3.人殺しの女王(その4)
料理番の突然の告白に、ルイス・キャロルはおろか、チェシャ猫もカエルも、周りの聴衆たちも、要するに本人以外の全ての者が唖然とした。顔を真っ赤にした料理番はすぐにうつむいてしまい、辺りには川のせせらぎの音と、赤ん坊のフゴフゴ鳴く声だけが聞こえていた。
「……ありがとうございます」
重い沈黙を破って、ルイス・キャロルが女に声を掛けた。
「お気持ち、とても嬉しく思いますよ……。ですが、あなたには旦那さんもお子さんもいるのですから……」
「なっ……! 違う違うっ!」料理番は慌てて顔を上げ、カエルの方を見て言った。「コイツとはなんの関係もないしっ、この豚は公爵家の子だってば! あたいはもう、お前さん以外のために鍋を振らないつもりだよッ!」
「おいっ! なんの関係もないって事はないだろっ!」
カエルが気色ばんで女に言った。ほとんど同時にチェシャ猫も声を上げる。
「この泥棒猫ッ! 黙って聞いてればいつまでも! この男はあたしの獲物だよ!」
「フンッ! ずっと口を閉じてればいいさねッ! 毎日餌の支度してやってた恩も忘れて!」
「餌だと、お前っ!」
「あんたじゃない! 猫に言ったんだよ!」
「皆さん、落ち着いて」
「下女がッ! 猫を飼い馴らせると思うのが間違いなんだよ!」
「ピギャーッ!」
「おい! ガキを黙らせろ!」
「いつもそう! あんたがやればいいじゃないのさ!」
「 皆 さ ん ッ ! 落 ち 着 い て ッ ッ ! 」
ルイス・キャロルの大声が響き渡ったのを最後に、罵り合っていた三者は口をつぐんだ。赤ん坊の鳴き声だけは静まらなかったものの、ルイスは一つ溜め息をつくと、呆れたように笑って言った。
「これでは話が先に進みません……! オホン……。料理人さん、残念ながら、私はあなたのお気持ちに、答えることはできません。猫さんとの勝負を、やめるつもりもありません」
チェシャ猫はにんまりと笑った。一方、料理番は今にも泣きだしそうな顔でルイスに尋ねる。
「お前さん、どうしてッ……! っ国に、想い人でもいるのかいッ? でもッ、だったら尚更、そんなイカレた勝負なんて……!」
「……だからこそ尚更、です」
ルイスは言った。猫とカエルは鼻で笑ったが、料理番は一層顔をしかめて言う。
「そんなッ……。その女のためだって言うのかいッ? どんな事情があるか知りゃしないけどッ、命まで賭ける事ないよ! 仕方ない事だってあるんだ……! どうしようもない事だらけなんだよッ、この世界はッ!」
料理番は目に涙を浮かべてうなだれた。彼女をじっと見つめていたルイス・キャロルは、やがて声を落として語り始めた。
「……あれは、七月の事でした……。彼女や、彼女の姉妹たちは、当初、私と海に行きたがっていたのです」
カエルや料理番は戸惑いつつ耳を傾けたが、チェシャ猫は既に苛立ちを見せている。しかしルイスは話し続けた。
「けれども海は彼女たちの父親の許しが出ず、代わりに私たちは川に遊びに行く事になりました。お姉さんは不満そうでした。『いっつも勝手に決められる! 嫌になっちゃうわ!』ってね。幼い三女の子も、しばらく泣きじゃくっていました。……けれども、次女の子は、そうではありませんでした。彼女は笑って言ったのです。――『海には一度しか行った事ないもの、それは確かに行けないのは残念よ? でも、またいつか行けるって考えれば、その時まで一層わくわくして過ごせるわ。何より、川辺のピクニックだって楽しいもの! きっとまたステキな思い出になるわ。ね、そうでしょう?』と。……私は改めて、父親に強引に決められた事に不満はないのか尋ねてみました。すると、彼女はこう言ったのです。――『決められたんじゃないわ。納得して、最後は私が決めたのよ。私自身が、私の気持ちを、ね。他の誰かじゃないわ。決めるのは、いつも私。私はそう思うの。……フフッ! だから私、とっても楽しみよ!』、ってね……。そうして実際、あの時川でのんびりボート乗りをしたおかげで、一つの素敵な物語が生まれたのです」
料理女は涙をこぼして愕然としていたが、カエルや周りの聴衆は困惑で顔をしかめていた。そしてチェシャ猫はと言えば、なんといつの間にか、その姿を消していたのだった。話し終えたルイスが気付いて辺りを見回したところ、橋の建物の中から明るい声が聞こえてきた。
「ニャハッ! つまんない長話は終わった? 全く待ちくたびれちゃったよ。モグ。もう本題に入ってもいいの?」
