23 クレールの助言
クレールは感情を持て余して泣いているシャーロットが可哀想で可哀想でたまらなかった。
最初は有名な事件の当事者たちが目の前にいることに仰天していたが、二人のやりとりを聞いているうちに(この娘はまだ十七歳だ。一度に全部飲み込むなんて無理だ。自分が彼女の立場だったらもっともっと取り乱していただろう)と、シャーロットを思いやった。
「シャーロットさんの言い分はもっともだわ。リック、あなた言葉が足りないにもほどがあるわよ。シャーロットさんはあなたと暮らした十六年間を全部覚えているの。彼女にとってあなたは今も大好きなお父さんなのよ?」
「だが……」
クレールは『待って』というようにリックに向けて手のひらを立てた。
「聞いてちょうだい。ねえ、シャーロットさん、あなたより三十年以上長く生きてきた私の考えを聞いてほしいの。受け入れるかどうかはあなたが決めることよ」
シャーロットはどんな話が始まるのか分からず涙で濡れた顔のままクレールの話を聞いていた。
「今後、あなたの素性が知られた時のために、とりあえず匿ってくれる人を作っておくべきだと思う。今日お城でお会いした上司の方たちはとても信頼ができそうだったわ。あの方はあなたのことをちゃんと心配してくれていると感じたの。もしなにかあって身を隠さなきゃならないときは、ほんのいっときでいいから匿ってもらえるように話をつけておいたらどう? 隙を見てお城を逃げ出す手を確保しておくの。お城を逃げ出したら私のところにいらっしゃい。私がなんとしてでもあなたを隠してあげる」
シャーロットはその提案を聞いて考えてみるが、(ルーシーさんにこんな話をしたら、ルーシーさんは私のことをどう思うだろう)と迷った。
「シャーロットさんはお城で働き続けたいのよね?」
「はい」
「あの人じゃなくてもいい、誰か口が堅くて信頼できて、頼れそうな人は知らない? まだ勤め始めて一年じゃ難しいかしら」
シャーロットの脳裏にシモンの顔が浮かんだ。だが、剣の練習をしているだけの相手にこんな面倒な話をしたら迷惑ではないだろうか、とまた迷う。
クレールは今度はリックを見上げた。
「若い娘をここで暮らさせるのは酷よ。あなたがここに戻って暮らすとしても、いずれあなただって年を取る。その前に病気で寝込むことだってあり得るわ。そうなった時、シャーロットさんはどうすればいいの? そりゃお金はあるだろうけど、愚痴をこぼす相手も相談する人もいないこの家で、一人きりで何もかもこなせと?」
「それは……」
「他人と触れ合うことを知らなかった頃ならまだしも、シャーロットさんはもう人の中で暮らす生活を経験しているのよ。今からここに戻ったら、さぞかし寂しいと思うわ」
ここでクレールはひと息ついて、また話し始めた。
「お城でうっかりソフィア様を知ってる人に見つかった時に、助けてくれる人を見つけておくべきだと思う。それに、逃げるだけ隠れるだけっていうのはあまりいい方法じゃない気がする。いざという時、誰も頼れないじゃないの」
いつの間にかこの場をクレールが指揮していて、シャーロットとリックが彼女の話に聞き入っていた。
「それと、まず最初にやるべきは、その親戚に連絡をとることよ。もしかしたらマーサさんの居所をつかめるかもしれないじゃない。さあリック、すぐに手紙を書きなさいな。明日の朝一番に、私が王都の配達業者に渡してくるわ」
「紙とペンならあります」
シャーロットは母が使っていた小さな机の引き出しから紙とペンを持ってきた。リックは迷った末にシャーロットの祖父である侯爵に手紙を書くことにした。マーサの兄はどう出るかわからなかったからだ。マーサがいない以上、自分たちをジョスラン国王に売る可能性がある、とリックは判断した。
