かのかのじょとわたしのはなし
初投稿です。よろしくお願いします。
『お願いよ、少しで良いの。少しだけで満足出来るから』
唐突に、鈴を転がすような可憐な声がした。
カーテン越しに射し込む薄明かりの中、ベランダには私以外の気配はなく、とうとう私は霊感に目覚めてしまったのだろうか、いや幻聴? などと瞬時に頭を働かせる。
その途端に聞こえてきたのは、耳慣れた、ぷうん、という音だった。
かのかのじょとわたしのはなし
「…は?」
ぴしゃり、と反射的に自分の腕を打つ。
取り逃がしたそれはふわりと飛んで、嫌な羽音を立てながら私の隙を狙っている。
『ねえ、お願い。このままでは私、彼の子を産めないわ…』
ベランダの手すり、私が手を置いたそのすぐ横に憎らしい夏の敵がぴたりと止まった。
思わず灰皿を手繰り寄せ、部屋に戻る準備をする。
…え? 何、蚊が喋ってる?
「…、は?」
『どうしても、産みたいの。彼は死んでしまったし、私に残されたのはお腹の子供達だけなの。お願い…少しで良いの』
悲しげに呟く声は、何だろう、目を閉じれば美少女を連想するような声だ。儚げに微笑む、草原、青い空、麦わら帽子、白いワンピース。目に鮮やかなそんなコントラストが浮かぶ。しかし目を開けば灰の散った薄汚れた手すりに止まり、宵闇の中でこちらを窺う一匹の飢えた虫けら。何これ。
「…話してるの、あんただよね? 蚊」
『━━! 聞こえるのね! お願い、お願いよ。少しで良いの。具体的に言えば数ミリグラムよ』
「はああ?」
『もう、あなたしかいないのよ。お願い。私、彼との思い出をなかった事にしたくないの…。大丈夫、刺すときは痛くないわ。人を刺すのは初めてだけど』
「いや初めてじゃ痛いも痛くないも分かんないでしょ」
思わず突っ込んでしまう。新米看護師が自信満々に注射器を構える姿を想像してしまう。誰しも初めてはあるけれど、いやでも注射は自分の為だけど蚊は。蚊は少し違うだろう。
彼女は何なのだ。突然変異? どうやって話しているのだろう。
『痛くないわ。知ってる? 私たちの唾液は特殊なの。痛くないのよ』
「知ってるよそれが痒みの元でしょ」
見ているだけで痒くなってきた。
潰してしまうか? ━━そう考えて、いや、せっかくだから。彼女の話を少し聞いてみる事にした。
彼女は血に飢えているが多分私は会話に飢えていて、この出会いを何となく、大事にしてみたくなったのだ。このところの異常気象で、頭がどこかやられているのかもしれない。
「…ねえ、あなたの話、聞かせてよ。面白かったら考えてあげる」
彼女の目が輝くのが分かった。いや、正直よく分からない。というかどこに目があるのか分からないな。盛るのは良くない。
『私は、小さな池で産まれたの。父や母の顔は知らないわ、そういうものだから。でも寂しくはなかったわ。兄弟や姉妹、幼なじみが沢山居たから』
彼女に断って一旦部屋に戻り、持ってきたウイスキーを傾ける。常温のそれはひどく温くて、この夏の熱帯夜には合わなかったが今部屋にあるのはこれしかなかった。氷が欲しかったが贅沢は言えない。
『天敵が居て、食べられたり、食べられなくても潰れてしまったりして、きょうだいや仲間はどんどん減ったわ。大人になれたのは数える程。それが悲しいのか普通なのか分からなかったけれど、とにかく私は産まれた場所を飛び立ったわ』
「ふうん」
『それからしばらくは、色んな物を吸ったの。花の蜜は甘くて好きで、いつも探してたわ。そんな時、彼と会ったの』
「ああ、お腹の子の?」
『ええ。優しくて、とても素敵な彼だった』
うっとりと思い出を語る彼女はまるで十代の乙女だ。
『彼は私より少し後に産まれたみたいで、ちょっぴり幼かった。でもとてもきらきらしていて、私、そう━━一目で彼を好きになったの』
「まあ、短い一生だしね。速攻だよね」
『彼は控えめだったわ。私、焦ってしまって。…チャンスを逃したくなかったの、誰でも良い訳じゃなかったのよ。私たちはパートナーを選んだら、その相手だけなの。他の誰でもなく、彼が良かった。心の底からそう思ったのよ』
「それで?」
