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5.艱難たる生(その1)

 硬く冷たい石の壁で囲まれた、薄暗い空間。三名が立っていたのはそんな場所であった。壁に開いた小さなアーチ窓から、民衆の喧騒と石炭の煤煙が飛び込んでくる。

「おぉ……! 本当に一瞬で僕たちっ、城の中に……!」

 窓から首を外に出しながら、野ウサギが言った。彼の遥か眼下には、城下町の明かりが眩しく輝いている。彼とチェシャ猫、そしてルイス・キャロルは今、ワンダーランドの中心にそびえ立つ城の、最も高い塔の中の通路にいるのであった。

 チェシャ猫はここで目の前の木製のドアを示すと、声を潜め気味にして言った。

「ニャハッ……! 旦那様方、ちゃんと目的地にお連れしましたよッ。こちらは亡きハートの王と女王の寝室。今はあのスペードの女王の部屋でござぁい!」

 ルイス・キャロルの表情が険しくなる。彼もまた声を落として言った。

「……ロリーナの……。チェシャ猫さん、彼女は今まさに、この扉の向こうにいるというのでしょうか?」

 すると猫は澄まし顔で答えた。

「ニャハッ。それは蓋を開けてみるまで分からない、ってとこだね。中が静かだもん。あんたが町で騒ぎを起こしたって報が入った時、それから捕まえたはずなのに行方不明になったって分かった時には、あの人は確かにここにいたよ。その後の事は知らないッ。あたしもあんたを探しに出たからね」

 これを聞いて、野ウサギは顔を引きつらせた。一方、ルイス・キャロルは微笑をたたえて猫に言う。

「なるほど、そういう訳でしたか。ええっと……、チェシャ猫さん。一応確認ですが……。信じていいんですよね? あなたは最早彼女の側ではなく、私にその手を貸してくれるのだと」

「ニャハハッ! 信じる信じないはご自由に! だけど言った通り、あたしの判断基準は面白いか面白くないか……! 『あんたに付いた方がわくわくできそう』、あたしはそう思ったのさッ♪ ついでに言えば、ジャパンのチェスでは取った駒を自分の駒として使えるらしくてね。ま、そういう事ッ」

 ルイス・キャロルはにっこりと笑った。

「フフッ。非常に心強いですよ。……ではそろそろ……、運命の扉をノックするとしましょうか」

 ルイスはそう言うと、自らのステッキでもってその両開きのドアをコツコツ叩いた。

「……反応ありませんね……。あまり激しくノックしては、衛兵が気付いて上ってくるかもしれませんし……」

 ルイスは言いながらドアの取っ手に手を掛け、押したり引いたりしてみるが、開く様子はない。そこでチェシャ猫が言った。

「ニャハッ! あたしに任せなって!」

 彼女は指先から鋭い爪を出したかと思うと、目にも留まらぬ速さでドアを撫でた。それから彼女がドアの片側を軽く押すと、反対側のドア板に三角形の穴が開いて、押された方には鍵の部分を含む三角形が引っ掛かったまま、ドアは音もなく開いたのである。

 チェシャ猫が勢いよく、続いてルイスと野ウサギが恐る恐る部屋に入る。が、中には誰の姿もなかった。石炭ストーブが控えめに燃えているだけである。

「……これは……。元々王と女王の寝室だったとは、到底信じ難いですね……」

 ルイス・キャロルが顔をしかめて呟いた。部屋の中には装飾どころかほとんど家具らしい家具もなく、そればかりかそこら中が毀たれ、黒く煤けていたからである。

「ニャハッ。革命の傷跡そのままって感じでしょ? こんなとこで寝起きしてるんだから、物好きなもんだよ、あの人は。ねえ、これ見てッ」

 チェシャ猫はそう言うと、簡素なベッドの傍らに置いてあった旅行鞄に手を伸ばし、中から鮮やかな紫やピンクのハンカチを取り出した。ルイスも近寄ってそれらを見て言う。

「……これは最新の合成染料の……。そしてやはり確かに、『L.C.L』の刺繍がある……。枕元にはユーゴーの『レ・ミゼラブル』の原書……。間違いありません。スペードの女王は、ロリーナ・シャーロット・リデルその人です……!」

