5.艱難たる生(その3)
バサバサと音を立て、一羽の鳥が玉座の正面の窓に姿を現したのだ。鳥は体を半分部屋の中に入れて窓の縁に留まり、ゆったりと翼を畳む。それは灰色の鳩であった。一同の注意も否応なくそちらに向く。
「ムムゥ……! こんなタイミングでっ……!」
ナンチャッテウミガメが、机と甲羅から首を出して唸った。そしてほとんど同時に、グリフォンがこう漏らしたのだ。
「女王……!」
ルイス・キャロルは目を丸くして声を上げる。
「なっ……! あの鳩がっ? それではつまりっ……、そこにいるのはッ、ロリーナなのですかッ?」
鳩は窓の縁から飛び降りた。同時にその体は艶めかしく変化し、黒い喪服姿の、人間の女性が立ち現れたのである。
彼女は部屋の中央に進み出ながら、顔に掛かっていた黒いベールを持ち上げた。豊かな濃い栗色の髪をシニョンに結い、瞳の色は鳶色。憂鬱そうな目元に反して釣り上がった眉が、彼女の気位の高さを表していた。
「ドッドソンさん、お久しぶりね……!」
棘のある口調で、ロリーナ・シャーロット・リデルは言った。
「ニャハッ! スペードの女王のお出ましだ! こりゃ手間が省けたねッ!」
チェシャ猫はそう言いながら構えを解き、一歩下がって女王に道を空けた。一方、ほとんど呆然としていたルイス・キャロルは、ロリーナが広間の中央まで来たところで、ようやく声を震わせながら言った。
「……ロリーナ……。本当に、本当にスペードの女王は、君なのですね……」
向かい合う二人を、他の者たちは興味深そうに交互に見つめる。ロリーナは不敵に微笑んでルイスに言った。
「フッ。気付いてたのね、女王の正体は私だって。ドッドソンさんの方こそ、『カジノ潰し』なんてよくやったものね……!」
ルイス・キャロルは苦笑いをして言う。
「……チェシャ猫さんが、イニシャル入りのハンカチを見てましてね。『L.C.L』が『ロリーナ・シャーロット・リデル』でない確率は、文字通り万に一つといったところですから」
「フフッ! なるほど、流石ねッ」
ロリーナは親しげに笑った。一方ルイスは顔をしかめて尋ねる。
「……反対に、君は……? その落ち着きぶりからして、君の方でも、カジノ潰しが私だと気付いていたんでしょう? いったい、いつから……」
彼は他にももっと問いたそうであったが、ロリーナはすぐに言った。
「あなたが最初にカジノを負かした、その翌朝よ。メアリー・アンだったかしら? 彼女の部下から夜のうちに連絡を受けてね。最初は調子に乗った誰かの悪ふざけかと思ったものの、なんだか胸騒ぎがして、夜明け前に飛んであの町へと向かったのよ。文字通り、鳩の姿で羽ばたいてね」
ルイスは苦々しい驚きを表情に浮かべて言う。
「なるほど……。思い出しましたよ。……皮肉なものです……。あの日私は町を出る時、飛んでゆく鳩に前途の祝福を求めたというのに……」
「その時は、」とロリーナが更に言う。「まさかあなたが世界中のカジノを相手にしようとしてるなんて、思いもしなかったわ。だから各地に、おかしな事は報告するよう通達しただけ。だけどあなたは止めようとしなかった。そこで私は刺客を放ったり、国中にお触れを出したりしたわけだけど……」
ここで彼女はチェシャ猫と野ウサギを睨んだ。野ウサギは体と表情をを強張らせたものの、猫の方は満面の笑みを浮かべて言った。
「ニャハハハッ! ごめんねッ! 裏切っちゃった!」
ロリーナは鼻からちょっと息をついた後、ルイスに言った。
「まったく、便利なお仲間ができた事ね。あなたが城下に現れたと聞いて、私も空から探したけど、見つからないからここへ帰ってきたのよ。それが既にお持て成し中だなんてね……!」
グリフォンとウミガメも鼻から溜め息をついた。一方、ルイスは戸惑いながら再びロリーナに尋ねる。
「ロ、ロリーナ……、なぜ……。なぜ私と知っていながら、刺客だ指名手配だなどと……。いえっ、そんな事より……! なぜこの国をっ……! どうしてワンダーランドに革命なんてッ……! 分かるでしょうっ? この世界がこんな有り様だからこそ、アリスは心を病んでいるのだと……!」
「フッ! だからこそよッ!」
ロリーナの刺々しい声に、ルイス・キャロルは絶句した。彼女は続けて声高に語る。
「あなた以上に、姉妹であるこの私には分かる。この世界はあの子の霊魂そのもの……! この世界が荒めば荒むほど、狂気と絶望に覆われれば覆われるほど、あの子の心は壊れていくッ! 私には分かっていたわ! だからこそ私は、あの子の真似をしてまでこの世界に来たのよッ……!」
ロリーナは忌々しげに言う。
「私は昔からあの子が嫌いだった……。あの無邪気さが腹立たしかった……。あの子への憎しみは、日々募るばかりだった……! だけど私は思い付いたの。私があの子の心の世界に潜り込んで、キャラクターたちに世の不公平さを悟らせれば……、世界は引っ繰り返る! それは歴史が証明する通りよ! そしてその後の混乱を上手く操れば……! この世界は二度と立ち直れなくなる! 現実世界で手も触れる事なく、アリスを廃人にしてやれるのよッ!」
グリフォンとウミガメは引きつった笑みを浮かべており、チェシャ猫は呆れ、野ウサギは震えていた。ルイス・キャロルは立ち尽くしたまま目に涙を浮かべていたが、やがて悲痛に顔を歪めてロリーナに言った。
「……ロリーナ……。お、お願いです……。もうやめてください……! とっ、止めてくださいっ……! 改革という名の破壊行為を……! アリスの心を苛むのをッ……! し、姉妹とはいえ……、いいえ、姉妹だからこそ、これまで不満も多くあったのかもしれません。私の想像も及ばないくらいに……。けっ、けどっ、だからといって、余りに非道徳的な仕打ちじゃありませんか……!」
しかしロリーナは笑って言った。
「フフッ! 『ルイス・キャロル』さんッ。ナンセンスが売りのあなたが『道徳』なんて、可笑しな話ね。ワンダーランドにあるのは自由と狂気でしょう? それを私は倍に倍してあげたのよ……! もしも他人に言う事を聞かせたいなら……、方法は一つ……!」
その場の全員が目を見開いた。そしてスペードの女王はこう言ったのである。
「ゲームをしましょッ! 勝った方が負けた方に、なんでも一つ命令できるのッ!」




