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3.人殺しの女王(その1)

 鉛色に濁り切った水が、淀みがちにゆっくりと流れていく。北風が川面を下流から上流へと逆撫でする度に、鼻を突く悪臭が辺り一面に撒き散らされた。

 涙の湖の町を後にしたルイス・キャロルは、ドードー鳥の勧めに従って、独り川沿いの土手道を歩いていた。この川は涙の湖の東端から流れ出る川で、蛇行を繰り返しつつ都まで通じており、これに沿って行けば迷う事はないとの事であった。

 土手道には特に危険や障害はなく、ルイス・キャロルの歩みは捗ったものの、心和ませるような景観もまた皆無であり、川の水は進むにつれて濁る一方であった。吹き荒ぶ風が浴びせ掛ける腐臭に、今もまたルイスは、その顔をしかめていた。

「ううッ……。全く、やれやれですね……」

 彼は思わず声を漏らした。

「七年前でしたっけ……? テムズ川の『大悪臭事件』を思い出してしまいます……。これが綺麗な川だったなら、アリスやロリーナ、イーディスとした、あの夢見るボート乗りの思い出に、時間を忘れて浸っていたいところですが……!」

 ルイスはそう独り言を言って、対岸を睨んだ。川辺に建ち並ぶ集合住宅や工場は、川を下るにつれてどんどん数を増してきている。そこから垂れ流されるがままの様々な排水が、この汚染の原因に違いなかった。

 それらの建物は、ルイスが歩いてきた右岸よりも反対の左岸の方が、今や明らかに多くなっていた。ドードーによると都の中心部があるのは川の左岸側、現在地から見ると北東の方角であり、ルイスはいずれは橋か舟を見つけて、対岸に渡らなければならないのであった。

「おやっ?」

 蛇行した川の向こうにまた歪な形の集合住宅が見えたところで、ルイスは声を上げた。

「フフッ……! これはまた、ヘンテコな! カメラを持ってこなかったのが悔やまれます……!」

 見えてきたのは、川に掛かる石造りの橋であった。しかしただの橋ではなく、その上にレンガや木でできた建物が、何の秩序も美意識もなく、でこぼこと二十軒ほども乗っているのだ。建物の多くは四階前後もあり、橋の幅を超えて外側に飛び出しているものも多かった。

「まるで小枝の上にイモムシが這っているようですねぇ。店や何かもあるのでしょうか。そろそろアフタヌーンティーの時間ですからね!」

 ルイス・キャロルはそう言いながら、奇妙な橋を目指して歩調を速めたのだった。


 ♠ ♥ ♣ ♦


「これはなかなか……。近くで見ると壮観ですねえ……!」

 ルイス・キャロルは橋の(たもと)近くまでやってきて、声を漏らした。川幅と橋の長さは実際には七十フィートほどであったが、ルイスの今の身長は(道中またいつの間にか倍ほどに伸びたものの)一フィート強といったところで、彼の目から見るとロンドン橋の半分くらいはありそうな立派な橋に見えたのだ。その上に、まるで砦のように建物がそびえ立っている。橋の通路は建物がアーケード状にせり上がっている事で確保されていて、獣や小人がしばしば出入りしていた。

 ルイスが期待した通り、建物外壁には数々の看板が掛かっていて、屋内で商売が営まれている事が分かった。しかし、中にはカジノと銘打った看板もあり、ここでもまた賭場が開かれている事がうかがえた。

「ふぅ……。やれやれ、こんな所でもですか。……ん?」

 ルイス・キャロルはぼやいてから、入り口のアーチの上に掲げられている、いくつかのオブジェのような物に気が付いて目を凝らした。

「……ウッ! こッ、こんなッ……!」

 ルイス・キャロルの背筋が凍った。オブジェのように見えたのは、棒に刺さった、獣や小人たちの頭部、即ち、晒し首であった。

 ルイスはすぐに視線を逸らした。が、やがて彼は込み上げる吐き気を必死でこらえると、目に涙を浮かべながら再び顔を上げて、無残な姿となったこの国(ワンダーランド)の住人たちを見つめた。その時だった。

「全くどうしてこんなにツイてないんだいッ! あんたのせいで何もかも上手くいかない!」

「仕方ないだろ! おれのせいじゃない! おれの身にもなってみろよ! せっかく……」

「ちょっと待ってあんたッ。見なよ……!」

 橋のアーケードの中から、エプロン姿の女の小人と、青いコートに半ズボン姿の雄のカエルが、喚きながら出てきたのだ。ルイス・キャロルが視線を彼らに向けるより先に、二名は彼の方に近寄ってきた。

「……お二人は……、ひょっとして、公爵夫人の……」

 ルイスが呟くように言った。すると女の方が、棘のある声で彼に答えた。彼女の身なりは汚れていて、腕には豚の赤ん坊を抱え、背中には大きな袋を負っていた。

「おやおや! あたいらみたいな身分の者の事を知っててくださる方がいるなんてね! お前さん見たとこ、よそから来たんだろ? 旅の紳士ってやつだね。それによく見るとなかなか色男じゃないか!」

「身分はなくなったろ? あと色目遣いはやめろ」

 カエルが横から言った。女はカエルを睨みつける。

「なんであんたはすぐ口を挟むんだいッ! そのデカい口、少しは閉じたらどうなのさ!」それから彼女はルイスに向き直って言う。「仰る通り、あたいは公爵家のしがない料理番で、こいつはこれでも召使いだったさ。けど、『だった』ってだけの話さね。革命で王家はみーんな首を刎ねられて、遠縁の公爵家も夫婦揃ってギロチンの露と消えちまった。ほら、あそこ。真ん中に掛かってるのが公爵様で、その右におわすのが奥方様さ」

