5.艱難たる生(その16)
広間の空気が、震えたようだった。ロリーナと幻獣たちは気圧され、ルイス・キャロルは目頭を熱くさせて野ウサギを見詰めていた。一方、目を丸くしていたチェシャ猫は、出し抜けに野ウサギの背中を叩いたかと思うと、にんまりと笑って彼に言った。
「ニャハッ! よく言った! ぶっちゃけ見直した! 思い切りやりな!」
と、ここで彼女は声をひそめて言う。
「……ニャハハ、大丈夫。もしもの時は、あたしがなんとかしてあげるからさ……♪」
「おいッ! 聞こえてるぞッ!」
グリフォンが猫に向かって怒鳴り、続いて野ウサギに対して言った。
「逃げられると思うなよ? お前は助からない……! お前たちの負けが決まった瞬間に、俺はお前を攻撃する! この嘴か、鷲の爪かライオンの爪でな……! 負ければそうなる! お前は死ぬんだ! いいんだな、それで? それでもお前は、降りずに続けるって言うんだな?」
野ウサギは唇を引き結んでグリフォンを睨むと、彼には答えずルイスに言った。
「ルイスさん……。僕はやります。この僕に、サイコロを振らせてください……!」
ルイス・キャロルはとうとう観念したように大きく息をついた。それから彼は野ウサギの肩に手を置き、こう言ったのである。
「……分かりました。不本意ながら、賭けましょう……。ギャンブルです……! あなたにあなた自身を賭けた、ルイス・キャロル最後の大勝負です!」
ロリーナたちは黙って歯ぎしりをする。そこでルイスは再び野ウサギに向かって言った。
「ところで、野ウサギさん……。命まで賭けるんです。あなたの方では、勝ったら向こうに何を望むのですか?」
ぎくりとするグリフォン。
「っ別に僕は、望みなんて……」
野ウサギは口ごもりながらルイスや敵の顔をちらちらと見ていたが、やがて声を落として、こんな風に言った。
「……いや……。そうですね……。昔馴染みの友達と、お気に入りのカップでお茶を飲んで……、馬鹿な冗談を言い合って、一日が終わってしまうような……。そんな無駄な休日を過ごせるような世の中……。そんな世の中を、もう一度……。それが……、それが僕の、ささやかな望みです……!」
ルイス・キャロルはにっこりと微笑んだ。が、一方チェシャ猫は噴き出して言う。
「ニャハッ! それって結局、ルイスちゃんが勝ったらこの国を元に戻せ、って言ってるのとおんなじじゃん!」
野ウサギはばつが悪そうにしたが、ルイスは笑って言う。
「フフッ。いいんですよ、それで。ではではこちらが勝ったら、グリフォンさんにも責任を持って復興に当たってもらうという事で――」
ここで彼はロリーナに向き直り、毅然として言った。
「再開しましょうッ……! 『チキン・クラップス』第六ラウンド……! 泣いても笑っても、おそらくこれが最後のラウンドです!」
「ニャハッ! ウミガメ27点、ルイスちゃん57点、野ウサギ87、ロリーナちゃんが94点ねッ! この期に及んでケチなイカサマはナシだよッ!」
猫はそう言ったものの、かえってグリフォンは隙あらばと言わんばかりに身構えた。野ウサギとウミガメは体を強張らせ、ロリーナはわなわなと肩を震わせながら、激しく表情を歪めて言った。
「……どいつもこいつも……! 私が救いの手を差し伸べたのに……! 正しい道を示してあげたのに……! それでもッ……! それでも私をッ、拒むと言うのねッ! いいわチャールズッ……、いいえッ、ルイス・キャロルッ! そんなにナンセンスが好きなら、このッ、サイコロ二つでたっぷり味わうがいいッ! あなたはこの私にひれ伏す事になるッ……! 必ずひれ伏す事になるわッ!」
かくして張り詰めた空気の中、一番手のナンチャッテウミガメが、ダイスをそのひれの先に取った。
