2.これが私たちの世界ですか?(後編その8)
「……負けた……」「負けたぜ……」「完敗よ……」
三名のカジノオーナーたちは小さく声を漏らすと、糸が切れたかのようにがっくりと崩れ落ちた。うなだれたまま、声を震わせてイモムシが呟く。
「……このボクが、こうも手玉に取られるなんて……。相手が、悪かった……。反故にする気力も起きない……」
ギャラリーたちは一般の客はおろか、カジノ関係者の極道たちでさえ、勝者のルイス・キャロルを声高に讃えていた。インコは涙を流しながら言う。
「……これで、カジノはこの男の物……。このあたしの店が……! こんな勝負、するんじゃなかった……!」
ネズミはぐらぐらと体を揺らしながら、虚ろな目をして言った。
「カジノ三軒、この兄ちゃんは全部潰すんだろ……? 馬鹿馬鹿しくて、やってられねえ……」
周囲の歓声を一身に浴びていたルイス・キャロルは、茫然自失のオーナーたちを見ると、鼻から息をついてちょっと笑った。その直後、傍らで彼を見守っていたドードーが、回り込むようにしてルイスに言った。
「す、凄すぎますよッ、お、お客さんッ……! ままさか本当に、やってしまうなんて! や、やくざ者たちを、一網打尽にッ……! あんな、つ、綱渡りをッ、成功させてしまうなんて! さっ、最初から最後まで、こうなるって自信があったのですか? そ、それともあなたは、きょ、恐怖の感情がないのですか?」
するとルイス・キャロルは、帽子を取ってそれで顔を扇ぐようにしながら、笑って答えた。
「フゥッ……、フフフ……。恐怖なんてありません。……なんて言ったら、嘘になりますね。紛れはあります。百パーセント上手くいく自信なんてありません。そんなものですよ。自分はなんだってできると思い込んでいる方が、いろいろ危ういわけでして」
彼は支配者だった者たちの方をちらりと見てから、帽子を被り直して、ドードーに向かって言った。
「ただ私は、昔受けた忠告を、実践しただけです。アリスのアドバイスをね。即ち……、ちょっとだけ頑張って、なりきったんです。魔法使いの役に、ね!」
ドードー鳥は、口元をほころばせた。ギャラリーたちの騒ぎも少し落ち着いて、彼らにもルイスの声が聞こえていた。ルイス・キャロルは、ここで思い出したように付け加えた。
「あ、それと、『ゲームに勝つ秘訣』という事でしたら、もう一つとっておきの鉄則がありますよ! それは『遅筆の作家』になる事です。要するに――」
ドードーと、食いつくように耳を傾けたギャラリーたちが、首をひねった。ルイス・キャロルは、笑って言う。
「『よく、かかない』ってね!」
カジノのホールに、笑い声と感嘆がこだました。その時。
「ワオーーンッ! ワオーーンッ!」
例の巨大な子犬が、高い声で遠吠えのように叫んだ。一同は身をすくませるが、ルイス・キャロルは笑って声を掛けた。
「フフッ! ワンちゃんも、楽しんでくれましたか?」
子犬は笑顔で彼に答える。
「ワンッ! たのしかった! たのしそうだったし、たのしかった! ボクもやってみたい!」
微笑をこぼすルイスの傍らで、椅子にうずもれていたイモムシが、ぽつりと呟いた。
「フンッ……。楽しかった……、楽しそうだった、か……。フッ……」
彼は鼻から息を吐くようにして、苦笑いを浮かべた。すると隣で天井を仰いでいたネズミも、同じように苦笑いをした。
「へッ……。そうだな……、楽しかった……。数十秒で一ゲーム終わる、店のギャンブルより、よっぽど……」
インコも羽で涙を拭うと、息を吸いながら笑って、こう言った。
「フフッ……! そうね、確かに……。負けたけど、楽しい時間だったわ。なんだか昔を思い出しちゃった……!」
ギャラリーたちの間にも、どこかちくりとした痛みを伴うような微笑が、広がっていったようだった。
「ワンッ! ごしゅじんさま! ボクもやってみたい!」
子犬が大きな声で、イモムシに言った。イモムシは子犬の方を振り返って、苦い顔で言う。
「はいはい、ボクちゃん。分かった、分かったよ。また今度――」
「ではでは! 今度はババのポイントありで、最後までやってみましょう!」
ルイス・キャロルが出し抜けに言った。周囲の戸惑いとざわめきはお構いなしで、彼はトランプを搔き集めながらまくし立てる。
「憶えてますか? 誰もペアを作れなくなったら終了ですよ? Jはマイナス一点、Qはマイナス二点、Kはマイナス三点で計算して、上がったプレイヤーに続いてマイナスが少ない方が上位です! きっと興味深いゲームになりますよ! ワンちゃん、こちらにどうぞ! ドードーさんもやりますか? ほらほらこの席にどうぞ!」
「えっ、ぼぼぼ僕ですかっ?」
「おい、マジでやるのかっ?」