手紙には『あの娘』は元気に生きていること。父として『娘』を育てた自分が記憶を失い、十七年前までしか記憶がないこと、『あの夜に一緒に出た妻』がいないこと、『娘』も自分も妻を探していること。
『娘』と共に侯爵に会って話がしたいこと。
もしお会いできるならば落ち合う場所はランシェル王国の王城前の広場にしたいこと。
リックは最初、人目がなく見晴らしが良い場所を提案したが、クレールが「人目が多い場所の方がむしろ安全よ。お城の近くなら衛兵もいるもの」と主張し、広場になった。
確かに衛兵の目が届くところなら、相手がどんな考えであってもいきなり何かされることはないだろうとリックとシャーロットも同意した。
約束の日時はシャーロットの来月の休みの日。時刻は正午にして封筒に入れた。
「これでいいわ。シャーロットさん、あなたもこれでいい?」
「はい」
「じゃあ私は帰るけど、その前にリック、ひとつだけ聞いておきたいことがあるの」
「なんだい?」
「詳しいことは言わなくてもいいから、『はい』か『いいえ』で答えてくれる? あなたとマーサさんがシャーロットさんを連れ出したのは、私利私欲のためではないと神の前でも胸を張って言えるのよね?」
クレールがじいっとリックの目を覗き込んだ。何ひとつ見逃さない、という気迫が漂う厳しい眼差しだ。
「もちろん『はい』だ。神様と俺の両親の名誉にかけて誓う。私利私欲のために連れ出したんじゃない」
リックはクレールに連れ去りの理由をきちんと説明していなかったことに気づき、シャーロットを連れ出した事情を改めて説明した。
「なるほどね。私もその場にいたら、間違いなくあなたたちと同じ事をしたわ。さて、私は帰るけど、リックとシャーロットさんはどうする?」
「俺はここに残る」
「私もここに」
「わかったわ。今夜は疲れてるでしょうから、ゆっくり眠ってね。二人とも、何かあったらいつでも私の家にいらっしゃい」
「クレールさん」
「なあに? シャーロットさん」
「父を助けてくれて、私たちの心配もしてくれて、ありがとうございます」
「私は自分がしたいようにしただけ。気にしないでいいのよ」
そう言ってクレールは笑顔で帰って行った。
シャーロットはテーブルに散らばっている金貨を拾い集めて革袋に入れ、壺に入れてからまた元の場所に戻した。指輪は少し迷ってから包んであったハンカチに包み直して自分の肩掛けカバンに入れた。
「お父さん、クレールさんを帰しちゃって良かったの?」
「いい。父さんはシャーロットと一緒にここにいるよ」
「そう。お父さん、ミントのお茶を飲む?」
「そうしようか」
まだ涙が残るまつ毛を手の甲でぐいっと拭いて、シャーロットがヤカンを手に家を出た。もう外は真っ暗だったが家の窓から漏れる灯りを頼りに沢に向かう。
あんなに泣いたのもあんなに感情的になったのも、親に向かって大きな声を出したのも、生まれて初めてだった。
「お父さんが悪いわけじゃない。記憶がないのは仕方がない。でも……」
絶対に当人たちには言うまいと思っているが、クレールと父が親しいのも悲しかった。ただの友人だろうし、クレールがとてもいい人なのを知っていてもなお、行方不明の母が気の毒だと思った。
「お母さん、まだ生きてるよね?」
澄んだ冬の夜空を見上げた。煌めくたくさんの星に向かってそう声に出した。
本当は、もう母が生きていないような気がしてならない。
誕生日の夜、母の顔色が酷く悪かったことも、当時急に痩せていたことも、一日だって忘れたことがない。
何よりも、あのしっかり者の母が生きているのなら、一年も連絡をしてこないなんてありえないと思っていた。おそらく母は……。
「お母さん」
その場でうずくまってしばらく泣いた。
シャーロットは、平和な森の中の暮らしがずっと続くと思っていた。
両親は老人になるまで生きているものだと漠然と思っていたのだ。
カサッと枯葉を踏む音がして、顔を上げると父が立っていた。