既に半ば惰性となって賽を振っていた彼は、五投目に7を出してターンポイント25点、トータル52点で終了となった。
続く二番手はルイス・キャロル。決死の連続振りによって六投目時点で92点に達するものの、七投目で1-2を出し、ターンは無効に。トータル57点のままで終わる。小さく溜め息をついて、彼は言った。
「……あわよくばロリーナをヒットと思いましたが……、仕方ありません。……それでは、野ウサギさん……。あなたの番です……!」
そうしてルイスはダイスを野ウサギに手渡した。震える手で野ウサギがそれを受け取ったところで、向かいからグリフォンが大声で言った。
「ヒャッハッ! そら見ろ! 震えてるじゃないか! こいつは場外が関の山だなッ! ほら外すぞ! お前はここぞという所で外す! そしてお前はシチューになる! それがお前の運命なんだッ!」
「う、ぐ……」
野ウサギは臓腑が裏返りそうなほどの吐き気を覚えて呻いたが、ルイス・キャロルが支えて言った。
「大丈夫です。ただサイコロを振るだけ。甲羅の縁で、手を傾けるだけです。既に何度もやっている、ごくごく単純な動作です。できますよ」
「う……。クゥッ……! 分かりましたっ……。ルイスさんっ、どうか僕のためにっ、祈っててくださいっ……!」
と、野ウサギが言ったところで、チェシャ猫がルイスに尋ねた。
「一応聞くけど、この世界の神様のルイスちゃんでも、サイコロの目を操ったりはできないんだよね? 今更だけど」
ルイス・キャロルは苦笑いをして答える。
「フッ、勿論できません。それができればどんなに楽か……! 私とアリスはこの世界を創っただけ……。ダイスやカードを操る事はおろか、水をワインに変える事すらできないのです。あなたの方ができる事が多いくらいですよ」
猫はいたずらっぽく笑った。一方、グリフォンがここで忌々しそうにルイスに言う。
「それが今更、出しゃばりやがって……! 俺たちの……、革命をっ……! 俺たちによる俺たちのための、世界の新たな創造をッ! 今更邪魔立てしやがってッ! たかが小娘一人のためにッ!」
「だからっ……! さっきから言ってるだろうっ……!」
驚いた事に、声を上げたのは野ウサギだった。彼は右手に拳を握りしめ、それを持ち上げながら更に言った。
「あんたたちは、気に入らないからって壊してるだけだッ……! それまでの鬱憤を晴らしたかっただけだッ! その結果、代わりにできたのは地獄じゃないかッ! この人は、あのアリス一人のために戦っているんじゃない……。僕やあんたたち、その他みんな……、スペードの女王自身も含めて、僕たちみんなの目を覚まそうとしているんだッ……!」
ロリーナの表情に、動揺の色が浮かんだ。一方、野ウサギはここで拳を緩めると、その中のダイスをためらいがちに弄び――、そして遂に、意を決して言った。
「行きますっ……! ハイッ!」
カッ、カラランッ!
一同は息を呑む。ダイスは甲羅の中に納まった。出目は2-2の計4。野ウサギはルイスの方を見ながら、苦しそうに言う。
「……今がトータル87点だから、2を足せば89点、4を足せば91点……。女王は94……。5の差か3の差……。という事は……」
チェシャ猫も黙ってルイスの表情をうかがっている。ルイス・キャロルは冷静に野ウサギに言った。
「5の差でヒットを狙いましょう。勝率はほとんどそのままです。片目の2のみ足して、続行です……!」
黙ったままのロリーナの額には、今や脂汗が浮かんできていた。一方で、幻獣たちは目を血走らせて喚き立てる。
「畜生っ……! 外せッ! ションベンだッ!」
「あるいはリセットだっ……! 流れに飲まれろっ!」
野ウサギは必死で手の汗を拭ってから、再びダイスを手に取り、振った。
「ハイッ……!」
カッ、カランッ!
