛を鳴らしてから遠眼鏡で庭を眺めていると、シモンとシャーロットがいつものように鍛錬をしているのが見えた。
(今日もシャーロットは頑張っているな)
と思って遠眼鏡を外そうとした時だ。
(あれ? あの者は何をしているんだ?)
一人の男が離れた建物の陰から鍛錬している二人を見ている。急いでピントを合わせて男の顔を見る。見覚えはないが、早朝に城の中にいるということは、城に住み込みで働いている使用人のはず。
「見てるのはおそらくシャーロットだよね?シャーロットは綺麗だからなぁ」
そう思ってその場は男のことは忘れて小鳥とのやり取りを再開した。
またその男を見たのは数日後だ。今度は勉強が終わった午後。
遠眼鏡でまた庭を見ていると、シャーロットが買い物籠を腕にかけて使用人用の門に向かって早足で歩いていた。
すると、梯子を木に立てかけて上の方で剪定作業をしていた庭師の一人が、シャーロットがまさにそこを通りかかる瞬間に手に持っていた木の枝を下に落とした。
「危ない!」
遠眼鏡を見たまま思わずそう声に出したが、木の枝はシャーロットの前に落ちたので怪我はなさそうだった。落とされた枝は、まともに当たっていたらコブくらいはできそうな大きさはあった。
「良かった。もう、危ないじゃないか。気をつけてよね」
そう独り言を言いながら男の顔にピントを合わせてビクリ、とした。
その男の顔に見覚えがあったからだ。間違いなくシャーロットの鍛錬を陰から見ていた男だった。
オレリアンは密かに自慢に思っている能力があり、それは「一度見た人の顔を忘れない」ことだった。父にも教師たちにもそれは何度も褒められている。「人の上に立つ者として大切な能力だ」と。
「間違いない。あいつだ。ていうことは、もしや今のはわざと?」
急に心臓が早くなり、手に汗がじんわり滲む。
遠眼鏡の中で、男は木から降りてきて、何度もシャーロットに頭を下げている。シャーロットは笑顔で男と会話している。何をしゃべっているのかはわからないが、シャーロットは男がわざと木の枝を落としたとは思っていなさそうだ、とオレリアンは思った。
すぐにシャーロットは立ち去り、男はその後姿を見送っていた。
シャーロットは買い物を頼まれてガラスのビーズを買いに店へと向かっている。上級侍女に変わるまで、まだ少し衣装部で働くことになっている。
「あの時の人がお城の庭師さんだったなんて、びっくりだわ」
男は名前をレオンと名乗り
「植物が好きで山歩きをしているうちに迷子になった。あの時はパンをありがとう。ひもじかったから本当に助かったよ。今度、お礼をさせてほしい」
と申し出た。
それは辞退したが、
「じゃあ、今度一緒にお昼を食べようよ」
と言われて断る理由もないので了承して別れた。
「たまたま枝が落ちてきて再会するなんてこともあるのね」
シャーロットはあっという間にビーズを売っているお店に到着し、それきり男のことは忘れてしまった。
ところが翌日、シャーロットが食堂にお昼のパンを取りに行くと、昨日の男がちょうどパンを受け取って食堂から出てくるところだった。
「やあ、また会ったね。昨日は本当に悪かった」
「気にしないでくださいね。私はなんともなかったんですから」
「よかったらこれから一緒に食べないか?クレマチスが今、見頃なんだよ。でも誰も見に来る人がいなくてもったいないんだ」
「クレマチス、ですか?私、花壇の花にはあまり詳しくなくて、花の名前を知らないんです。見に行こうかな」
「よかった。誰かに見てほしかったんだ」
二人で並んで歩き、シャーロットがあまり立ち入ったことがない区域に来た。
そこには四阿があり、四阿を取り囲むように様々な色合いのクレマチスが咲いていた。
「きれい!」
「きれいだよね。俺もここで働くまでクレマチスの名前を知らなかったよ。こんなにきれいなのに誰も見てやらないのが気の毒でさ。良かったよ、君が見てくれて」
四季咲きのクレマチスは白、濃い青、薄い青、ピンク、紫、赤紫と様々な色があった。格子に組まれた柵に絡みついて、凛とした強い印象の花を咲かせている。
二人で並んで四阿のベンチに座って、クレマチスを眺めながらパンを食べた。
「こんな場所があったんですね。全然知りませんでした。レオンさんはお城仕えは長いんですか?」
「いや」
「じゃあ、ここの前は何をしてたんですか?」
「まあ、いろいろかな。ここはいい職場だな」
「はい!」
シャーロットは旺盛な食慾でパンを食べている。
レオンはその様子を見るともなしに見ながら、ふと思ったことを口に出してみた。
「君はもっといい暮らしがしたいとは思わない?」
