途絶えた祈り02
久保教諭が教室の扉を開き中に入った。遅れて道子も教室に入る。久保教諭の背中から視線を外さまいと、なるだけ教室の生徒と目を合わせないように。
教壇にたった久保教諭は黒板に山下道子と名前を書いた。
「今日からみんなとこの学び舎で生活することになった山下道子さんです。みんなの憧れJinbo町からやってきました。道子ちゃん、自己紹介をどうぞ。」
上履きをじっと見つめていた道子は勇気を出して教室の生徒に視線を移した。そこにあるのは30人ほどの生徒でどこにでもいるありふれた高校生の顔だった。
「みなさん初めまして。Jinbo町からここに引っ越してきた山下道子です。古着やアンティークやレコードが好きで、Jinbo町にいたころは古道具屋さんを探しては町をふらふら歩き回っていました。この町にもそんなお店があったらぜひ私に教えてください。昔から変な子だと言われていましたが、私はちっともそんなつもりじゃなくて。でもやっぱり変な子かもしれません。」
生徒の中からクスクスと笑い声があがる。
久保教諭は道子をフォローするように生徒たちに声をかけた。
「そうですね。確かに変わった子かもしれません。でも先生は変わった子は好きです。みんなも道子ちゃんがわからないことがあったら教えてあげるように。道子ちゃんも気軽にみんなに声をかけるのよ?」
「はい!」
道子の返事は若干上ずっていた。
生徒の中からクスクスと笑い声が上がる。
「道子ちゃんの席は窓際から二列目の一番後ろの席ね。ほらあそこ。」
久保教諭の指示した席がポッカリ空いている。
道子はペコペコお辞儀をしながら指定された席まで歩いていく。
「じゃあ今日のホームルームは終わりです。みんな一日よく勉強すること、以上。」
久保教諭が教室を去ったあとクラスの10人ほどの女子が道子の周りに集まる。
みな一様に都会からやってきた都会の人間である道子に興味を示していた。
コノ町ッテナニモナイデショ?
私モ高校ヲ卒業シタラJinbo町ニ行ッテミタイ。
Jinbo町ッテ洋服屋サンヤ、タベモノ屋サンガタクサンアルンデショ?
コノ町、年寄リバカリデ退屈。
道子は狼狽した。都会の中で孤立感を感じていた自分が都会の人間としての代名詞のように扱われることに。それは都会の中で感じていた孤立感とは違った意味での孤立感だった。道子はソウネ、アルイワ、ソウカモシレナイ。無難な受け答えをするしかなかった。
授業チャイムが鳴り周囲の女生徒が離れていくと結局、ここでも私は独りぼっちなんだという思いが強くなった。ふと隣の窓際の席を見ると男子生徒がわれ関せずといった感じでノートに英単語の綴りと意味を繰り返し書き込んでいた。男子生徒の体は大きかった。それは普通の17歳の肉体は違い、訓練によって意図的に膨張させていたことを示していた。道子は勇気を振り絞って彼に声をかけた。
「初めまして。私の名前は山下道子です。あなたの名前はなあに?」
男子生徒は書き込むボールペンをぴたりと止め道子のほうに顔を上げた。上げた後にぶっきらぼうに答えた。
「門松大介。」
それから道子の顔をじっと眺めた。道子もまた大介の見開かれた大きな瞳を見つめた。見つめていると彼に興味がわいてきた。
「大介君の星座はなあに?」
「星座?なんで?」
「星座占いはけっこうあたるから。統計学の世界だから。私はてんびん座よ。」
「…。おとめ座。」
そういってもう話は終わったと机の上のノートに顔を向け英単語の綴りと意味を繰り返し書き込みはじめた。道子はそんな彼の様子を眺めて心の中でため息をついた。
嫌われたかもしれないと。
教室の入り口から白髪の斎藤教諭が入ってきた。クラスの生徒たちのざわめきは少しずつ小さくなり、やがて静寂となった。
「この馬場という青年は空っぽのヴァイオリンケースを常日頃から持ち抱えている。私はここで疑問を感じます。いくら太宰の友人たちが一風変わった人物ばかりといってもさすがに空のヴァイオリンケースを大事に抱え日々過ごしているというのはどうも。これは太宰の創作ではないかと。太宰はたまたま見に行ったシゲティの公演に感銘を受けた。そうして不評に終わったことへの憤りからこのような創作をしたとしたら。世の中にヴァイオリンを持ったヴァイオリニストは数多くいるけれども、シゲティという演奏家に比べたらあなたたちは空っぽのヴァイオリンケースを携えた、ヴァイオリニストという肩書だけで生きている空虚な人間だと。これは音楽のよくわからない太宰なりの皮肉ではな いでしょうか?」
誰も斎藤教諭の講義を聞いていない。道子もまた聞いていなかった。心臓の動機は激しく、汗が吹き出し、ボールペンを持った手は震えている。そうして胃液がのどを刺激してくる。大介はふと道子の様子を眺め彼女の異常な様子に気づいた。何か声をかけたほうがいいのかもしれない。けれども彼は沈黙することを選択した。
道子は耐え切れず椅子を引き、体をくの字にして嘔吐した。
クラス中の視線が自分に集まる。
やってしまったと道子は思った。それから涙を流した。涙は吐しゃ物の上へ落ちた。
斎藤教諭は道子のそばにより彼女の背中を撫で大丈夫か?と聞いた。彼女は涙声で大丈夫ですと小さく答えた。斎藤教諭は大介に吐しゃ物を清掃するよう指示した。大介は椅子に掛けてある雑巾を手にし、掃除用具入れからバケツを取り出し教室を出て行った。道子の吐しゃ物を清掃している間に授業のチャイムが鳴り1時間目が終了した。
3人の女生徒が道子の周りに集まる。
ダイジョウブヨ、気ニシナイヨウニネ。
初メテノ授業で緊張シチャッタノヨ。
保健室ニ行カナクテイイ?
道子はもう大丈夫、迷惑かけてごめんなさいねと答えた。
3人の女生徒が去った後に道子は大介に声をかけた。
「ごめんなさい、汚いものを片付けさせちゃって。自分で片付けなければいけないのにそこまで気が回らくて。」
大介は道子の瞳を横目で見た後、窓の方の空へ視線を移した。
「別に。気にしてない。」
チャイムが鳴り休憩時間は終わり、次の授業が始まった。
道子は気を変えようと思った。そう思ったが実際にはそうはいかず次の授業中も道子はまた嘔吐した。