彼の少年へ
序章 語リ部ハ迷ワズ
さて、私がこの場所に来た経緯を話そうと思う。
これは、謂わば私の伝記とでも言えば良いのだろうか?
いや、正確には集約された日記の一片だろうか?
そこに大した理由を付けるつもりは無いが、これは俺が子供の頃の話。
――そう、子供だった頃の話。
主楽章 世界ガ運命ト言フ物ハ、常ニ悪性ヲ持ツトシテ
1
「さて、君は紅茶派かな? 珈琲派かな? 私は珈琲をブラックで飲むのだが、矢張り客人を持て成すには砂糖やミルクは買足して置いた方が良いだろうか?」
客人を前に、男はマグカップに注がれた珈琲の片方を差し出した。
客人に出したのは、白のマグカップに注がれた珈琲と、付け足すように小皿に盛り付けられた、角がすり減った角砂糖と牛乳パック。持て成すと言うよりも、バイキングのような大容量をご自由に付け足してくれと言うような取りそろえで客人を持て成した。
対し男は黒のマグカップにブラック珈琲。
変哲な顔をした客人は、渡されたマグカップに角砂糖二つに牛乳をドプドプ注ぎ、最早珈琲の黒を残さないような白に近いカフェオレを作り啜り始めた。
味は甘く、珈琲特有の苦みは最早気にならない。
「えっと、私の話だったね。いやはや、私と言うほどの柄でも無いのだけど、最近はこの口調が安定してしまってね。本当につい最近だよ。でもまぁ……その経緯についても、此所から話すとしようかな」
男は、ズズズッと珈琲を啜る。
ブラック特有の苦みは下を濁らせ喉を通ると、彼の目は何所か据わったように安心とは違う、冷静さが垣間見えた。
「自己紹介をしておこうか。私は根柘榴秀斗。建築事業を営んでいる。……正確には、営んでいた、かな。最近はメッキリやる気に灯が灯らなくてね、個人サイトの方は閉鎖して、営業元だけにしか充填してないよ」
客人は、フムフムと頷くようにして、手元に持ったメモ帳に彼の独白を連ね始める。
「……さて、では私について話すとしよう。そうだ、せっかくだし君には口述筆記を頼みたい。なに、私自身最近自分の言葉が余り覚えられなくてね。今日今日に喋った言葉さえ疑ってしまうような人間なんだ。良いだろう?」
男が快諾すると、手に収まるメモ帳では無く、大きなノートを取り出して持ち帰る。根柘榴はそれを見て、自身について語り始めた。
2
さて、私の人生について、何所から話そうか。
折角話すのだから、まずは私が生まれてから、学業という物に触れる瞬間までの話をまずしようか。
生まれは……、古ぼけた木製の一軒家から始まる。
家柄は貧しくてね、まず第一としてお金が無かったね。と言うのも、私は病院などの医療器具の中で生まれた訳じゃ無くて、畳の上で生まれたんだよ。何故か? そりゃあ、そんな優遇された場所に足を踏み入れられるような精神は私の家族には無かった。
まあ、そうで無くとも、家計は貧しくても、近隣の近所付き合いは良い家族だったのは幸いだろうね。
真夜中の3時、その時間に私が生まれた。
生まれて最初、家族は私を見て泣いて言ったそうだよ。
まあ、今の私にも解るが、曰く「こんな貧しい家に産んでごめん」だったそうだ。
子供だから言ってる事なんて解らないだろうって? バカかね。後からどうとでも聞けるんだよ、こういう手合いは。……いや、正確には、私が少し成長してから色々知った事なんだけどね。
……話を戻そうか。
生まれて最初は私は泣いたさ。
そりゃワンワンと。犬じゃ無いよ。
貧しい家では確かにあったけど、生まれたての私に愛情を注いでくれたのは確かだったよ。なにせ、自分の食事そっちのけで私の為に飯を食わせてくれたんだから。
ああ、どうして貧しいか話しておかないとね。
そもそも、私の家族は元々貧しい訳では無いんだよ。
元々私の家族の母方は富豪のお嬢様だったらしくてね、父方は母方の父親、つまり祖父だね。その部下だったのだ。まあ、祖父と父は普通の上司と部下だったらしいのだけど、祖父は謂わば会社に目を置く人で、今の母を政略結婚に使おうと、どっかの誰かと結婚させる腹積りだったんだってさ。
で、そんな母に一目惚れしたのが父。
まあ、こんな境遇に成った理由は、単に駆け落ちしたって事が理由だね。
で、問題は、駆け落ちした相手が悪かったって事だ。
何せ祖父が大手の会社に勤める社長。謂わば、世間に名の知れている人間だからこそ、その目の届く範囲は広かったんだ。
どういう事かって?
