3.人殺しの女王(その2)
一方で、カエルは額から粘液を流しながら歯を食い縛っていたが、突然すがりつくようにしてルイスに言った。
「悪いっ……! なかった事にしてくれっ! おれたち一ポンドなんて金、持ってないんだ! 負けても払えない……! 勘弁してくれッ! おれはやりたくなかったんだっ。けどコイツがネタを仕入れてきてさ。おれは練習までさせられて……」
カエルは横にいる料理番を顎で示した。するとすぐに女が声を上げた。
「ハアッ? すぐ嘘をつく! あんたがもう博打しかないって言うから、あたいが仕方なく、勝てる方法を探したんじゃないか! 賭場が閉まっちゃってからだって、あんたが」
「おれのせいにするんじゃないっ! この売女が! 他に選択肢があったかッ!」
「ピギャーッ!」
眉をひそめるルイスをよそに、公爵家の使用人たちは再び激しい罵り合いを始め、豚の赤ん坊は大声で泣きだした。
「やれやれ……。まるでどこぞの夫婦喧嘩ですね……」
ルイスは呟いた後、声を大きくしてカエルたちに言った。
「はいはいお二人さん! 豚の……、もといっ、お子さんの発育に悪いですよ! 勝負は結構ですから、あなたたちも――」
と、その時だった。
「ニャッハハハハハハッ!」
どこからともなく、件の騒動を掻き消すほどの大きな笑い声が聞こえてきたのだ。ルイスたちは言葉も忘れて辺りを見回すが、周囲には自分たちと同じように目を白黒させている通行人が数名いるだけだ。
「ニャハッ! こっちこっち! 上だよッ!」
声が再び聞こえた。ルイスたちが顔を上に向けると、橋の一番手前の建物の屋根に、一匹の大きな猫が脚を組んで座っていた。ツイード生地の丈の短い上着にニッカーボッカーとブーツを履き、頭にはどうやらハンチング帽を被っている。ルイスがそう見て取った次の瞬間、猫は座った状態から前方に跳んだ。
「えっ!」
建物は四階建てだ。ルイスたちは文字通り仰天したが、猫は空中で一回転すると、ルイスの目の前の地面に、ほとんど音も立てずに二本足で着地した。体を起こすと、猫は今のルイス・キャロルよりもかなり背が高く、彼に覆いかぶさるようにして話しかけた。
「ニャハッ! やるじゃないかあんた! さっきの見事なイカサマ封じ! なかなか面白い男だね! それになかなか、いい男だし?」
猫はまん丸い目の瞳孔を開いて、尻尾をぴんと立てている。呆気に取られていたルイス・キャロルは、我に返ると半歩後ろに下がって言った。
「……あなたは、まさか……」
猫は口の両端を目元まで持ち上げるようにしてにんまり笑い、こう言った。
「あたしはチェシャ猫。あんたを待ってたよ、『カジノ潰し』……!」
すぐそばで立ち尽くしていたカエルと料理番は訝しげにルイスとチェシャ猫の顔を見たが、ルイス・キャロルは何食わぬ顔で猫に言った。
「カジノ、潰し……? なんの事です? 私を待ってたって……? 人違いでは?」
しかしチェシャ猫は笑って言う。
「ニャハハ! とぼけたってダ~メ。『旅行鞄を持ったひょろ長い紳士。栗色の髪に眠たげな青い目』。人相書きの通りだもの。おまけに、さっきの勝負の切り返し方! あんたがここ数日ワンダーランドのカジノを打ち負かして回ってる、『カジノ潰し』に間違いない!」
「道理で、この人……!」料理番が声を漏らした。「そんな凄腕相手にさせられたんじゃ、あたいらなんか敵わなくて当然だよ……!」
カエルも悔しそうに呟く。
「畜生……! なんでここに来てこんな……! つくづく運に見放されてる……!」
青い顔をする二名をよそに、ルイス・キャロルは笑って肩をすくめた。
「フッ……。やれやれ……。そこまで伝わっているなら、誤魔化せませんね。確かに私は、ここまで二つの町でカジノを相手取ってきました」
チェシャ猫は満足そうに笑みを浮かべる。周りの通行人たちもざわめき始めていた。ルイスは猫に向かって言葉を続ける。
「それで……、どういう事でしょう? 私を待っていた、とは? ひょっとして、ここのカジノのオーナーはあなたとか……?」
