3.人殺しの女王(その8)
「……書きます」
周囲の者たちの表情に、一様に戸惑いがよぎった。続いてルイス・キャロルは、そばに立っている料理番に向かって言った。
「ちょっと私の荷物、いいですか? すみませんねえ」
彼はずっと料理番が抱えて持っていた自分の旅行鞄を受け取ると、それを地面に置いて開いた。中身は着替えやハンカチが半分ほどで、残りはチェスボードやクリベッジボード、バックギャモンやドミノと書かれたケース、そして十箱近くのトランプ、要するに半分は遊び道具で占められていた。ルイスはその中からトランプを一箱取り上げると、開封しながら、顔をしかめているチェシャ猫に言った。
「私、作家だって言いましたっけ? 最近プロデビューしたばかりですけどね。フフッ。そんなわけで、もう少し作家らしくしたいな、と! 拳と拳を突き合わせるんじゃあなく、グーチョキパーのどれを出すか、このトランプに書いてですね――」
そう言いながらルイスは、ペンを出して実際にトランプの表側に何か書いている。
「最初はお互い裏向きにカードを出し、それから開いて見せ合って、勝敗判定するんです。いかがでしょう、チェシャ猫さん? こんな方式に変えるというのは」
彼はトランプを三枚、猫の方に向けた。Aや2の札の広い余白に、G、C、Pの文字と、生真面目な画風でグーチョキパーの手の形が描かれている。チェシャ猫は苛立ちながら言った。
「ニャ……、なんであたしが、あんたのそんなめんどくさい思い付きに付き合わなくちゃいけないのっ? 手さえあればすぐできるっていうのが、このジャンケンの良さじゃない……!」
料理番も、正直に言って猫と同じ疑問を浮かべていた。が、間もなく彼女は、にわかに色めき立ってルイスに言った。
「お前さんっ……! こいつはひょっとしてッ……、あたいらが出会った時と同じッ……!」
ルイス・キャロルは彼女に微笑みを投げ掛けた。カエルは怪訝な表情をして料理番に言う。
「なんだぁ? 妙な言い方して。この色男と会った時がなんだって?」
料理番はカエルの顔をちらりと見ただけで答えず、代わりにルイスに言った。
「お前さんはあの時も……、『書きます』って言った! 右か左か、カエルのどっちの手にコインが入ってるか……。書く、ってした事で、あの時、ゲームの攻守の順番が変わったんだ! コイツが後から対応するのが、できなくなった……! イカサマが封じられたんだ! お前さんっ! ひょっとして今、この猫の奴も……!」
ギャラリーたちはイカサマという単語を聞くと騒然とし始めた。やがてその中で、この橋の賭場の関係者と思しき者たちは、怒りを露わにして口々に言った。
「分かったぞっ! 畜生ッ! 動体視力だッ!」
「それだッ! 間違いないッ! こいつは目と、それから反射速度が抜群にいいんだッ! だからウチのルーレットはこっぴどくやられた!」
「ウチもだ! この女ッ……! こいつは全部、見てから自在に対応できるんだッ!」
彼らは他のギャラリーたちを掻き分けて、チェシャ猫に飛び掛かろうとした。
が、その時。顔を引きつらせていた猫は、両手の指から鋭い爪を出して素早く身構えた。瞬間、辺りは静まり返る。猫は歪んだ笑みを浮かべて言った。
「ニャハハッ……! あたしがイカサマをしてたって? 動体視力と反射神経の良さで『後出し』してたって? ニャハッ! 証拠はない……! そんなの証明できっこないよ! 現に二人は今、競り合ってるっていうのに。ひどい言い掛かりだね」
するとここで、ルイス・キャロルはクスクスと笑いだした。猫が睨みつけるが、彼は微笑みながら次のように言った。