要は、私の両親がどこかで働こうとすれば、祖父が即刻首にさせるって事。
大人げないだろ?
で、私の父は結局派遣として、母も同じだよ、目の届かないくらい場所で働いてたね。
……何でこんなに淡々と話せるんだって?
いやね、実は夜逃げを決行したのは父では無く、母だったんだ。ビックリするだろ? 昔から母さんは行動力があってね、私が意識がハッキリする時にはもうそりゃあ父親を尻に敷いてるのなんの。
あ、そう言う話じゃ無い? そうだったそうだった。
でも、今となっては良い思い出って言えるからだろうね。
そういえば、何でそんなお嬢様が隣人と親しいのかって話してなかったね。
そういうのは最初からそうだったって訳じゃ無いのは解るよね? そう、最初は結構周りから反感を買ってたらしいよ。だって、服装が整いすぎて夜逃げしてる二人が、ホームレス地に足踏み入れてるんだもんね。
そこら辺の話はよく知らないさ。両親も言いたがらなかった。
……おっと、色々と錯綜してしまったね。
じゃあ、此所からは生い立ちを話すとしよう。
生まれて最初は親の腕の中で育ったよ。
唯当時は、なんて言うんだろうね。相当無機質だったようだよ僕は。生まれて最初に泣いて以来、泣く事は無かったそうなんだ。
まあ、そこまで重要な問題じゃ無いか。
で、本題として、私はそのまま二年三年四年……みるみる時間が過ぎていく中で成長していったよ。でも、実を言うと学校も幼稚園も行ってなかったね。
義務教育だから行くべきだったって? ああ言う手合いは義務だから無償とか言って、普段着や体操着とか言う、謂わば身につける物や格好に寄って地位付けをされていく資本主義者達の階級制度の始まりでもあるんだ。まあ要は、無償で行けるだけで、有償じゃ無い訳じゃ無いし、そもそも勘違いしているだろうけど、義務教育って言うだけで、強要されてる訳じゃ無いんだ。逆に言えば、行かなくても良いんだよ。
おかしい事を言ってると思わないでくれ。実際にある法律上の抜け穴なんだ。
まあ学を学べないって言う点ではどうしようも無いけどね。
じゃあどうしてたかって?
まあ、両親に頗る教育して貰ってたね。
後図書館だね。アレこそ資本に毒されていない無償の公共施設だろ? 正直、興味を持った物は特になかったけど、苦になる事も無かったね。独学だって、正直今の生活でこんな事は苦でも無かった。
それが大体……、一五歳まで続いたね。
ここまで話したけど、生まれて十五年はある意味独学で勉強し続けていたね。いや、家族に関してここまで内容が薄いのかって聞かれれば……正直、食には何とかありつけてたし、親の顔を実を言うと余り見れては居なかったんだ。要は派遣だけあって、毎日毎日仕事詰めだよ。親よりも本を見る事が多かったね。
テレビ? 最早僕にはアレは資本主義者の道楽の類いだって思ってたね。いや、テレビがどういう物かは本ぐらいでわかるさ。要は……簡単に言えば「君で言う、マンションを買収して屋上にプールを設置する」という道楽と同じ価値観だったんだよ。
まあそうだね。金持ちの遊びって感覚だったさ。
っと、次の話をしようか。
そうだね、次は、高校の話だ。
3
一六歳となる四月に高校に入学した。親が何とか学費とかを貯めてくれたんだ。
まあ、別に年齢過ぎて入った訳じゃ無いし、意味ありげに言う必要は無かったかもね。
そうだなぁ……私にとってこの時期の記憶はある一点を除いて希薄だったね。別に誰か特定のクラスメイトと仲が良かった訳でも無いし、ある程度の世間体の付き合い方は学んでたから、別にそう言う意味での苦は無かったね。
でも、流石に金が無いのは辛いから、卒業して高収入の職に就こうと思ってたし、その時は医者になろうと勉強をしていたね。大体二年くらいかな、気がついたら高校三年生の春だったよ。
青春らしい青春もしてなかったし、本当に趣味も何も無く勉強の毎日。一体何を考えてたんだろうね、あの頃は。
そして、僕にとって一番重要な年でもあったんだ。
父親が時偶ガラクタを持ち帰るんだ。
でさ、持って帰ってきたのがテレビ。それもドラム缶さ。
オンボロだし、使えない様な物だったけど、当時私は本の知識を読み漁ってたから独学で直してみたんだ。
そして次の日に持ってきたのはビデオレコーダー。
ビデオなんて今じゃ懐かしいだろうけど、当時は今のブルーレイ並みに希少価値だったね。八倍とか覚えてるかい? 良い思い出だよ。