「フ~……! まったくイカレてるよ!」
「ホホッ! いいわ! 次はこのあたしが勝つ!」
「ワンッ!」
こうして、半ば強制的に、彼らはババ抜きを何ゲームもやる事になった。ルイス・キャロルは彼らの補助と審判を務めるに留め、テーブルの傍らに立って皆の様子を眺めていた。彼の表情はまるで、休日の昼下がりに子供たちの遊びを見守る、若い父親のようであった。
けれども、彼は一つだけ、気付いていなかった。ゲームを観戦したり、雑談したりしているギャラリーたちの間を掻き分けて、一羽のワシの子が、妙に慌てて外に出ていった事を。
♠ ♥ ♣ ♦
昼間の喧騒がようやく終わり、ルイス・キャロルはドードーと共に、再び例の小さな食堂に戻って、夕食を摂っていた。希望を取り戻した主人の大盤振る舞いで、テーブルには数々の料理が並んでいる。メインディッシュはルイスの希望で、昨夜と同じ、フィッシュ・アンド・チップスだ。
「こ、これで、この町も、や、やり直す事ができます……。お客さんには本当に、か、感謝してもしきれません。あっ、ど、どうぞ……! め、メインディッシュです……!」
タラとジャガイモのフライを盛った大皿を配膳しながら、ドードーが言った。ルイスはナイフとフォークを取りつつ言う。
「あの三人の責任は重いですし、これからはこれからで、また大変でしょうけど……。ま、なんとかなりますよ、今の皆さんなら!」
ドードーは声を落として、ルイスに尋ねた。
「……お、お客さんは、また別の町に行って……、また同じように、い、命を賭けて、カジノを相手取るつもり、ですか……?」
ルイス・キャロルはフライを頬張りながら軽くうなづいて、それから大袈裟に言った。
「ハフッ……! うん、やっぱり美味しいです。魚のフライとイモのフライ、それぞれはもちろん昔からありましたが、組み合わせるという発想がありませんでしたねえ!」
ドードーは切なそうに笑った。それからルイスは、声を落として独り言のように呟いた。
「……やはりワンダーランド。私が知らないものが生まれるとは……。いや、それともホワイトチャペル辺りでは既にあったのか……」
ドードーは疑問の表情でルイスを見る。
「あっ、いえいえ、こちらの話ですっ。この料理はこれから流行りますよ!」
取り繕うルイスだったが、ドードーははにかみながら、次のように言った。
「きょ、恐縮ですが、その料理は、僕の、オ、オリジナルというわけでは、ないのですよ。都で既に流行っているという話を、み耳にして……」
「都で……」
ルイス・キャロルの手が止まった。ドードーは苦笑いをしつつ、何気なく話し続ける。
「ど、どんな事でも、始まりは都からですからね。……か、革命の気運も、カジノの建設も、その流行も……。噂ではその料理も、ス、スペードの女王が流行らせた、なんて言われてますから」
「スッ、スペードの女王ッ……?」
ルイス・キャロルが、どもり気味に言った。ドードーはやや怪訝な顔をして答える。
「え、ええ……。お客さん、ひょっとして、ご、ご存じなかったのですか……? 先の革命の、し思想的指導者……、要するに、せ、煽動者だと思われますが……、今も新政府の中枢にいる、じょ、女性の小人です。僕は、詳しくは知りませんが……、け、結局権力を我が物のようにして、尚且つ、博打を奨励しているので、『スペードの女王』なんて、や、揶揄されているのです」
ルイス・キャロルは虚空を見つめていた。
「お、お客さん……?」
ドードーが心配して声を掛けた。ルイスは我に返ると、笑ってドードーに言った。
「失礼……! なるほどなるほど。全ての道は、ローマから出ているというわけですか! ローマは一日にして成らずとも言いますね。革命を煽った、火付け役がいると! どこへ行かれるのですか? フフッ! ならば私は、王都に向かうとしましょう! ギロチンも磔も、私はごめんですけどね!」
ルイス・キャロルは言い終わると、再びフィッシュ・アンド・チップスを頬張り始めた。ドードー鳥は混乱を覚えながらも、紳士の心に、一層の決心が宿った事は、分かる気がしていた。
心を病んだ、アリスを救う。この青年はそのために、命を賭けると言っていた。鍵がこの世界にあるからだと。ドードーにはその意味の全てが分かったわけではなかったが、青年の崇高な覚悟を思うと、涙がこぼれ落ちそうになった。涙の池は、もう大きくならないはずなのに。
「食後の紅茶は、うんと濃く淹れてください!」ルイス・キャロルが言った。「どうせ今夜は、しばらく眠れそうにありませんから!」
「あっ、はいっ……! お望みの通りに……!」
ドードー鳥はそう言うと、少し上を向きながら、キッチンの中に入っていった。