「ニャハッ!」猫は笑った。「え~っと、今はそうかな? 待ってる間退屈だったから、カジノを潰すのってそんなに難しいのかな~って、あたしもやってみたんだ♪」
ルイスはぴくりと片眉を上げた。猫はここで口元に嘲笑を浮かべて、言葉を続けた。
「けどぜーんぜん面白くなかった。楽勝過ぎてね! どこの賭場もてんで相手にならなかった。全く時間の無駄だったよ。今はどうなってるんだっけ? 閉店中?」
猫は橋の方を振り返って眺めた。するとカエルが今一度悔しそうにして言った。
「っこいつが……! っあれはあんたがやったのか! どの賭場も閉まってて……、そのせいでおれたちは誰とも勝負できなくて……、挙句の果てにこの男とやる羽目になって……!」
ルイス・キャロルの表情からも、どこか余裕がなくなっていた。チェシャ猫は彼の方に向き直ると、大きな声でこう言った。
「あんたを待ってた理由は、それとは関係ない。『生け捕りにしろ』っていう命令が出てるのさ! 都のお城の、女王のね!」
「……ッ女王……!」
ルイス・キャロルは呟いてから、一歩後ずさりしようとした。が、次の瞬間、猫はルイスの背後に回り、彼の頬に右手人差し指の鋭い爪をちくりと立てた。
「ひッ……! お前さん……!」
料理番が声を上げたが、彼女も周りの誰も、身動き一つできないでいる。チェシャ猫はルイスに言った。
「ダ~メ。逃げようとしても無駄。この大きさで猫の運動能力に勝てる生き物はいないんだから」
流石のルイス・キャロルの表情にも恐れが見られる。彼は声をやや上ずらせて言った。
「……これは少々、慎重に発言した方が良さそうですね……。チェシャ猫さん……、女王の命令と仰いましたね。まさかハートの女王たちは、生きていたのですか?」
「ニャハッ! まさか!」チェシャ猫は嘲笑って言う。「ハートの女王なわけないでしょ? 王様諸共首を刎ねられたんだから。分かるでしょ? 『スペードの女王様』だよ」
「なるほど……。それにしても、あなたのような方が他人の命令を聞くなんて、なんとも意外な気が致しますが……」
「……。ニャハッ……! 命令って言ったのは言葉の綾。あたしはただ、彼女があんたにご執心みたいだったから、ちょっと気を回してやろうかと思っただけだよ。このあたしを支配できるなんて思ってもらっちゃ困るけど、あの人はやる事成す事退屈しないからね」
「どんなお人なんです? 私を召し出して何をするつもりなんでしょう?」
猫は答えず、むっつりと黙った。ルイスが横目で彼女を見ようとしたところ、突然猫は大声で笑いだした。
「ニャハハハハ!」
猫はルイスを突き飛ばすようにして半回転させ、正面を向かせた。彼女はルイスを指差して言う。
「面白い! あんたあたしから、あの人の情報を聞き出そうとしてるね! 確かに、あの人の事をちゃんと知ってる奴はそうはいない。ニャハッ! カジノ潰し! 面白いよ! あんたこそ何者ッ? 聞きたいな! イカレてるのだけは間違いないけどね!」
ルイスはちょっと息をついてから、少し切なげに猫に言った。
「……私がイカレてるって、どうして分かるのです?」
すると猫は笑って言った。
「ニャハッ! 簡単♪ ここじゃああたしたち、みんなイカレてるからさ! あたしもイカレてる。あんたもイカレてる。間違いない……! だってそうでなきゃ――、こんな所で、生きちゃいられない!」
ルイス・キャロルは顔を隠すように帽子に手を当てた。やがて彼は手を下ろすと、不敵な笑みを猫に向けて言った。
「なるほどなるほど……! お互いイカレている事だけが分かっている……。相手の事が知りたくてたまらないものの、自分の心の内は知られたくない。なら……」
ここでルイスは声高に言った。
「ゲームをしましょう! 負けた方は勝った方の言う事をなんでも聞くって事でどうです? チェシャ猫さん! 私が勝ったら、私の協力者になってもらいますよ!」