そうそう、私が目覚めたのはこの時かな。
ビデオレコーダーの中に入ってたんだ、あるテープが。
そのテープには、ロボットが映ってた、人が映ってた。
あの時、あの瞬間、何か忘れてた物を取り戻したって思ったよ。
何を見たかって? そりゃぁ……いや、止めておこう。
でも、それが切掛でも在り、思ってはいけない事だったんだ。
その時は父親に心からお礼を言ったよ。
いや、元々両親には感謝しきれなかったさ。
だから、最初はお金を稼ぐ事で精一杯だった。そのための勉強だって。
でも、私はそこで、何か自分の中の価値観が変わってしまったね。
ただ、変わった物が何も喜びだけじゃ無かった。
私の父親は、多分無理をしていたんだろう。派遣先の工事現場で足を踏み外して落下。死んでしまったんだ。
私にとってはとても急だった。なにせ、夢を与えて死んでいったような、不謹慎かも知れないが、死ぬ直前までの父が、……こういう場合サンタとでも言えば良いのかな? あんな風に、人の夢を運んできてくれたサンタに見えてしょうが無かった。
渡したら渡したでサッサと去ってしまったけどね。
高校三年の前期で起きた出来事だったんだけど、この時私には起こされた母と自分の将来について向き合ってた時期だった。
母はパートで何とか稼いでくれてたけど、早くにでも稼がなきゃいけない。でも、医学の道はそう簡単じゃ無い。
ある意味、葛藤って言う葛藤が一つや二つで留まってくれないんだ。
じゃあどうしてこっちの道に来たって?
それは、父が死んで少し過ぎたときのことさ。
母も死んだんだ。
原因は、ストレス性の急性末期癌。
正直、これは衝撃的だったね。
母には思い入れが無い訳じゃ無いよ。でも、こうなって初めて知るんだよ。隣にいてくれただけで、目立たないだけで、しっかり支えてくれたんだなって。
薄情に見えるかい?
違うんだ。
失って気付くのに、世界って言うのは諭す時間さえくれないのさ。
此所からは、一気に行くよ。
その後は生活補助を受けながら大学は建築科に進んだよ。
何故か?
あの時の映像作品を目に焼き付けていたからさ。
家も、城も、建物も、機械も、車も、飛行機も、電車も、子供にとっての憧れで、生活の基盤で、日常に有るべき物。
それを、自分の手で作る、デザインできるって、とても愉しい事だとは思わないかい?
切掛って言うのは、子供じみてた。
夢見て、やってみたいって思った。
生活補助を受け出してから、生活は一変したよ。
家は残して、僕は大学近くの学生マンションに引っ越した。
その頃から、サイトとかで有償の建築発案をしてたね。
意外と儲かるのコレ。
此所まで来たら、もう想像通り。
建築科を首席卒業して、建築会社に行って、夢を叶えたかって?
まださ、子供の夢ってのは危険ながらも常人たり得ない超人的思想だからこそ、子供の夢と呼ばれる。私の夢って言うのは本当に、ヒーローを作る事だったのかもね。
それが、根柘榴秀斗と言う人間の夢の根幹だよ。
4
夢が続いてるのかって?
終わってるさ、とっくに。
未完のままでね。
夢を追い続けていけば、必ず壁にぶち当たるんだ。
ヒーローなら乗り越えられる。
そんな淡い幻想を持って。
君は知ってるかい?
どんな奴も、絶望的な力の前には無力だって。
……私は、何も出来なかった。
何も、出来なかったんだ。
――誰よりも、正義の味方に憧れていたのに。
終焉章 瞼合ウ深淵ノ先
ひとしきり、根柘榴が語り終えると、大きく溜息を吐いた。
「ああ、久方ぶりだよ、此所まで私が喋ったのは」
視線は、真っ黒のマグカップに半分以上残ったブラック珈琲の水面を覗いていた。
「私は昔、一人称を僕と言っていてね、そりゃあ、年甲斐も無くはしゃぐ子供のような奴だったさ。でも、それも終わったんだ」
目線を映す。
目線の先には真っ白のマグカップがテーブルの上に置かれていた。
中にはブラック珈琲が注がれており、横にある砂糖や牛乳は一切使われていない。
対面に位置する席には、誰も座っておらず、よくよく見れば木のツルが巻き付いており、部屋全面を見渡せば、何所かしこも老朽化が進み続けた一軒家のようで、外から伸びてきたツルが家中至る所に巻き付いている。
「さて」
根柘榴は、大きく息を吐き捨てると、誰もいない席に向かって、吐き捨てた。
「次は、何を話そうか」