1-9 愚かな兄
子供の頃、彼が兄の姿を始めて見た感想は、"《愚か者》"だった。
彼には兄が二人居る。愚かな兄は二番目の兄である。
愚かな次兄はまず怠惰で、周りから勉学を励み長兄を支えるよう説かれる中、気にも止めず、部屋で惰眠を貪り続けた。
稀に庭や皇宮内を歩き回っている姿を見る事はあるが、大体は部屋で過ごしているらしい。
「まったく……高貴なる血族があの体たらくとは……」
「まったくだ! 側室の子であるあの方の方が余程優秀だ!」
彼には確かに二人の兄が居る。しかし、二人共に異母兄だった。
どうやら兄達は正室の子で、彼は側室の子なのだという。
更に、正室は名家の出で、側室は中堅の家の出であった。そんな側室の子にすら劣るというのが、皇宮内の次兄の評価であった。
実際、彼は次兄より優秀であった。
勉学では秀才、剣術の腕も良く、母からは褒められ、周りから賞賛され、長兄の右腕として将来を渇望される。
正に麒麟児と呼ばれ始めた彼にとっても、努力せず惰眠を貪る次兄は愚かそのものに感じていた。
そんなある日の事である。偶然、庭の木の下で寝っ転がる次兄と出会い、興味本位で彼はその兄へ話し掛けてみた。
「あの……兄上、ですよね……?」
「ん? 誰……?」
冷たい返しだったが、実際に次兄は彼を知らなかった。
父には正室の他に側室が数十人も居るため、彼女達から生まれた子の事など、部屋に籠りっ放しの次兄が知る由もないのだ。
それを承知の彼は、平静のまま兄相手の礼節として頭を下げる。
「御初に御目に掛かります。第三側室の子で、貴方の弟に御座います」
「ふぅ〜ん……何か用?」
「一つ御伺いしたい事が御座いまして……」
彼は少し気になっていた。
勉学など、ただ受けるだけでも、《愚か者》と呼ぶ者が居なくなるのに、何故この兄はしないのか。
怠惰である事は知っている。だが、このままなら長兄や父や母の顔に泥を塗る事にもなり、家名にも泥を塗る事になる。いつかは親に見放されかねない。
《愚か者》と呼ばれ続ける事も相まって、後で苦労するのは解る筈だ。
いや、解らないこそやらないのか。それ程までに愚かなのか。
それはそれで構わない。彼はただ知りたかっただけなのだ。
余り話し掛けて来られない次兄にとって、彼は珍しい客人だろう。だから、兄は待たせないよう直ぐに口を開いてくれた。
「やだ、面倒臭い……」
見事に無礼に断った。
次兄の呆れた予想外の返しに、彼はポカァンッと口を開き続けた後、ふと我に返るが、怒りは湧かず、戸惑うだけに留める。
「いや、兄上……答えるだけで良いのですよ?」
「やだ」
「答えるだけですから!」
「やだ」
「兄上……」
なかなか引き下がりそうに無い初対面の異母弟の様子に、次兄から嘆息が零される。
「今日は良い天気だ。偶には室外でねっ転がるのも良いと思って此処に居る。つまり、俺は今直ぐ寝たいんだ」
「それよりも弟に知恵を授けようという優しさは無いのですか?」
「俺個人の事を知恵とは言わんだろう。解ったらとっとと帰れ……俺は寝る」
そう言い残し寝息を立て始めた次兄に、彼は嘆息を零しながらも、この後直ぐ勉強の時間であったので、その場を離れた。
次の日、また外が晴れ模様だったので、休憩中、彼はもう一度庭に出る事にした。案の定、次兄が同じ木の下で寝っ転がっていた。
「何だ? また来たのか……?」
「ええ、話を聞かずに居るのは、どうも目覚めが悪いので」
「このまま来る気か……?」
「はい。なので早く御話になった方が楽ですよ?」
彼自身、本当に興味本位だけで熱烈に聞きたい訳ではない。しかし、あれ程無下にされると、子供心から来る意地が湧いたのだ。
そんな雰囲気を感じ取ったからか、次兄は渋々と寝転がりながら告げる。
「お前も知っているだろう……? 俺は怠惰だ、面倒臭いからだ」
「でも、このままで居る方が、後で苦労なさるでしょうに……」
「変わらんよ。どうせ、兄上は俺に何もさせん」
その発言に、彼は怪訝に眉をひそめる。
「兄上は、長兄に将来お仕えする事になりますよね? だったら何か仕事を与えられるのが常では……?」
次兄はさも面倒臭いと言わんばかりの溜め息を吐くと、さも面倒臭そうに話を続ける。
「俺は何だ?」
「兄上です」
「違う、正室の子だ。つまり、兄上が死ねば後継は俺になる」
此処で、次兄の言わんとしている事が、彼にも解った。
「長兄は、兄上に殺されるのが怖くて、近い内に殺すと言うのですか⁈」
「いや、俺に取り入った誰か。もしくは兄上を嫌う誰か。どちらにしろ俺は兄上打倒の旗頭になれる。もし、勉学が優秀ともなれば尚更。それを、兄上が見逃すと思うか……?」
彼は絶句する。次兄は成人(帝国では十五歳)間近ではあるが、年齢は彼と三つ程しか違わない。にもかかわらず、既に長兄の思惑を看破し、形はどうあれ行動していたのだ。
「しかし、考え過ぎではないですか……? 長兄が兄上を殺すなど、ただの仮説でしょう……」
「確かにな。だが、どの道やらされる勉強など下らんものばかりだ」
「下らなくはないでしょう……知識は武器です。将来武官、文官になるにせよ、知識は役に立ちますから」
「その知識が正しい保証はないだろう……?」
またも彼は絶句する。彼の今まで当たり前だと思って来た事、それを根底からひっくり返された気分だった。
「確かに知識は武器だ。だが、此処は皇宮、俺達は此処から出られぬ籠の中の鳥だ。そんな隔絶された世界で、そんな中に居る者達が、正しい事を言っている確証は無い筈だ」
「いや、しかし……」
「俺達は何も知らないんだ、知れないんだ。外の事は何も……そんな中で、教え込まれたものを俺達は正しいと認識してしまう。それを間違いだと言う根拠が排斥されるからだ。こんな状況で教えを請うなど、下らないにも程がある……」
この時、彼の次兄の評価は覆っていた。
次兄は当たり前を当たり前と思わず疑問に思っている。自分も、当たり前を世界の全てとする皇宮に居ながらだ。
確かに、次兄は怠惰で、やる気もなく、行動自体に問題はある。
しかし、その思想、考え方、価値観は、間違いなく賞賛に値する宝物だ。
彼にとって次兄は、尊敬し、崇敬するに値する存在となっていたのである。
「兄上! また色々と教えて頂きたい事が……」
「はぁ⁈ お前まだ俺を束縛するきか‼︎」
「是非に、この通り!」
頭を下げて御願いする彼だったが、次兄に受け入れるなんて選択肢は無い。
「い〜や〜だ! 帰れ‼︎」
「御願いしますよ、兄上」
「嫌だっ言ってんだろ! 寝させろっ‼︎」
「今後、何度でも頼みに来ますから」
「クッ、ちくしょう……俺の平穏が…………」
その後、次兄は彼に様々の事を教えていく。それは兵法、政治、人道など多岐に渡り、次兄は彼に知識をねだられる度に、書庫から大量の本を自室に運んだという。
兄フィリペ・アブスブルゴ・マドリードと弟カルロス・ハプスブルク・マドリード。彼等の仲はこうして深まっていく事になる。




