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3.人殺しの女王(その11)

 これを聞いて、ギャラリーたちは一層どよめいた。

「チョキなしでっ、グーとパーだけで戦ってたって言うのっ? 嘘でしょッ?」

「いいやっ、俺は憶えてるっ……! 本当だ……! 確かにこの兄ちゃんは、カードにしてから、チョキを出してねえっ!」

「カード式にしてから、引き分けも含めて……、七戦だっ! その間ずっと、二種類の手だけでっ? なんてこったッ!」

 夢中でルイスの勝利を喜んでいた料理番は、周りの者たちの声を聞いてようやく彼が何をしたのかを理解し、身を震わせた。彼女は床から立ち上がろうとしていたルイスを支えながら、彼に言った。

「お前さんっ……! そんなイカレた真似をしてたなんてっ……! いったいなんだってそんな……!」

 周りで聞いていた者たちも、思わずこくこくとうなづいている。立ち上がったルイス・キャロルは、ほくそえんで料理番に言った。

「それはもちろん、最後にゲームに勝利するためです。動体視力を封じられたチェシャ猫さんが、追い詰められて更に何かしてくるであろう事は……、フフッ、その常識外れな体で何かしてくるであろう事は、予想が付いていましたからね。前もって仕込んでおいたというわけです」

「でもっ、もし猫の奴が覗き見しようとしなかったら……?」

 料理番がそう言うと、ルイスは両手を顔の近くに持っていって答えた。

「その時はこう……、ハ……、ハ……、ハクションッ!」

 彼は大きなくしゃみをして、その弾みで持っていたパーのカードを手からこぼした。

「お前さんっ、寒いのかいっ?」

 料理番が慌てると、ルイスはにんまりと笑って、彼女の目の前に胡椒の瓶を出して見せた。ギャラリーたちはざわめき、料理番は目を丸くして言う。

「えっ……。えっ? その胡椒は、あたいのっ……!」

 彼女は自分の背中の大きな袋に手をやった。そのほとんどは料理道具で、フライパンの取っ手やパンこね棒が飛び出している。ルイス・キャロルは笑った。

「フフッ! どうですか? なかなか自然な演技だったでしょう? すみません、ちょっとお借りしてました」

 彼は唖然とする料理番をよそに、彼女の背中の袋に胡椒の瓶を押し込んで返した。間もなく料理番は我に返ると、再びルイスに言った。

「……それにしたって……! もしもグーとパーしか持ってないのを途中で猫に勘付かれたら、目も当てられないじゃないか……! そうじゃなくたって、たまたま猫がパーばっかり出す事だってあり得る……。なのにみすみす、チョキっていう選択肢を捨てて……! 自由を捨ててっ、自ら手足を、縛られるような真似を……!」

「フフフッ! 確かに内心、ひやひやしてました! いやはや、厳しい戦いだった事は事実です」

 ルイス・キャロルは笑いながら言った後、料理番の目を見て静かに微笑んだ。

「……ですが、決めた事ですからね。……縛られたわけではありません……。決めたんです。自分で決めた、自分の戦い……。私自身が決めた、私自身の一手ですから」

 ギャラリーたちから感嘆の溜め息が漏れ、料理番はルイスを見つめて涙をこぼした。その時。

「ニャッ、ニャハハハハハッ……!」

 チェシャ猫の笑い声が聞こえてきた。が、彼女が呆然と立ち尽くしていたはずの場所に既にその姿はなく、笑い声はルイスの背後、橋の出口の方から聞こえたのだ。

「ニャハハッ! 甘いよカジノ潰しッ! 甘すぎるッ! チェリータルトとカスタードと、パイナップルとキャラメルを混ぜたみたいに甘いッ!」

 ルイス・キャロルが慌てて出口の方を向くと、橋のアーケードを出た所で、チェシャ猫は口を目元まで広げて、笑って立っていた。元々その辺りにひしめいていた者たちは、戸惑いながら後ずさりしている。ルイスは猫に向かって声を上げた。

「ちょっ、チェシャ猫さんッ? いったいどういうつもりでしょう! まさか『先にゴールに着いたからあたしの勝ちッ』とか言いませんよねッ?」

 猫は笑って答えた。

「ニャハッ! それも面白いね! けど、ここは潔く負けを認めてあげる。ゲームはあんたの勝ち。なかなかどうして、刺激的だったよ!」

 ルイスは通路にいるギャラリーたちを掻き分けながら、猫に向かって言う。

「なら約束通りっ、あなたには私に協力してもらいますよ! さあッ、まずはスペードの女王について、知ってる事を教えてくださいッ!」

 しかし、チェシャ猫は尚笑って彼に言った。

「ニャハハッ! 甘いんだって。『ゲームはあんたの勝ち』とは言ったよ? けど、このあたしに言う事聞かせられるかどうかは、ま~ったくの別問題♪」

「ッ汚いよっ! この猫ッ!」動揺するルイスの後ろから料理番が叫んだ。「逃げる気かいッ? この卑怯者ッ! ちょっとあんたたちっ! 見てないでそいつ捕まえてッ!」

 しかし、チェシャ猫に手を出そうとするギャラリーはいなかった。それどころか彼らの中には、必死で出口に向かおうとするルイスと料理番を、嘲笑っている者もいた。

 間もなくルイス・キャロルは人混みを潜り抜け、笑みを浮かべる猫に手を伸ばそうとした、その時。彼女は大きくジャンプして、橋のアーケードのアーチの上に上がった。

「ニャハッ! カジノ潰し! 勝ってもそれを結果に結びつける『腕力』がない所が、あんたの最大の弱点だよッ! 今までは大衆のノリを味方に付けてたんだろうけど、こっから先は、そうはいかないよ?」