「フフッ。証明はできませんがね、疑惑は至極当然だと言う事はできますよ? このゲーム、アイコになる確率は三分の一ですが……、今、十ゲーム終わってアイコになったのは、たったの一度しかありません。十回ジャンケンをしてアイコが一回、という確率は、三分の二の九乗かける三分の一かける十で……、九パーセントを少し下回るくらいです」
チェシャ猫の表情が強張った。ルイスは続ける。
「もちろん私たちは、漫然と普通のジャンケンをしたわけではありませんが……、それを差し引いたとしても、イカサマを疑うには、充分なくらい『低い』確率でしょう。フフッ! おそらく疑われないように私にも花を持たせていたのでしょうが……、せっかちさのあまり、アイコを織り交ぜるまではできなかったのでしょうね!」
周囲の者たちは再びざわめきだした。チェシャ猫は黙って歯ぎしりをしている。しかしやがて、猫は不敵な笑みを浮かべてルイスにこう言った。
「……疑いたきゃ疑えばいいよ。けど分かってる? その疑いにはそっくりそのまま、あんた自身が今言ったイカサマをしてた、って可能性も含まれてるよ! 猫だから動体視力が良くてあんたは違う、なんて、誰が言える?」
ルイスは笑って言った。
「フフッ! これはこれは! 手厳しい! 仰る通り、実際この手の問題は『悪魔の証明』です。ですから――」
と、ここで猫が先んじて言った。
「でもいいさッ! あんたが納得できるように! 提案通り、カード式でやってあげるよ! ニャハハッ!」
チェシャ猫は瞳孔を真ん丸に開き、口をその目元まで裂いて笑った。ルイス・キャロルは彼女を見据え、不敵にほくそ笑むと、先ほどしたためたグー・チョキ・パーの三枚のカードを猫に渡した。
「ではではこちらをどうぞ! 裏面に目印等がないか、ご確認ください。ま、ないと思いますが!」
そう言いながら彼は自分用にも三枚用意すると、ペンを懐にしまい、残りのトランプは箱に戻して鞄に入れ、その鞄も閉じて再び料理番に預けた。
「お待たせしました!」ルイスは声高に言った。「それでは勝負を再開しましょう! 出すべき札を決めてください!」
チェシャ猫はルイスを一睨みすると、左手に持った三枚のカードに視線を落とした。やがて彼女は三枚を素早く混ぜ、ちょっと見てから右手で一枚引き抜くと、裏側を相手に見せるようにして顎の前まで持ち上げた。ルイス・キャロルも壁際まで下がって背中の後ろでカードを混ぜ、一枚選んで目の横まで持ち上げた。彼らの様子を、料理番は呼吸するのも苦しそうにして見つめていた。彼女は考える。
……猫のイカサマは封じたけど……、ゴールまで残りほんのちょっと……! どう転ぶかまったく分からない……!
S|□□☆□□☆☆□□☆□■☆□☆□□□☆□|G
……パーで勝てばッ、おまけが連鎖して大幅躍進ッ……! 王手を掛ける事になるよ……! けど例によって、お互い、相手にパーで勝たれる、グーだけは出したくない……! ってなると、お互いチョキを出し続けて膠着状態になる可能性が高いさね……。その膠着を……、いつグーで打ち破るか……! あるいはそのグーを、パーで狙い落とせるのか……! お前さんッ……! お前さん! どうか勝っておくれッ!
引きつった笑みを浮かべながら、チェシャ猫がルイスに言う。
「じゃ、いいかな……? せっかくだから、さっきまでと同じく、掛け声付きで行こう……!」
ルイス・キャロルもやや緊張の混じった笑みで答える。
「フフッ、もちろんです。では……!」
彼らは右手のカードを持ち上げて身構え、大声で叫びながらそれを振りかぶった。
「「ジャン、ケン、ポンッ!」」
二枚のトランプの表の文字と絵は、パー対グーを示していた。パーで勝ったのは、ルイス・キャロルだ。
「やったッ! やった! やったよお前さんッ!」
料理番を初めとして、ギャラリーたちが歓声を上げた。ルイス・キャロルは安堵の微笑みを浮かべ、一方チェシャ猫は、歯を剥き出しにして彼を睨みつけていた。




