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5.艱難たる生(その15)

 不敵な笑みを浮かべていたロリーナは、ここで胸を膨らませて大きく息を吸うと、今度は息を吐き出しながらクスクスと笑い、そのまま顔を伏せて肩を震わせた。一同は訝しがったが、彼女は下を向いたまま、一層口角を持ち上げて笑う。

「フッフフフフ……。フフフフフッ……! フフフフッ!」

 彼女の声は次第に大きくなり、ルイスや野ウサギは寒気を覚えた。と、その時、ロリーナはその狂気染みた笑いを止めると、にわかに顔を上げ、瞳孔開き切った(まなこ)でルイスを凝視し、次のように言ったのである。

「チャールズ。この私と結婚しなさい……!」

 ルイス・キャロルを始め他の者たちは絶句したが、数秒の沈黙を破って、チェシャ猫が大袈裟に笑って言った。

「ニャハハハハッ! ニャハハッ! てっきりこっちの力を削ぐのが狙いかと思ったら! それが真の目的ってわけ? 馬鹿馬鹿しッ! まだそんな事言っちゃってるんだ! さっきルイスちゃんが喝破したじゃん。あんたは憎き妹が愛されてるのが悔しくって、横取りしてやりたいってだけなの! 悪い事言わないから、そんな要求なら無しにした方があんたのためさ!」

 しかしロリーナはルイスを見つめたまま言う。

「いいえ、私は愛している……! チャールズ、あなたを愛している! 今はおかしな誤解をしていても、いずれきっと分かるはず……! 分からせてみせる……! そしてきっとあなたに、私を愛させてみせるわ! 愛……! そう、愛よ! 愛で全てを変えてみせるッ!」

 一方、ルイス・キャロルは居たたまれない表情をして彼女に言った。

「ロ、ロリーナ……。あ、愛の問題を置いたとしてもですね……、そもそもそれは、不可能な願いなのです。知っているでしょう、君も……。大学での私の身分は修道士と同じ扱いで、独身でなければいけないという決まり。奇妙な話ですがね。即ち結婚すれば、私は職を失う事になる。それでどうやって生活していくと言うのですか? 例え夫婦になったところで、揃って路頭に迷うのが――」

 しかしここでロリーナが遮った。

「愛があれば! 不可能なんてないわッ! それにチャールズ、嘘はなしにしましょ? 大学や数学から離れたところで、あなたにはもう一つあるじゃない……! 作家としての道が! 忌々しいけど、今や『不思議の国のアリス』は一大ベストセラーだものッ!」

「そ、そんなに甘い世界ではありません……。あれはほとんど自費出版でしたし、一つの作品が売れたからといって、それでこの先もやっていけるなどと……。しかもあの作品は、言ってみれば偶然の産物で……」

 ルイス・キャロルは実際に自信なさそうに言ったが、ロリーナはかえって目を輝かせてまくし立てた。

「いいえ、大丈夫! 書けるわ! 私がそばであなたの執筆を支えるし、一緒に考えてアイデアも出す! 私が第一の読者として批評し、改善点や続きの方向性を検討するの! そうだわッ! 今度の主人公は私をモデルにすればいいわ! それで彼女に同情を引くような目的を持たせて、もっと分かりやすい勧善懲悪にする! 荒唐無稽な設定や無意味な冗談は控えめにして、道徳的なメッセージを強調するの! それともいっそ、すれ違う男女が次第に惹かれ合うロマンスでもいいわ! 私たちなら書ける! まさに愛の共同作業よ! さあッ始めましょッ!」

 ルイスは返事はせず、帽子に手をやってうつむいていた。他の者たちは唖然とするばかりである。ロリーナはここで呼吸を整えると、今度は猫撫で声でこう言った。

「……ねえ、チャールズ? 私にプロポーズして? そうすれば、そこの兎に手出しはさせない。この場はお流れにして、あなたは体制を整えてから出直せばいいわ。昼間はロンドンで執筆活動、夜はワンダーランドで世界の運命を賭けたゲーム! フフッ、それも面白いわねッ?」