『彼はまだ他の相手と出会っていなくて、故郷から出て来て初めて会ったのが私だったんですって。ずっと一緒に居ようねって約束した女の子は、子供の頃にどこかへ行ってしまったんですって。そんな話をぽつりぽつりと話した彼は寂しげで、私、慰めたくって』
手元のグラスの中身が、私の身動ぎに合わせて揺れる。
遮光でもない安物のカーテンは、本当に少しだけの明かりをこちらに寄越すのみで、これが何色の液体をしているのかまでは確認出来ない。
とりとめもない事を考えながら、最後の一箱になった煙草を覗く。残りは半分ほど。これはいつまでもつだろうか。自分のペースを考える。
『私の話もしたわ。仲間で賑やかだった池や、他の生き物。私の故郷は広かったから、カエルも沢山居たの。あれは本当に恐ろしいよねって盛り上がって』
「盛り上がるんだ」
『そうして意気投合して、とうとうその瞬間を迎えたわ。私の一生で最高の時間。…その時は、私、知らなかったのよ。だって彼、私より幼いのよ。普通、そうでしょう? どうして彼は…』
言葉を失い、俯く━━多分━━俯いた、彼女。
そういう種族はいる。蚊について詳しくはないが、多分、蚊もそうだったのだろう。
…オスは小さくて弱くて、寿命がメスより、短い。そういう種族。交尾の後に死ぬ事もメスに食われる事もある。だって、オスの本懐━━生きている意味こそがそれなのだ。種を残すために生まれて、達成すれば満足して死ぬ。
人間から見ればあまりに短く儚い命、それを彼女らは知らなかったのだろう。
『…私より、幼い彼は、そのあと動かなくなったわ。私、卵を産むまで一生に居られるって思ってたの。子供だったのね。彼にすがり付く私に、知らないお姉さんが話し掛けてきたわ。オスはそういうもんさ、あんたも早くどこかに行きな、あたしも次の卵を産みに移動するから、って』
細く小さな腕で腹を擦る。そこに彼と彼女の卵があるのだろうか。
『でも、どこに獲物が居るのか、私には分からなくて。彼と離れるのが辛くて、そうしている間に親切なお姉さんはどこかに行ってしまったの。改めて辺りを見ても、仲間の姿が見えなかったの』
越冬して何年も生きるものなら、自身の経験から「こうしたらこうすべき」というものがあるのだろう。
蚊にも越冬するものがいるのかどうか分からないが、これまでの話から彼女はそうではないようだし、そういえば、教える親のいない虫たちはどうやって自身の食糧であるとか寝る場所であるとかを知っているのだろう。
以前読んだ漫画を思い出す。本能が命令する。そういう物なのだろうか。
『血を吸えば良い、そうしないと栄養が足りない、お腹の子の為にも吸わなければ、それは分かっているのだけど、その相手が見付からないの。やっと見付けたのが、あなただったのよ』
残り半分になった箱、そこから一本抜き出して咥えて火を付ける。
ライターの明かりでベランダがぼんやりと光り、私の巨大な影を窓に写した。
「それで、私に血をくれと?」
『ええ。絶対に失敗したくない。勝手に吸うのが一番だと頭で分かってはいるんだけど、勝手に吸って、気付かれて殺される位なら、了解を得てからにした方が良いんじゃないかって思ったの』
「でもなあ…」
『…お腹いっぱいにならないと、産めないわ。少しずつ吸って沢山刺すより、一ヶ所で終わらせてしまいたいの』
片眉を上げる。以前友人に「器用だね」と笑われた仕草。
一晩で五ヶ所刺された時はてっきり部屋に五匹居るのかとスプレーを振りまくったものだったが、あれはもしかして一匹に五ヶ所刺されたという事だったのだろうか。危険を感じれば中断して次、なるほど。
肺に溜めた煙を何となく、彼女にかからない様に吐き出す。こんなちっぽけな虫だ、煙草の煙一つで弱ってしまうのかもしれない。
「…痛くしない?」
『!! ええ、勿論!』
「……痒くしない?」
『出来る範囲で頑張るわ!!』
外を見下ろす。二階のベランダは大して高くもないし夜景などないようなものだ。人気のないアパート前の道路を眺めながら、私は覚悟を決めて再度白い煙を吐き出した。
「…まあ、一ヶ所で済ませてくれるなら、良いよ」
