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3.人殺しの女王(その10)

 チェシャ猫は勝利を得ても最早ほとんど声を上げず、引きつった笑みを浮かべて大きく息をついた。彼女はカードをまとめると、まるで獲物に忍び寄るかのように、体をかがめてゆっくりと通路を進んだ。その目は瞳孔を開ききって、ルイス・キャロルを一心不乱に見つめている。

 ルイス・キャロルは立ち尽くしたまま敗北に顔を歪めていたが、猫が隣の店の前までやってきた頃には、既に好戦的な面持ちとなって彼女を見据えていた。それに気付いたチェシャ猫は、彼からまだ距離のある内に前進をやめた。しばしの睨み合いの後、ルイス・キャロルが声を高くして言った。

「いよいよ、ゴールが迫ってきましたね……! 決着は間もなくです。アイコを除けば最長でも四手……。実際には次の回、私はパーで勝てば、そしてあなたの場合はグーかチョキで勝つ事ができれば、その瞬間に勝負は決するわけです……!」

 …□☆□☆□ネル☆□|G


 ギャラリーたちは既に彼らの周りに大勢たむろしていて、皆一様に息を呑んでいた。その中で、ルイスに最も近い位置にいた料理番は、顔を真っ青にして考えていた。

 ……これはマズいよ、お前さん……! ゴールに近いのはお前さんの方だけどッ、猫の奴は次、グーでもチョキでも上がれるんだ! お前さんは次上がろうとするなら、パーしかない……。選択肢がないんだ……! 縛られてる! ああっ、こんな事って……! これこそッ、『自由か、そうじゃないか』って話じゃないかいッ……!

 一方で、チェシャ猫は低い声でルイスに言った。

「全く長かったね……! さっさと終わらせようか……! もちろん、結果はあたしの勝利でね!」

 彼女は歪んだ笑みを浮かべたものの、その表情には明らかに緊張が見られる。そこでルイスはちょっと鼻で笑って、彼女に言った。

「今はわくわく、されていないのですか? チェシャ猫さん? 勝っても負けても、刺激的ならそれでいいのが、あなただったはずですが」

 チェシャ猫は言葉に詰まった後、顔を引きつらせ気味にして言った。

「……遊びの時間は、終わったって事だよ……!」

「フフッ……!」ルイス・キャロルは小馬鹿にしたように笑った。「なんだかんだ仰っても、結局ただ勝者という優越感に浸って、安心したかったというわけですね」

「黙れ黙れッ!」チェシャ猫は声を荒らげた。「勝たなきゃただの負け犬ッ! 縛られ、繋がれ、支配される! 奴隷にならないようにするにはねッ……! 勝ち組になるしかないんだよッ!」

 料理番は悔し涙をこぼした。ギャラリーたちの多くは、猫の言葉に心を動かされている様子だった。

「……奴隷だなんて……」

 ルイス・キャロルが、切なそうに呟いたところで、猫は更に大きな声で言った。

「やるよッ! カジノ潰しッ! お喋りは終わり! いよいよクライマックスだ! 勝った方が負けた方の、全ての自由を手に入れるッ! さあ! カードを選んでッ!」

 両者はここで手元の三枚のカードに視線を落とすと、歯を食い縛ってそれらを睨んだ。やがて、どちらからともなく顔を上げて相手を見つめると、再びカードを見て一枚を右手で引き抜き、残りの二枚を持った左手を下ろし気味にした。間もなく沈黙を破って、ルイス・キャロルが猫に言った。

「……それでは……、よろしいですか? 良ければ掛け声に入りますが……」

 チェシャ猫は引きつった笑みを浮かべてうなづいた。

「うん。いいよ……」

 しかしそう言った直後、猫はすぐに続けて言った。

「んっ、やっぱり待った! やっぱり換えるッ!」

 ギャラリーからは戸惑いや呆れの声が漏れる。ルイス・キャロルも右手にカードを持ち上げたまま、苦笑いをしていた。チェシャ猫はうつむいて手札を再び混ぜながら言う。

「……あんたも手、換えたかったら換えていいけど。換えなくていいの?」

「フフッ……、私はこれで結構です」

 ルイスは涼しい顔をして、右手に持ち上げているカードを少し振った。チェシャ猫はほとんど真下を向いたまま、上目遣いで更に言う。

「換えなくていいんだね? その右手に持ってるカードで決まり……、それを手として出す、って事なんだね……?」

「……はい」

 ルイス・キャロルはそう答えて、それまで胸元辺りにくっつけるようにしていて持っていた右手の札を、確認しようとした。その時。

「お前さんッ!」

 料理番がルイスの方を指差して叫んだ。ほとんど同時に、ルイスも身をのけぞらせた。

 目だ。一つの眼球が、信じられない事に宙に浮かんでいて、ルイス・キャロルの肩の上から、彼の右手の中を覗こうとしていたのだ。

 ルイスは即座に身をよじり、右手を胸に押し付けてカードの中身を見えなくした。そうしながら彼がチェシャ猫に視線を向けると、彼女の顔の左の目の位置には虚ろな暗い穴が開いているだけで、彼女はその穴に向かって口元を引き裂くかのようにして笑っていた。そして、次の瞬間。

 ビシッ!