野ウサギ二投目の出目は、6-4の計10であった。ルイスチームからは順次呻き声が漏れ、ロリーナチームの三名の表情は明るくなった。
「ウニャ~……! 93、95、99のどれか……! ロリーナちゃんは94点だ。95にする意味はないよね。93点にして次に1が出る可能性に賭けるか、99にして、ここからもう行けるとこまで突っ走るかの、どっちか……」
チェシャ猫に続いて、野ウサギも頭を抱えながら言う。
「っでも、1が出る可能性はごく僅かっ……。1-1、1-2は無効だから……! ヒットに拘って、6点分捨ててもいいのか……」
ルイス・キャロルも苦しそうにして答える。
「……ヒットを狙いましょう……! 1が出る確率が低いと言っても、ヒットを狙えばその分の数十パーセントが勝率に上乗せされます。そちらの方が絶対にいい……!」
「ヒャッハ! リセットしなきゃ、だけどな!」グリフォンが嘲笑って言う。「ヒャハッ! 次はもう三投目だぞ? 振れば振る程、リセット目や7の目で終了する可能性は高くなる! その震える指じゃ、ションベンの確率もなッ! そうなったが最後、お前たちの負けだッ!」
野ウサギは吐き気と震えを必死でこらえて言い返す。
「っ振れば振る程、失敗するかもしれない……! 既に結果は決まってるのかもしれないっ……! それでも僕は、振るんだッ! 4だけ足して、93点ッ……! 続行しますッ!」
言うが早いか、野ウサギは三投目のダイスを振った。
カッ、カラランッ!
出目は、3-2の計5。1の目は出なかった。ロリーナへのヒットの目は潰えた。
けれども猫やグリフォンが声を上げようとするよりも先に、野ウサギは再びダイスを手に取り、最早迷いなく宣言した。
「5を足して98点! 行きますッ……!」
彼は振った。
カッ、カラランッ!
「8を足して106点! 行きますッ!」
五投目。
カッカラランッ!
「9を足して115点ッ!」
ルイス・キャロルとチェシャ猫は目を見張り、ロリーナと幻獣たちの顔色は青ざめている。
「畜生っ……! 外せッ! 外せッ!」
喚く幻獣たちに対して、チェシャ猫は誰にともなく呟く。
「ヒットがなくなった今、どこまで点数を伸ばせるかの勝負じゃ、先行のこっちは圧倒的に不利……。後攻が早々に7やリセット目を振る運命だとしても、先行はそれを知る事はできない。自滅のリスクを見極めながら、限界ぎりぎりまで突き進まなくちゃいけない……!」
「次ッ! 行きますッ!」
野ウサギは宣言し、そして六投目のダイスを振った。
カッ、カッカラランッ!
「「7っ……!」」
出目を認めて、銘々が声を上げた。野ウサギはしばしの間、呆然として息を切らせていた。が、やがて彼は唇を噛み締め、続いて大きく息をついた後、低い声でこう言った。
「……この、7を足して、ターンポイント、35点……。トータル、122点で終了……、です……」
「ナイスですッ……! 素晴らしいプレイでした!」
すぐさまルイス・キャロルが声を掛けた。チェシャ猫の表情にも一定の満足が見られる。一方、野ウサギは既に憔悴しきった状態で、弱々しく返事をする。
「……うう……、ルイスさん……。済みません……。僕にはこれが、限界でした……」
「いえいえいえっ、いいんですっ! これでいいんですよ! 本当に……、あなたは良くやってくれました……! ありがとうございます……!」
ルイス・キャロルは涙ぐみながら野ウサギに言った後、ロリーナ・リデルの目を見据えて言った。
「これで……、できる事は全てやりました……! 後は待つだけ……。見届けるだけ……! 運命の女神が、果たしてどちらに微笑むのかを……!」
ロリーナの表情は苦しく、麻痺したかのように唇や手が僅かに動くばかりで、言葉一つ発しなかった。代わってグリフォンが刺々しい大声で言う。
「122点だろッ? ヒャッハッ……! 終わったな! 女王は今94点。28点以上出せば勝ちだ! たったの28点ッ! ここまで女王は30点以上を何度も出してる! 楽勝だッ! 俺たちの勝利だッ!」
けれどもここで、チェシャ猫が嘲笑を浮かべて言った。
「ニャハ~……! それはどーかな♪ 結果は常に蓋を開けてみるまで分からない。……それにそもそも、蓋を開ける意志がなくっちゃ、中身がなんであれ、拝めやしないもんね♪」