『ああ…! ありがとう! 本当にありがとう…!』
「ここね」
差し出した左腕に彼女が移動する。
全く重みを感じないそれに、注射とは違うから痛みはないはずなのに、今から刺されるのだと思えば見るのも嫌で彼女から目を逸らした。
「終わった?」
『…』
「まだ?」
血液をほんの数ミリグラム。吸われても全く問題はないが、どのくらい時間がかかるのだろう。気分だけが悪いので早く済ませて欲しいと願う。
『━━ああ、本当にありがとう。助かったわ…!』
やっと終わったのかその声に顔を戻すと、ほっそりとしていた彼女は明らかにぷっくりとしていて思わず笑ってしまった。
「たっぷり吸った? 産めそう?」
『ええ、充分だわ。私は一回しか産めないと思うから、あなたからもう血を貰う事はないと思う。私と子供達の命の恩人ね。ありがとう…』
「その恩人からお願いがあるんだけど、他の仲間には来ないよう言って貰える? あんまり血吸われたくもないし」
『そう…そうよね。仲間に会ったら、こっちには来ちゃ駄目って言っておくわ』
「ありがと。じゃあ、元気な子を産んでね」
ありがとう、ありがとうとお礼をやめない彼女に、良いから産卵場所を探しなさいと苦笑を返す。ぼうっとしている間に栄養が足りなくなってまた来られたらたまったものではない。
彼女を見送ってから、フィルターのギリギリまで吸った煙草を灰皿に押し付けて、中身が残り僅かとなったグラスを回収して部屋に戻る。
気合いを入れて彼女がたっぷり吸った箇所は腫れ上がり、意識した途端どんどん掻きたくなってくる。
「痒くしないって言ったじゃん…」
我慢出来ずにぼりぼりと爪を立てる。
唯一の照明のろうそくに近付けて見ると、しっかり赤くなっていた。
「…虫刺されの薬なんてあったかなあ」
口に出してはみたものの、恐らくないだろう。爪でバツを付けてみたが治まらない痒み。薬じゃなくとも冷やしたい。しかし冷やすものなどないのは分かっていた。
今日のように月の出ていない夜は、明かりが全くと言って良いほどない。日課となった手巻きラジオのハンドルをぐるぐると回しながら、彼女の言葉を思い出す。
━━お腹の子の為にも吸わなければ、それは分かっているのだけど、その相手が見付からないの。やっと見付けたのが、あなただったのよ━━
「…やっぱり、居ないのかな、誰も」
アンテナを立て、周波数を変え、あれこれ試してみる。
聞こえてくるのは砂嵐ばかりで、このところずっと、耳にするのは自分の声と、自分の立てる音と、この砂嵐ばかりだった。
人間どころか、猫や犬や鳥、虫に到るまで、見掛けなくなったのはいつからだったのだろう。
最初はカレンダーに丸だのバツだのを付けて今日が何日なのか数えていたけれど、馬鹿らしくなってやめた。日にちが分かったところで私一人しかいない世界に何の意味があるというのだろうか。
スマホの充電はとっくに切れて、電波がないために写真や動画を眺めるだけだったそれを泣きながらゴミ箱に放り込んだ。送信失敗した履歴が積もった画面は、思い出すだけで気分が悪くなる。
たった一人で、絶望して、しかし誰か居るかもと思えば全てを諦める事も出来なかった。
あちこち探した。こういう時の定番のスーパーやショッピングセンターやコンビニは、荒らされた気配もなく、ただ電気が切れて暗い、閉店後のような静けさで。この暑さでなま物はどんどん腐り、私は異臭を放つ店内から保存の利きそうなものだけを選び、ただ部屋に閉じ籠っていた。
煙草はこうなってから覚えた。食べ放題で飲み放題で吸い放題。昼も夜もやることもなく、ただ暇をもて余す。
もしかしたらどこかで私と同じように孤独と闘っている人や動物が居るかもしれない。けれど、探して、そして見付けられないのが嫌だった。それこそ絶望だ。世界に、たった一人。それを実感することだけはしたくなかった。
だから、蚊の彼女の声が聞こえた時、幻聴かと思った。久しぶりに聞いた他者の声。
今となっては蚊の寿命について調べる事も出来ない━━いや、図書館に行けば調べられそうだが、そこまでの気力もない━━が、果たして彼女は私と同時期に同じ状況になったのだろうか?