 女は晒し首の方を顎でしゃくって示した。すかさずカエルが横から言う。

「右側は奥様じゃない! あれはチワワだ! 奥様はご主人の左!」

「っうるさい! 今更どうだっていいんだよッ!」

「お前って奴は、なんでそうッ!」

「ピギィーッ!」

 彼らは互いに罵詈雑言を浴びせ始め、赤ん坊もけたたましく泣き始めた。ルイス・キャロルは顔を引きつらせて苦笑いをしていたが、やがてカエルたちは不意に何かを思い出したようになって、罵り合いをやめてルイスに向き直った。料理番がねっとりとした声でルイスに言う。

「あたいら、今お金に困っててねえ。革命が起こってからというもの、不幸続きでさ。自分の子でもない赤ん坊の世話もしなきゃいけないしさ。見捨てるわけにはいかないもんねえ……。いやさね、恵んでもらおうなんて思っちゃいないよ。ただコイツと、一勝負してくれりゃいいんだ」

 女はカエルを顎で示した。カエルは両手で服をあちこち探っていたが、間もなく薄汚れたチョッキのポケットから一枚のコインを取り出すと、ルイスの方に突き出してこう言った。

「色男さん……、勝負だ……! 今からおれがこのコインを投げて、右手か左手、どっちかで取る。あんたはコインがどっちの手に入ったのか当てるんだ。当たればあんたの勝ち、外れればおれたちの勝ちだ……!」

 カエルも女も、引きつった笑みを浮かべてルイスの顔を見ていた。ルイス・キャロルはやや面食らっている。女は彼に言った。

「それでね、お前さん。恵んでもらうんじゃないんだ。あたいらの覚悟と勇気に免じて……、ここは一つ、賭け金は一ポンドってとこでどうだろうね?」

 これを聞いてルイス・キャロルは深い溜め息を一つつくと、顔を上げてから低い声で言った。

「一ポンド……。二十シリング、二百四十ペンス……。今までのあなた方なら、一週間分の給料ってとこでしょうか。それを、出会ったばかりの旅人にねえ……」

 カエルは苦い顔をしながら言う。

「っなんだよ色男……! 別に強制はしてないぞッ。自由だッ。やるも逃げるも、あんたの自由だ!」

 するとルイスは笑みを浮かべて、声を大きくして言った。

「フッ。誤解しないでください? やりますよ……! ゲームをしましょう! 右か左か、一ポンド賭けて勝負です!」

 カエルと料理番はにやりと笑った。

「よし……! じゃあ行くぞ……?」

 カエルは言いながら右手にコインを構えた。ルイスも彼に体の正面を向けて、その右手に注目する。女も傍らで見守っている。

 ピーンッ!

 カエルがコインを指で弾いた。コインは回転しながら真上に高く上がる。カエルは心の中で言った。

 ……もらった……! 勝ったぞ。一ポンドいただきだ……! イカサマ万歳! コインは上手く上がった。後はこれをそれっぽく右手でキャッチすればいい。この男が右手を選んだら、右手をゆっくりと開きながら、見えないように袖口にこのコインを落として、空っぽになった掌を見せる。今既に左手に握ってる、このそっくり同じコインも忘れずに見せつける。……この男が左手を選んだなら、左のコインを袖に落とし、右手でキャッチしたこれをそのまま見せつける……! 要するに相手がどっちを選ぼうとも、必ず外れてこっちの勝ちになるって事だ! ……今まで散々割を食ってきたが、ようやくおれの番が来たんだ……! ざまあみろッ!

 パシンッ!

 コインが顎の辺りまで降りてきたところで、カエルは両手を打ち付けるようにして素早く動かし、コインを掴んだ。

「どっちだッ?」

 カエルがルイスに向かって叫んだ。料理番の女は赤ん坊を揺すりながら、ルイスを見つめて不敵な笑みを浮かべている。カエルも同様に笑っている。そして間もなく、どういうわけかルイス・キャロルもまた、同じように不敵な笑みを浮かべたのである。彼は鼻からちょっと息をつくと、何気なく言った。

「……私、国で最近作家デビューしまして……」

「っなんだいお前さん、藪から棒に……」女が戸惑いながら言った。「右手か左手か言うだけなんだよ?」

 カエルも両手を持ち上げたまま面食らっている。ルイスは続いて、こう言った。

「……書きます。コインが右手にあるか、左手にあるか……、作家らしく、紙に書きましょう……! 一旦それを畳んでから、あなたが両手を開いて見せ、それから私の予想を開いて、勝敗を判定するんです。フフッ。その方がドラマチックでしょう?」

「「なななっ……!」」

 カエルと女が同時に声を上げた。ルイスはフロックコートの懐を探り始めている。女は戦慄を覚えていた。

 ……この男ッ……! カエル(コイツ)がイカサマするって気付いたんだ……! 紙に書くんじゃっ、右か左か選ばせた上での対応ができないじゃないのよさっ……! むしろカエル(コイツ)が、この男の書いた内容を予想して当てなくちゃ、いや、外させなくちゃいけない……! 変わったんだ……! 攻守の順番が……! 変えたんだッ、この色男はッ……! この一瞬で、ゲームのルールをッ! こんなに鮮やかに! なんて……、なんてスマートな人なのッ!

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