 チェシャ猫は言葉は発さず、ルイスに不敵な笑みを投げ掛けた。ほとんど同時に、それまで黙っていた野ウサギが、恐る恐るルイスに言った。

「……その……。ルイス・キャロル様……、あなたは……」

 するとルイスが手を振って遮った。

「ちょっとちょっと……! やめてくださいっ、『様』だなんて……! どうかそんな風に畏まらないでください! お互い話し辛いじゃないですか……!」

 言われて野ウサギは困りながらも、次のように言った。

「う……。それなら……、ルイス、さん……。その……、あなたはスペードの女王と、いったいどんな関係なのですか……? 頭の整理が追いつかなくて……」

 ルイスは野ウサギとチェシャ猫の顔を見ながら語る。

「そうですね……、では分かりやすく時系列順に行きますと……。私の上司の子供の中に、何年も前から私が親しくしている姉妹がいましてね。ロリーナという長女の子と、アリスという次女の子がいました。三年前、私は彼女たちと一緒に遊びに出掛けて、空想のお話を語って……」

 チェシャ猫が口を挟む。

「その辺はあたしもさっき隠れて聞いてたから、もっと端折って! 要するに、あんたのお喋りにアリスが魂かなんかをつぎ込んで、あたしたちのこの世界ができちゃったってわけでしょ?」

 ルイスはちょっと苦笑いをして続ける。

「まさにその通り。それから間もなく、私と一家は疎遠になってしまうのですが……。今年の、つい先日の事です。私が久しぶりにアリスを訪ねてみると……、彼女は病を患って、閉じ籠っていたのです。心の病で絶望に苦しみ、不思議の国に思いを馳せる事すらできない。むしろそれを忌避するのです。ワンダーランドに異変が起きていると考えた私は、単身この世界に乗り込みました……」

「でもってカジノにムカついて、それを潰して回ったんだ」

 チェシャ猫が言った。ルイスは少し笑って、話を続ける。

「早い話が、そういう事です。そうしてチェシャ猫さんの情報で、私は黒幕のスペードの女王の正体がアリスの姉、ロリーナである事に気付き……、帽子屋さんたちの話から、彼女がアリスに対して、激しい恨みを抱いていると推測したのです」

 ルイス・キャロルが息をついたところで、野ウサギが声を震わせながら尋ねた。

「……あなたはスペードの女王に会って……、いったい、どうするつもりですか……? 世界は元に、戻せるのでしょうか……。アリスは……、あの子は無事に、笑顔を取り戻せるのでしょうか……」

 沈黙の後、ルイス・キャロルは視線を落として呟くように言った。

「……分かりません……。けれども私は言葉を尽くして、ロリーナに目を醒ましてもらうつもりです……」

 と、ここでチェシャ猫は鼻からちょっと息をつくと、ドアの方に体を向けながら言った。

「ま、それはそうとッ! 降りてって、他のとこも探してみない? 案外その辺で誰かとお喋り中かもよ?」

 ルイスは表情をやや強張らせて尋ねる。

「この城には、ロリーナ以外にはどういった方がいるのでしょう。城は今は、どういった用途で使われているのですか?」

 すると野ウサギが答えた。

「ここは革命後は新政府の執行部が置かれています。新政府と言っても、実際はほとんど女王と他二名による三頭独裁体制ですから、夜なんかは彼女たちと、衛兵がいくらかいるだけのはずです」

「三頭政治ですか……。ロリーナ以外の他の二頭……、あっ、いえ、他の二人とは?」

 ルイスが尋ねると、野ウサギが笑いながら答えた。

「ハハ。『二頭』でいいと思いますよ。一頭は軍の司令官のグリフォンで、もう一頭は財閥のナンチャッテウミガメです」

「ニャハッ、知ってる? 頭が牛で、体が海亀の……」

 チェシャ猫がルイスに尋ねると、彼は屈託なく笑って答えた。

「フフッ! もちろん知ってますよ! 『なんちゃって海亀スープ』の材料にする、あの『ナンチャッテウミガメ』ですよね!」

 三人はたまらず忍び笑いをした。それからやがて、ルイスが他の二名に言った。

「ではでは、参りましょうか。お二人とも……、付き合わせてしまって済みません。どうか、無茶だけはなさらないでください」

 猫は大きく不敵な笑みを浮かべ、野ウサギは息を呑んだ。こうして三名は、辺りの様子を伺いながら、塔の階段を降りていったのである。


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