1980年。二人のジョンに追悼です。
生粋の【ディープ・パープル】ファンだった親父殿の影響で立派なロック少女となったサト子は、同年代女子とロックの話題で盛り上がることが出来ず、私たちロック少年が幼稚なロック談義をするのを聞き耳立てながら羨ましがっていたそうです。
そんなサト子ですが、テレビ番組を餌に私たちの仲間になることに成功した後は、それそれはの饉舌ぶりを発揮してくれたのでした。
親父殿に英才教育を受けていたサト子は確かに博識で、【ディープ・パープル】から繋がるハードロックの歴史を事細かく説明してくれたり、またギターテクに関しても私もエニ君も弾けるというのが恥ずかしいほどで、
「スケールが大事なんだでね」
「オルタネイトピッキングが出来ないとダメ」
「左手小指が使えないのは後々困るんだわ」
など、聞いたことの無い言葉とかを出してくるのでした。
ことロックに関する知識でサト子に勝てる部分の無かった私たちは、素直にサト子のことをサト子先生と呼ぶようになったぐらいでした。
「ハードロックってのはね、ブリティッシュハードロックとアメリカンハードロックだけじゃないんだでね。【スコーピオンズ】はドイツのバンドだし、【AC/DC】はオーストラリアでしょう。そこが大事なんだでね」
「はい分かりましたサト子先生」
「それから、やっぱり避けて通れんのはリッチー御大だでね。そこをしっかり押さえんと、ハードロックは語れぇへんでね」
「分かりましたサト子先生」
こんな感じだったのです。
と、そんなことがあった中学二年の夏が終わり、そして秋になると【レッド・ツェッペリン】ファンのカンチャンが落ち込む事件が起きました。
ジョン・ボーナムの死です。
当時、ギター少年は皆【天国への階段】のイントロを弾けました。それほど身近な存在でした。
サト子の言うハードロックの礎でもある【ディープ・パープル】と対で語られることの多い【レッド・ツェッペリン】のドラマーの死です。
これでもうツェッペリンが聴けないのかと、皆で落ち込んでしまったことを覚えています。
ただ、それだけではなかったのが、この1980年という年でした。この年は世界の音楽界に厳しい試練の年だったのかとも思うのです。
サト子が仲間になって秋にジョン・ボーナムが亡くなったばかりなのに、冬が来るとまたも大事件が起きたのです……
話は飛びますが、サト子が言うように確ハードロックを語るのには【ディープ・パープル】とリッチー御大はさけて通れません。
ですが、洋楽を、そしてロックを語るにはどうしても避けて通れないバンドというのがあります。
【ザ・ビートルズ】です。
今思うと、当時の【ザ・ビートルズ】は今の【QUEEN】のような感じだったのではないでしょうか。私でさえ【ザ・ビートルズ】だけは【QUEEN】を知る前から知っていました。何かと【ザ・ビートルズ】というバンド名を聞く機会もあったし、CMでもよく流れていたような記憶があります。
また、私の親父殿も母親殿もロックとは別物として【ザ・ビートルズ】を認識していたようです。
あ、先に謝っておきます。【ザ・ビートルズ】ファンの皆さん御免なさい。
【ハード・デイズ・ナイト】や【ヘルプ】は大好きです。シンプルですが頭に残るメロディでついつい口ずさみたくなります。それにフレディやブライアンが【ザ・ビートルズ】に影響を受けたと聞きますし、それだけ偉大なバンドなんだとは理解しています。
でも【QUEEN】と比較すると、どうしても時代的な差があるのではと、当時はそう思っていたのです。
それはそうですよね。デビューに10年の差があるのですから当たり前です。
今でこそ、その時代を考えると斬新で実験的な音楽であったり、シンプルだからこそメロディが秀逸であったりと理解できますが、中学二年の私たちには大人のテイストという感じだったためか、あまり話題に上がることなかったのです。
ある日までは……
同級生のスケ番で【ザ・ビートルズ】ファンがいました。立松という女子はぺったんこの鞄にロングスカートという分かりやすい不良生徒でしたが、そのぺったんこの鞄に【ザ・ビートルズ】のステッカーが貼ってあり、意味が分かりませんでしたけど、
「ビートルズ最高。ポールには負けるがや」
それが口癖のスケ番女子でした。
スケ番という少々近寄り難い女子でしたし、【ザ・ビートルズ】というロックとはいえ大人の音楽ファンだったこともあり、立松とはあまり接点はありませんでした。
あの日までは……
【ザ・ビートルズ】が偉大なバンドでロックミュージックの礎を築いたことは知っていました。
また、今の【QUEEN】同様に老若男女が知っている偉大なグループであることもだし、メンバーの名前がジョンであったりポールであったりというのも知っていましたし、【ハード・デイズ・ナイト】は良く口ずさんでいました。
なので、ファンではありませんでしたが、それでもショックだったのです。あの日は……
1980年の12月8日(日本では9日だそうです)。
夕方のテレビのニュースでその訃報を知りました。
アナウンサーが重要なことだと言わんばかりに速報を流していました。
チャンネルを変えると他の局でも訃報を流していました。
学校ではあのスケ番女子の立松も泣いていました。
初めて立松と話ました。彼女も僕らぐらいしか【ザ・ビートルズ】の、そしてジョン・レノンの話をする相手がいないと分かっていたのでしょう。
どんなきっかけで会話が始まったのか覚えていません。でも立松の落ち込みは良くわかったし、【ザ・ビートルズ】に対する愛も良く分かりました。
その少し前、【愛という名の欲望】に感動したジョン・レノンが、音楽活動を再開して【ダブル・ファンタジー】というアルバムを発表したと聞きました。それもあってラジオから流れる【スターティング・オーヴァー】や【ウォーマン】はエアチェックして何度も聞いていました。
だから私にも大きなショックでした。
そんなこともあるものなのかと……とくかくショックだったのです。