野ウサギや幻獣はこう言われて初めて、スペードの女王の異変に気が付いた。彼女の身は震え、滝のような汗を流して、その顔は苦悶に喘いでいる。ナンチャッテウミガメは慌てて声を掛けた。
「ムゥっ……! 女王っ! どうしたというのだっ……! さあ、ダイスをッ……! これをほんの数回振れば、遂に奴らに引導を渡せるというのだぞっ?」
「ニャッハハッ! あと何回かな~ッ? 4回? 5回? その中で、7や2や12が出なければね!」
猫が笑う。幻獣たちはロリーナの手にダイスを持たせようとするが、彼女は狼狽して手も歯の根も震えるばかりである。
「女王よっ……! ただサイコロを振るだけだっ……!」
「畜生っ……! さてはっ、お前たちが毒でも盛りやがったなっ!」
グリフォンたちはルイスたちを威嚇したが、最早野ウサギですら動じない。ルイス・キャロルは声を落とし、その目に哀れみを浮かべて言った。
「……毒を盛ったのは、彼女……、ロリーナ自身でしょう……。ただサイコロを振るだけ……。ただそれだけの事。……ですが、振れば自らが、全ての責任を負う事になるのです。どんな目が出たとしても、どんなに忌まわしい運命が待っているとしても、それを全て、自分自身で受け入れなければならない……! 最早言い逃れは通用しません。他者のせいにはできなくなるのです……! 自分自身の手でサイコロを振る……、簡単な事ではありません。殊に長年、それと反対の生き方をしてきた者にとっては……!」
幻獣たちは苦痛に表情を歪めた。野ウサギは息を呑み、チェシャ猫は冷ややかに微笑む。
広間にロリーナの息切れだけが聞こえるようになって、間もなく。ロリーナ・リデルは縮こまっていた体をぎこちなく正すと、ダイスを持たされた右手を握り締め、それから不気味な笑みを浮かべて、次のように言った。
「フ……、フフフフ……。いいわ……。そこまで言うなら……。フフフフ……! いいわッ……! やってやるわよ! なんでも分かってるつもりのその涼しい顔を、私がこの手で歪めてあげる! アハハッ! あなたは泣き喚いて歯ぎしりし、最後は私にひれ伏すのよッ! アハッ、アハハハハハッ!」
他の五名は寒気を覚えた。スペードの女王はその目に狂気をたたえて叫ぶ。
「振ってやるわッ! チャールズッ! これでゲームはお終いよッ!」
彼女はダイスを持った右手を体の後ろまで振りかぶり、左手を広げて前方に突き出した後、甲羅を目掛けてダイスを投げ放った。
カッ……!
「ウッ……! これはっ……!」
カカッ……!
「力み過ぎッ! 暴投だッ!」
グリフォンとチェシャ猫がいち早く言った。他の者にはまだ判断できない。二つのダイスは甲羅の底に当たったばかり。一同が目を皿のようにして跳ねるダイスの運命を追っていた、その時。
「はっ! ルイスさんっマズイッ……!」
パンッ!
玉座の間に、乾いた破裂音が響き渡った。ルイス・キャロルは愕然として音のした方を振り返る。先程叫んだ野ウサギは、既に顔を青くしている。
階下へ通じる広間の出入り口に、数名のトランプ兵たちが立っていた。彼らの手にはピストルが握られており、一丁からは硝煙が立ち昇っている。
「ウ、ニャァ……」
弱々しい呻き声を上げて、チェシャ猫が床に崩れ落ちた。見れば彼女の腹部からは、赤々とした血が止めどなく流れ出ている。
「チェシャ猫さんっ! チェシャ猫さんッ!」
ルイス・キャロルは激しくうろたえた。その間にも兵たちは続々と広間になだれ込み、彼らは瞬く間に取り囲まれた。野ウサギは椅子から立ち上がって、ルイスを庇いながら叫ぶ。
「スペードの女王ッ! あんたこんな……、ハッ! まさかっ、あんた最初からっ、こいつらの手配をして……! その上でルイスさんに勝負をッ……!」
幻獣たちは驚いている。しかしスペードの女王ことロリーナ・リデルは、口元に引きつった笑みを浮かべているのみで、野ウサギの質問には答えなかった。涙を流して歯ぎしりし、睨みつけているルイス・キャロルにも何も言わなかった。
彼女は黙って椅子から立ち上がると、ルイスを見下ろし、兵たちにこう言った。
「連れていきなさい。準備ができ次第、裁判を始めるわ……!」