猫は舌舐めずりをしながら外に出てきた。これから起こる事に興奮しているだけでなく、アーケードの中で実際に何か食べてきたらしかった。ルイス・キャロルは料理番の目をちらりと見た後、猫のにやけ顔を見据えて言った。
「ええ……! あなたが約束を忘れないうちに始めましょう! なんのゲームをするかという話でしたね」
「そう、それだよ!」チェシャ猫が再びルイスに近付きながら言った。「とっておきのがあるんだ! さっきも言った、ジャパンのゲームだよ!」
「……ジャパンのゲーム……。ひょっとしてっ、『ゴ』の事でしょうか!」
ルイス・キャロルは目の色を変えてまくし立てる。
「あれは素晴らしいゲームですよね! 究極にシンプルなデザイン! たった五つしかないルールから生まれる無限の局面! 上級者と初心者もハンディを付ける事でいくらでも対戦可能! 千年以上の歴史があるらしいじゃ」
「ニャッ、なんだいそれっ? 違う違う!」
チェシャ猫が遮ると、ルイスは肩を落とした。猫は構わず言う。
「ジャパンで最近できたゲームだって聞いてるよ。お互いの心の読み合いで、体一つで誰でもできる。プレイヤーは掛け声に合わせて、三つの物にかたどって手の形を作る。三つの物は互いに優劣があって、AはBに勝つけどCに負ける、BはCに勝つけどAに負ける、って風に三すくみになってる。ルーツをたどればこっちも千年の歴史がある。その名は……、『ジャンケン』だよ!」
「ジャンケン……!」
オウム返しに言った後、ルイスは猫に尋ねた。
「……なるほど、なんとなくは分かりました。同時に手の形を作って互いに見せるのですね? その、『三つの物』とは?」
猫は手を動かしながら説明する。
「握り拳を作って『石』、指を二本立てて『鋏』、そして手を開いて『紙』だよ。ジャパン語で石はグー、鋏と紙はチョキとパーって言うんだ。グー対チョキは、鋏で石は切れないからグーの勝ち、チョキ対パーは鋏が紙を切ってチョキの勝ち、パー対グーは紙が石を……、包んじゃって、紙の勝ち」
最後のところで猫は若干言いよどんだ。顎に手を当てて聞いていたルイス・キャロルは、ここで首を傾げて猫に尋ねた。
「紙は石を包んだら勝ち? 勝敗判定がまちまちなような……。紙に包んでも石の威力は変わらないのでは? ぴんと張った紙に石を投げたら破れそうですし……。ゴムマットとかなら分かりますけど」
「っ知らないよっ! ジャパンの奴らの考える事なんてっ! じゃ、いいかなッ? 十回勝負って事でどう?」
猫は早口で言ったが、ルイスは顎に手をやったまま、まだ何か考えていた。苛立った猫が口を開こうとしたその時、ルイスは微笑みながらこう言った。
「ジャンケン……、いいゲームです。……ですが、どうしてもその、不均等な三すくみが気になってしまって。それにせっかくですから……、もっと楽しくしませんか?」
猫や、周りで手の形を作りながら聞いていた者たちが、一斉に怪訝な顔をしてルイスを見た。彼はステッキで橋の方を示すと、次のように言った。
「橋の上に建物が並んでますよね。それをすごろくのマス目に見立てて、ジャンケンで勝つごとに橋を進んで行くんです。ただし、勝った時の『手』によって、進める軒数に差を付ける! グーかチョキなら二軒分、疑惑のパーは一軒分にしましょう! 先に橋を渡り切った方の勝ちです!」
猫は歪んだ笑みを浮かべると、声高に言った。
「ニャハッ! 面白いね! ただ、それだと時間がかかり過ぎる。そうだな……。ちょっと待ってて!」
猫は目にも留まらぬ速さで橋のアーケードの中に入ると、すぐに引き返して、目をしばたたいているルイスに言った。
「いいアイデアがあるよ! ここには賭場が数軒おきにある。賭場の前に止まったら、おまけに二軒分進む事にしよう! すごろくに見立てるならそういうのがなくっちゃ! それなら決着は早くなるし、スリルは一層増えるでしょッ?」
ルイス・キャロルは表情をやや強張らせて橋の方を見た。その彼を、料理番は悲痛な面持ちで見つめ、他の者は好奇の視線で眺めている。間もなくルイスはチェシャ猫に向き直ると、楽しそうに笑って言った。
「なるほどなるほど! そうしましょう! 一発逆転もあり得る、乾坤一擲のギャンブルです! 勝負を左右するのは運か読み合いか! 歪で不確かな三すくみ! 見通し立たない一本道! ゲームの名前は……、そう! 『賢者・愚者・利口者』なんていかがでしょう!」