「私がですか?いい暮らし?」
「うん」
「全然。これは綺麗事じゃないですよ。本当です。私、最近願い事が叶ったばかりで、今が十分いい暮らしです」
「へええ。君くらい綺麗だったら、もっと楽してたくさん稼げるんじゃないの?」
「お金があっても不幸な人はいるんじゃないのかしら」
シャーロットは少しだけ考えてからモグモグと食べていたものを飲み込み、上半身ごとレオンの方に向けて話し始めた。
「レオンさんはお金がたくさんあったら幸せなんですか?」
「さあ、どうかな。でも、金で防げる不幸はあるよ」
「私の母は昔、『すごくお金持ちなのに身内の死を願うような哀れな人がいた』と言ったことがあったんです。『きっとその人は本当の幸せを知らずに人生を終える』って」
シャーロットは食べ終えて、パンを包んでいた白い布を丁寧に畳んだ。
「実は、私がずっと帰りを待っていた母が亡くなって、父も怪我をして私と暮らした記憶を忘れてしまったんです。それ以来、私だっていつ何が起きて死ぬかもしれないんだなって思うようになりました」
「そうか。ずいぶん大変だったんだね」
「だから、ある日突然死ぬようなことがあっても、『そこまでは頑張った。できるだけのことはしたのよ』って神の庭で母に笑って言えればいいかなって。もちろん楽しく長生きしたいとは思ってますけど」
「なるほど」
レオンはまた黙ってシャーロットと一緒にクレマチスの花を眺めた。
昨朝、たまたま枝を落とした近くにシャーロットがいて焦った。まさかあんなに速く近づくと思わなかったのだが、自分の不注意だった。すごい速さで歩いてきたのがシャーロットとわかって、どうしてもまた話をしたくなった。
何度も謝罪をして会話もした。相変わらずこの娘は善人だった。
(身内の死を願う金持ちか)
それは間違いなくあの人物のことだろう。つまりケヴィンとリーズは国王の意図を察して赤ん坊を連れ去ったわけだ。いや、前王妃も知っていたのかもしれない。
その張本人に雇われて生きてきた自分の半生を思うと、情けなくてシャーロットを直視できない。
レオンは昼食を食べ終わったシャーロットと別れて庭師小屋に戻った。小屋にいた庭師長のポールがレオンに声をかけてきた。
「レオン、午後は俺と生け垣の剪定をやるぞ」
「はい」
しばらく二人で組んで庭木の剪定をこなしていたが、午後の休憩時間にポールが話しかけて来た。
「レオン、お前はなかなか筋がいい」
「ありがとうございます」
「お前がその年まで何をしてきたのか、俺は知らん。だが、身が軽いし自分が使った道具類の手入れを欠かさないでやってることは知ってる。刃物は正直だ。手入れをしてるかどうか、見ればわかる。お前は庭師に向いているな。お前にその覚悟があるなら一人で食っていけるようになるまで俺が知ってることを全部教えてやるぞ」
「……はい」
「なんだ、嫌なのか?」
「いえ。自分みたいな半端者にはありがたい話なんで驚いてます」
「お前、親は?」
「いません。父は去年死にました。母は俺が子供の頃に家を出て行きました。兄も病気で死にました。なので身内は一人もいません」
ポールが目元をすこしだけ和らげた。
「じゃあ俺のことを親と思え。俺もお前のことをだいじな息子と思って遠慮せずに鍛える」
「それは……ありがたいです。よろしくお願いします」
「よし。頑張れよ」
「はい」
「それと、早起きもいいが、ちゃんと寝て身体を休ませろ」
レオンは(知ってたのか)とギョッとしつつうなずいた。
立ち上がって剪定バサミを拾い上げ、腰を叩いているポールに剪定バサミを手渡した。
(俺、とっくに分かれ道を通り過ぎていたんだな。気がついたらやたら善人に囲まれてるじゃないか)
レオンは今までそれに気づかずにいた自分を少しだけ笑った。
捜索隊の最後の一人が消息を絶ったら、誰かが探しに来るだろうか。それとも死んだと思われて終わりだろうか。
(その時はその時か)
そう覚悟を決めて、レオンは午後の仕事に取り掛かった。
・・・・・
「殿下、話をしてみましたが、あいつはそう悪いやつでもないですよ。枝はたまたまだと思います。今後は当分の間、私がしっかり近くで見張っておきます。二度と人の近くに枝を落とすことがないように気をつけさせます」
「ほんとにぃ? ちゃんとあの男に話を聞いたかい?」
「はい。鍛錬を覗き見していたのもやんわりと注意しておきました」
「そう。じゃあ、これからはよく見張ってよ?」
「はい。お約束します」
「ならいいけど。頼んだからね!」
オレリアンはそう言うと、午後の勉強に戻った。
明日のタイトルは「初めての外食」です。