「シャーロット。帰って来ないから心配したよ」
父は最後に見たあの夜よりずっと老けていた。はっきりわかるほど痩せてしまっている。
シャーロットは立ち上がり、そのまま父に抱きついた。
お城では抱きしめてくれなかった父が、力強く抱きしめてくれた。
「お父さん、お父さんは長生きしてよ。私の自慢のお父さんでいてよ」
「ああ、大丈夫だ。そう簡単に死にはしないさ。父さんはこの一年、ずっと混乱していたんだ。怪我のあとはもう、記憶が戻らずにどうしたらいいのかわからなかった。でも、さっき、ミントのお茶を入れると聞いて、自然にロープを見上げたんだ」
「え?」
「ミントの束が干してあること、どこかで覚えているようだ。記憶は消えてしまったんじゃなくて、思い出せないだけなのかもしれないな」
「ほんとに?」
「ああ、でもそれだけなんだ」
シャーロットは父の胸に顔を埋めて懐かしい父の匂いを嗅いだ。
「お父さん」
「なんだい」
「明日、お父さんと狩りに行きたい」
父が無言なので、抱きついたまま顔を見上げた。
リックは暗い森の奥を見たままぼんやりした表情でつぶやいた。
「シャーロット、獲物を狩るときは風向きに気を付けるんだよ……」
「お父さん?」
「そう、繰り返し教えたな?」
「お父さんっ! 思い出したの?」
「少しだけ。干してあるミントの束、獲物を狩るときの注意。これだけだよ。ごめんよ、シャーロット」
「いい。それだけでも嬉しい。さっきは怒鳴ってごめんね」
「いいんだ」
そう言ってリックは娘の頭を撫でた。
「シャーロット、何もかもすまなかった」
「もういいの。お父さんが悪いわけじゃない。私のことを心配していろいろ隠してたんでしょう? ねえお父さん」
「なんだい」
「人の中で暮らすのも楽しいよ」
「そうか。俺もマーサも、間違っていたんだな」
「ううん。三人だけの暮らしも楽しかった。でも、いろんな人と働いたり笑ったりするの、初めてだったけど楽しいの。みんな優しくしてくれるし」
そこまで言ってから父を抱きしめていた腕を離して、ヤカンに水を汲んで家に向かった。
その夜はミントのお茶を飲んで、二人で同じ部屋で眠った。母のベッドはもう母の匂いがほとんど残っていなかったけれど、シャーロットは母に包まれているような気がしてぐっすり眠った。
翌日の狩りは大猟だった。
父は狩りの勘を失っておらず、弓矢で若い鹿を仕留めた。シャーロットは鴨を三羽仕留めた。
帰りがけにウサギも一羽。
二人で沢で血抜きをし、皮を剥ぎ、解体した。
家まで往復して肉と皮を運び、保存する肉を庭先で燻したり、切り身に岩塩を削って振りかけて干し肉にする下ごしらえをしたりした。
シャーロットにはとても楽しく懐かしい時間だったが、午後の早いうちに城に戻らなければならない。
「お父さんはどうするの?」
「シャーロットのお祖父さんたちに会う日まではずっとここにいるさ」
「一人じゃ心配だわ」
「猟師の息子なんだぞ、お父さんは」
「そうだったわね。ねえ、クレールさんにお礼をしなくちゃね」
「そうだな。あの人はいらないと言ってるがそういうわけにもいかないな」
少し考えて、シャーロットはいいことを思いついた。
「私、お城で少しだけ縫い物の仕事もさせてもらってるの。クレールさんに服を縫ってもいいかな」
「ああ、きっと喜ぶよ」
「じゃあ、縫っておくね。お父さん、待ち合わせの日までに何かあったらすぐにクレールさんのところに行ってよ。お城に連絡をくれてもいいから」
「大丈夫だ。ここにいたら忘れていることを思い出せそうな気がするんだよ」
「そっか。じゃあ、私はそろそろお城に向かうね」
「おう。いってらっしゃい。気をつけてな」
何度も何度も家を振り返りながら、シャーロットは歩いて城に向かった。





書籍『シャーロット 上・下巻』