途中まで印を付けたカレンダーに目をやる。六月は丸々バツが付き、捨てた。七月になったら悲しくなって、あっさりとペンを放り投げた。
あれからどれだけ経った? もしかしたらもう七月も終わりのような気がする。大体二ヶ月。幼虫から過ごしたとしても、蚊とはそんなに生きるのだろうか。
彼女はカエルの話や仲間の話もしていた。しかし私はこうなってから、一度もカエルの声を聞いていないし、他の蚊にも刺されていない。
━━後から来たの? 「ここ」に?
「ここ」が何なのか分からない。私一人の孤独な世界。どこで元の世界と交わった? 彼女の話した「お姉さん」は吸血しているようだったから、そこまでは元の世界で、そこから彼女だけが「ここ」に来たのか?
大好きな「彼」の話を楽しそうに語り、愛しげに腹を撫でる彼女を思い出す。生まれて、育って、大人になって、子を成して、次世代にバトンを繋いで消えていく命。
「…私よりよっぽど充実してるね」
以前はきれいにしていた爪は切りっぱなしの素っぴん状態で、シャワーも当然出ないから気が向いた時にペットボトルの水で体を洗ったりしている、薄汚れた私。髪もぼさぼさで伸ばしっぱなしだ。暑いからかろうじて結んではいるけれど、見たくなくて鏡も仕舞いっぱなしにしている。
震えた手で自分の腹を擦る。いささか飲み過ぎたのか吐き気が込み上げてきて、トイレに向かった。
蹲ってげえげえとやってみるけれど何も出てこない。汗だけがぽたりと落ちていった。
━━生理、いつから、来てないっけ?
カレンダー。六月は全部バツ。七月ももう終わり。
最後に来たのは、こうなる前?
私は彼女の子供達に少し、同情していた。
彼女はきっと知らない。「ここ」に私たちしか居ないことを。
だから、卵を産んだって、子供達が孵ったって、恐らく子供達は生き延びられない。彼女は知らないだろうけれど、彼女と私の自己満足の為だけに産まれる命。
しかし、ああ、これは何だ。
反射で涙の膜が張った視界に、さっき置いた煙草の箱が見えた。見慣れた箱。「ここ」に来る前、「あいつ」が吸っていたもの。
寂しくて人恋しさに手に取ったそれを見て、ジリジリと頭が痛む。
━━ごめん、俺、他に好きな人が出来てしまった。
私の体をひらいたその手はもう私に触れる事なく、ただきつく男の膝の上で握られている。
━━きみは悪くない。ただ、彼女は、俺が居ないと駄目なんだ。
馬鹿馬鹿しくなって笑った。
自立した大人になりたいと一緒に地元を飛び出して、芋くさかった私達は学生のうちに段々すれて、少しずつ大人になった。
勤め始めて二年、そろそろ引っ越したいね、一緒に住みたいね。そんな話をしにきたはずだったのに。
武装じみたヒールの高さや髪型も、男が「かっこいい、似合うよ」って笑ってくれるから。それが、こんな、自分一人で何も出来ない学生さんに浚われる結果になるなんて思ってもみなかった。
━━私は一人でも平気ってこと?
━━そうだろう? 連絡しても返事もない。会わなくても平気。違うの?
責められるように言われて思い返す。このところ忙しかったから。言い訳にしか過ぎないそれは、男にとって次を探すきっかけになったのだろう。
━━そう。分かった。その相手とお幸せに。
惨めだった。認めたくなかった。けれど現実は非情で、夜は明けるし仕事も始まる。
━━ああ、消えてしまいたいな。
思わず呟いたそれを、まさか、神様とかそういう存在に聞かれた?
茫然として座り込む。
相変わらず静かな部屋には、私以外の気配はやはりない。
蚊の彼女はどこまで行っただろう。もう産んでいるだろうか。
「最後に、…したのは、…」
私にとって青天の霹靂だった男の言葉。最後に会った時に別れ話をされて揉める事なく解散したけれど、その前は普通に出掛けて飲んで、夜を共にした。あれは別れ話より三週間位前で、生理が来たのがその前の━━…
「嘘でしょう。…嘘、でしょう…」
応えるように、臍の下の意識した事もない所で、ぴちりと魚が跳ねるような感覚を覚えた。