6.嘘つき(その16)
「……チャールズ……。いいえ……、ドッドソンさん……」
聴衆たちの大歓声の中、ロリーナ・リデルが再び口を開く。
「フッ……、それとも、ルイス・キャロルさんと言うべきかしら……。私は分かっていなかったわ……。あなたがあなたであるのは、あの子の……、私の妹、アリスのおかげなのね……」
「……ロリーナ……」
ルイス・キャロルは言葉に詰まるが、ロリーナはあえて遮るようにして続けた。
「私は忘れてたわ……。ずっと忘れていた……。私は、楽しかった……! あの夏のピクニック……。みんなではしゃいだ、アイシス川のボート乗り……! あなたはみんなを、私たちみんなを楽しませてくれていた……!」
ロリーナ・リデルは、涙を流していた。ルイス・キャロルも切なそうに表情を歪める。ゲームと裁判の決着に熱狂していた民衆たちも次第に冷静になりつつあり、二人のこれまでの会話を思い出して身につまされていた。
「なのに……、」と、ロリーナは更に言った。「あなたが私たちのために創ってくれた……、この世界を、私は滅茶苦茶にしてしまった……。あなたが生み出したキャラクターたち……、ハートの王様、女王様たちを……、私は、この手で……」
これを聞くと、帽子屋やグリフォンは虚空を見詰めてにわかに戦慄き始めた。ナンチャッテウミガメに至ってはすすり泣いている。そして聴衆たちは最初こそ戸惑いの声を上げていたものの、やがて彼らの顔もまた、涙と暗さに包まれていった。
野ウサギは訝しんで周囲を見回す。彼らの表情は崇拝の対象であったロリーナの敗北を悲しんでいるものではない。そこにあるのは、過去の行いに対する深い罪悪感である。野ウサギは思わず驚きの声を上げた。
「どうしたんだ、急にっ……。女王だけじゃなく、みんな……、まるで人が変わったみたいに……! 帽子屋っ、君まで! っひょっとして、正気に戻……、っいや、前からイカレてたんだっ……、いや、でもっ、革命の熱に当てられる前の……!」
するとここで野ウサギの方を向いて、ルイス・キャロルが静かに言った。
「解けたのです……。ロリーナの……、スペードの女王の、『魔法』が」
「っ魔法ッ? 女王はっ、魔法が使えるって言うんですかっ?」
野ウサギは動揺して尋ねた。口をつぐむロリーナを横目に見つつ、ルイスはこう答えた。
「彼女はこの世界を創った、アリスの姉ですからね。姿を変えて空を飛んでいたのを憶えているでしょう? そのくらいの事なら、彼女にも可能なのです。おそらくロリーナは、件の革命の際の言動を介して、国民に弱い催眠を掛けていた……! あなたや、一部の気骨ある方には効果がないくらいの、微弱な催眠を、ね……」
ロリーナは後ろめたそうに顔を伏せた。野ウサギは唖然として言う。
「はぁ~……! そうかっ、そういえばあの時……! チキンクラップスで勝負する前……、女王は『負けたらカリスマを失う』、みたいに言っていた……。あれはあながち、嘘じゃなかったのか……! っひょっとしてっ、ルイスさんは、最初からっ……! 自分が無実になるだけじゃなく、ここまで狙ってゲームの勝負を……!」
ルイス・キャロルはいたずらっぽく笑った後、その表情に痛ましさを浮かべて言った。
「……何はともあれ、これでこの国も変わる……、いえ、元の不思議の国に戻る事でしょう。そうすれば、アリスも……」
しかしここで、ロリーナが苦悶に顔をしかめながらルイスに言った。
「……可能だと、思う……? 今更だけど、私が犯してしまった罪は、あまりに大きい……。革命の傷跡は、あまりに深い……! 政治も経済も、科学も文化も全て変わった……。いいえ、私が変えてしまった……! 今すぐカジノを禁止にする事はできるわ。けど、近代社会が近代以前に戻れると思う? 死者を蘇らせる事ができると思う? 私は取り返しの付かない事をした……。この世界から絶望は消えない。アリスの心も戻らない……! 私は、決して赦されない事をしたのよ……!」
ロリーナは再び涙を零した。ルイス・キャロルも苦しそうに唇を噛み締める。話を聞いていた野ウサギやビルも言葉を失い、大衆たちは明日からの生活を想像しようとして途方に暮れていた。
が、その時だった。法廷に立ち込める低いざわめきの中から、不意に異質な響きが聞こえてきたのである。その音は次第に大きくなり、やがてはっきりそれが笑い声だと分かった。
「ニャハハハハッ! ニャッハハハハハハッ!」
ルイスたちは仰天して辺りを見回す。すると間もなく、彼らの頭上、ほとんど広間の天井近くに、ぼんやりと丸っこい物体の姿が浮かび上がってきた。
「ッチェシャ猫さんッ!」
「っ君ッ……、生きてたのかっ!」
ルイスと野ウサギが大声で言った。その視線の先には、ハンチング帽を被ったあの気ままなチェシャ猫の、その頭部だけが宙に浮いていたのである。ロリーナも民衆も驚いている。チェシャ猫はルイスの近くまでふわふわ下りつつ、満面の笑みになって言った。
「ニャハハハッ! いいや、死んだ死んだ! きつかったよ~! けど、分かるでしょ? 『猫に九生あり』ってね! 一回生き返るくらい序の口さ♪」
ルイス・キャロルは思わず噴き出し、野ウサギや他の者たちは唖然とした。チェシャ猫は頭だけのまま、お構いなしでルイスに言う。
「で! 実はというか、もうお分かりかというか、あたし、ほとんど裁判の最初っから、こっそり片目だけで全部見てたんだよね~。被告人殿、晴れて無罪獲得おめでとうッ!」
「ええっと……、ありがとうございます……」
戸惑い気味のルイスに、猫は首から下の姿も現しつつ、続けてこう言った。
「ニャハッ! というわけで~、勝者にこのあたしから、飛びきり特別なプレゼントをあげちゃおう。さあほらッ、しっかり受け取りなッ!」
見上げるルイスの視線の先で、その時チェシャ猫はほとんど全身を現していた。左手だけは最後まで見えなかったものの、その左手も、彼女が床に降りると霧が晴れるようにはっきり見えてきた。猫の手はその先に、誰か別の人間の手を握っている。その人の姿も、手から腕、体、と、少しずつ順番に浮かび上がってくる。それは寝間着姿の、すらりとした小柄の女性――、否、黒髪の、まだ僅かにあどけなさを残した、美しい少女だった。
「……そんな……、まっ……、まさか……!」
ルイス・キャロルは椅子から立ち上がり、その青い目に涙を浮かべて言う。
「アリスッ……!」
少女は寝間着の全身を現すと、チェシャ猫の手を離し、まどろみから覚めたばかりのような口調で言った。
「ああ……! ドッドソンさん……! 私、とても恐ろしい夢を見ていたわ……!」