 橋の袂に出て、アーチの上の猫を睨んで歯を食い縛っていたルイス・キャロルは、彼女の言葉が終わると、ふと訝しげな表情を浮かべた。

「……チェシャ猫さん……。あなたは、ひょっとして……」

 すると猫はいたずらっぽく笑って言った。

「ニャハハッ……! ばれちゃった? ホントはね、あたしもあの人の事、ほとんどなんにも知らないの。ニャハハハ。ごめんねッ」

「猫め……! どこまでも人を馬鹿にして……!」

 料理番が悔しそうに言った。ルイスは唇を噛みながらも、鼻から大きく溜め息をついた。それから彼が猫に向かって口を開きかけたところで、先に猫の方がルイスに言った。見れば彼女の体は、足の方から少しずつ消えかけている。

「ニャハッ! そうだな……。あの人の、文字通りベールに包まれた下の、素顔くらいなら見た事あるよ? 彼女もあんたと同じで、この国の人じゃあないね。小顔だもん。あんたに似てるよ。なんとなく眠たげで……」

 ルイス・キャロルはこれを聞くと、明らかにうろたえ始めた。

「……それは、まさか……。まさか、スペードの女王とは……」

 彼は独り言のように呟いた後、声を震わせてチェシャ猫に尋ねた。

「猫さんッ……! それは、ひょっとしてっ、ア、アリスの事ではッ……!」

「……アリス? 誰だっけ?」

 チェシャ猫は首を傾げた。周りの者の中にはその少女の名を憶えている者もいたが、それでもこの紳士の動揺を理解できる者はいなかった。ルイスは消えつつある猫に向かって声を張り上げた。

「アリス・リデルッ! 昔この国にひょっこり現れた少女ですよ! あなたも会っているはずでしょうっ? ああもう……。なら、年齢はっ? 現在十三歳の、綺麗な子のはずですがっ……」

 けれども猫はあっけらかんとして笑った。

「ニャハハッ! 知るわけないでしょ、歳なんて。けど、十三っていうのはどうかなぁ? もう大人か、大人と変わらないくらいに見えるけど? 別人じゃない? イニシャルも違うし」

 ルイスは少し、安堵したようだった。が、ここで彼はふと気付いて言った。

「……イニシャル……? 女王のイニシャルが分かるのですか?」

 チェシャ猫は今や体を全て消して、頭だけを宙に浮かべてうなづいた。

「うん。ハンカチの刺繍が見えたんだ。『L.C.L』。そう縫い付けてあった」

「……L.C.L……」

 そうオウム返しに呟いたルイス・キャロルの表情には、再び動揺の色が浮かんできていた。しばし目を泳がせた彼がもう一度視線を猫に移すと、既に猫はその三日月型のにんまりとした笑みを残して他は消えていた。猫不在のその笑みは、ルイスに向かってキスを投げ掛けると、消え入りながら、こう言った。

「じゃ、またね♪」

 チェシャ猫が完全に消え去ってしまうと、周りにいたギャラリーたちはまるで解き放たれたかのように、すぐにわらわらと散らばっていった。その場から動いていないのは、立ち尽くすルイス・キャロルと、彼に寄り添う料理番、そして豚の赤ん坊を抱いて橋の建物に寄り掛かり、ぼんやり空を眺めているあのカエルだけだった。愕然としたままのルイスに、料理番は恐る恐る声を掛けた。

「……お前さん……、大丈夫かい……? いったいどうしたって言うんだい。アリスってあの子だろ? あたいもあの時の裁判に出たし憶えてるよ。……そうかい、あの子があんたの……。けど、違うんだろ? どういうわけかあたしには分からないけど……、あんたはスペードの女王の正体が、あのアリスって子じゃないかと思って気を揉んだ。けど、違ったんだろ? 歳が違うし、イニシャルが……、なんだっけ? L……」

「……L.C.L……」

 ルイス・キャロルが呟いた。彼は上げたままだった頭をようやくここで下ろすと、今度は反対にうなだれて、顔を隠すように帽子のつばに手を当て、次のように言った。

「……L.C.L。……ロリーナ・シャーロット・リデル……。あの少女、アリス・プレザンス・リデルの……、三つ上の、姉の名前です……」

「アリスの姉……! 三つ上なら……、十六歳。猫の言い方に当てはまる……。っでもさ、イニシャルが同じったって色々あるだろ? 赤の他人じゃ……」

 料理番はそう言ったが、ルイス・キャロルは僅かに首を横に振って呟いた。

「……アルファベットは二十六文字。二十六の三乗は一万七千五百七十六……。ZやQを除いたとしても……、赤の他人である確率は、数千分の一以下でしょう……」

 料理番は、それ以上何も言えなかった。ルイス・キャロルは立ち尽くしている。周囲の雑踏も、豚の赤ん坊の鳴き声も、鉛色の川の水音も、彼の耳には、最早入らなかった。

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