「ウッ……!」

 打撃音がして、ルイスがうめいた。彼の手から、はらりと落ちる二枚のカード。獣の手、猫の手首から先がルイスの体の左側に浮かんでいて、彼の無防備な『左手』から、残ったカードを弾き飛ばしたのだ。二種類の図柄、グーとパーが、宙を舞った。

「クッ……!」

 ルイスは慌ててその、勝負に使わない方の二枚を手繰り寄せようとした。しかしその時。

「ニャッハッ! それじゃあ行くよッ? ジャン……!」

 左目と左手のないチェシャ猫が、ルイスに向かって声高に言ったのだ。

「そんなっ……! 待ってっ……!」

 ルイス・キャロルが哀れな声を発した。彼は先の二枚のカードを掴もうとしてバランスを崩し、石の床に膝を突いた。

「ケン……!」

 チェシャ猫は掛け声を止めない。彼女は右手にまとめて持っていた三枚のカードの内、二枚を放り捨て、一枚を高く掲げた。彼女の残りの二枚、チョキとパーのカードが宙を舞う。

「こんなっ……! 汚いよっ!」

 狼狽した料理番が、猫に向かって叫んだ。

 ……こんなっ……! こんなのって……! なんでもありじゃないか! 目玉を飛ばして覗き見るっ? 右手の出す札をなんとか隠したらっ、今度は強引に残りの方の二枚を跳ね飛ばして……! 予め言質も取られた! この人は今持ってる右手のカードを出すって決められちまってる……! それはこぼれた二枚、グーとパーの残り、つまりチョキだっ!

「待ってっ!」ルイス・キャロルが悲痛に叫ぶ。「待ってくださいっ……!」

「ポンッ!」

 笑う猫の大声が、橋の中に響き渡った。同時に彼女は右手を振りかぶり、グーのカードを前に突き出した。その足元には、先程放り捨てたチョキとパーのカードが、表を上にして落ちている。チェシャ猫はそれらを踏みつけて、ルイス・キャロルに近づきながら言った。

「ほらほら、カジノ潰しさんッ! あんたも、その最後の手を見せてよ! さっきちゃあんと確認した通り、既に持ってる、その右手のカードをねッ! ま、見なくても分かるんだけど! ニャハハハハッ!」

 床に膝と手を突き、うなだれているルイスの顔の下には、グーとパーのカードが、あられもなく表を見せていた。料理番が叫ぶ。

「汚いよっ! 卑怯だよっ! 猫めッ! これはゲームの勝負だろッ! こんなの無効さッ! 無効に決まってる! ルールはルールだよッ!」

 ギャラリーたちからも、流石に同様の声が漏れてきていた。が、チェシャ猫は戻した左手から鋭い爪を剥き出して、両目の瞳孔を開いて料理番たちを睨めつけた。

「ニャハハッ……! 卑怯をものともしない優雅さ! 優雅さをものともしない卑怯! それが猫だよッ! ルールは猫を支配しない! 常識も、良心もね! ニャハハハハハハッ!」

 彼女の恐ろしい爪や牙を目の当たりにすると、料理番を含め、周囲の誰もそれ以上異議を申し立てる事はできなかった。猫は笑い続けている。が、その時。

「……それでは、『敗北感』ならどうでしょう……? 少しは猫も、しつけられますか……?」

 うつむいたままのルイス・キャロルが、声を落として、そう言ったのだ。チェシャ猫は少し驚きを見せたが、すぐに笑って言い放った。

「ニャハハッ! 敗北がなんだって? あたしには関係ない言葉だね! リボンでも巻きつけて、あんたにこそプレゼントしてあげる! ほら! 右手を開くの、忘れてるよッ! きっちり終わらせようよ! その、チョキのカードを開いてさッ!」

 猫は言いながら、自らのグーのカードを振った。

「……フッ……、フフフッ……」

 ルイス・キャロルはうつむいたまま笑った。チェシャ猫も、周囲の者たちも、一斉に怪訝な表情をする。ルイス・キャロルは床に膝を突いたまま、ここでゆっくりと顔を上げて猫の目を見据えると、右手に握りしめていた一枚のカードを持ち上げながら言った。

「敗北をプレゼント……。フフッ。『せっかちで約束の時間より前に着いて待っているタイプ』のあなたには、『手渡しでのプレゼントは無理』でしょう……」

 ギャラリーたちの顔に、一斉に困惑が浮かんだ。それはルイスを見下ろしていたチェシャ猫も同様だった。

「ニャっ……。にゃんだってっ? クッ……! 負け惜しみに、答えのない謎掛けでも出してるんだろっ?」

「フフッ! 答えはありますよ。もっとも私は、答えがある事が全てと言うつもりはありません……。ですがどんな状況に陥っても、気の利いた一手くらいは引き出せるもの……」

 ルイス・キャロルはそう言うと、次のように言ってから、右手の折れかけのカードを開いて見せた。

「『せっかちで約束より前に着く』あなたには、『手渡しでのプレゼントは無理』。その心は、『きみじかで、おくれない』。そして私の引き出した一手は……、これです!」

 彼の持っていたカードは、パーであった。ギャラリーたちはどよめき、料理番は叫んだ。

「ッパーだッ! パーっ! この人はパー! ご覧ッ! 猫の手は、グー! パー対グーだッ! パーの勝ちッ! この人の勝ちッ! 上がったッ! この人の勝ちだよッ! 猫の奴の負けさッ! ざまあみろッ!」

 チェシャ猫はグーのカードを握りしめたまま、唖然として立ち尽くしている。ギャラリーたちのどよめきの中から、カエルが大声で言った。

「なんでっ! チョキじゃなくてっ? おかしいだろっ! そこにこの男のグーとパーが落ちてるっ……。これって……」

 するとルイス・キャロルは高らかに笑った。

「アッハッハッ! 答えは簡単! 見たままですよ! 即ち、私はずっとこの三枚、グー、パー、パーの三枚を持っていたのです! カード式に変えた時から……! チェシャ猫さんにはグー、チョキ、パーの三枚を渡して、自分はずっと、チョキなしのパー二枚でプレイしていたのです!」

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