 野ウサギは苦しそうに唇を噛み、チェシャ猫は歯ぎしりをした。一方、ルイス・キャロルはうつむいたまま、やがて悲痛な表情で呟くように言った。

「……ロリーナ……。君は分かっていません……。それでは誰も、救われないのです……」

 ロリーナはたちまち刺々しい声で怒鳴った。

「何ッ? それなら兎をシチューにしてもいいのね? 自分で創ったキャラクターを! 言っておくけど、逃げられるなんて思わない事ね! グリフォンがどこまでも追っていくし、そいつも指名手配犯にして国中に触れを出すわ! フッ! ひょっとしたらその過程で、誤認逮捕や冤罪も起きるかもね!」

 ルイス・キャロルは唇を引き結んでロリーナを睨んだ。その時。

「……ルイスさん……。僕がここから勝てる、確率はっ……?」

 声を震わせながら、野ウサギがそう言ったのだ。ルイス・キャロルは驚いて言う。

「の、野ウサギさんっ、あなたはまさかっ……!」

「ルイスさん、確率はっ……?」

と野ウサギ。ルイスは面食らいつつも、考えながら答える。

「ええっと、正確な計算は難しいですが……。7の差でヒットできる確率が……、数字を刻む事も考えると、およそ45パーセント。あるいは振り続けてロリーナより先に進める確率が……。そうかっ……! 12.345679パーセント! ならばおそらく、野ウサギさんが勝てる確率は、合計六割弱! 少なく見ても55パーセント以上は……」

 計算結果にルイス自身と仲間は目の色を変え、ロリーナチームは顔色を変えたが、ルイスはここで我に返って口をつぐんだ。代わりにグリフォンが大声でわめく。

「嘘だっ! ハッタリだっ! 野ウサギをそそのかしてるだけだッ! なんだ12.345ってッ! 見え見えの嘘つきやがって!」

「1/3×2/3×2/3×5/6=10/81で、10/81は8を抜かして0.123……という循環小数になるのですよ。証明はですね、……あ、いえ、その……」

 ルイス・キャロルはそこまで言って再び気まずそうにしたが、野ウサギはそんな彼に言った。

「……いいんです、ルイスさん……。お陰で……、とうとう決心が、付きました……!」

「しっ、しかし、野ウサギさんっ……! あなたが命を賭ける事はっ……!」

 ルイス・キャロルは慌てて言ったが、野ウサギは涙をこらえて声を上げた。

「僕だって恐いですっ……。けど……! けどッ、六割近い確率で、勝てるんです……! 彼女は出直せばいいなんて言いましたけど、今夜を逃せば、女王とこんな勝負ができる機会はもうやってこない……! 一層悪くなるだけなんですッ! きっと明日から、市民の監視は強化されます! 密告が奨励され、憎悪が煽られ、一方女王は警備を万全にする。そうして彼女はますますこの国を破壊していくのですッ……!」

 彼は更に言った。

「……僕はこれまで、革命の熱で周りがおかしくなっていくのを、見て見ぬふりをしていました……。いいえ、最初は、おかしくなっているのに気付きもしなかった。やがて狂気に気付いてからも、それをおかしいと思っても、周りに合わせて自分も狂気を演じていました。そうしていれば安全だから……。安逸だから……。居場所があるし、懐は温かいし、何より考えたり怯えたりしなくて済むから……。だけどそうしている間に、友人も世界も丸っきり変わってしまった……! そしてそれでも僕は、ただただ手をこまねいていた……! 何もできないって諦めて、自嘲して、世界と運命を呪っていた……! そんな時、あなたが現れたんです……」

 野ウサギはルイスをじっと見て言った。

「あなたは手足を縛られ、暴力で脅され、死が目前に迫っても、それでも諦めなかった……! 考え続けて、戦っていた! ここでもそうですっ! だから、今引いちゃ駄目ですっ! 僕はやります……! 僕みたいな草食の小動物が、って、ついさっきまでずっと思ってました……。けどっ、僕は分かったんですッ……!」

 彼はここで甲羅の中のダイスに視線を落としてから、ロリーナの目を見据えて言った。

「『生』とは、サイコロを振る事ッ……! 自分自身の手でサイコロを振り、どんな目が出ても受け入れる事なんだッ!」

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