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《十七》

     *


 鹿鳴館大和という男は、万里が思っていた以上に面白い人物のようだ。

 世間は「冷たい男」という評価を下していたが、とてもそうは思えなかった。

 緊張している万里をリラックスさせるためなのか、それともあれが常なのか。万里には情報が少なすぎて判断することは出来なかったが、世間の評価とのギャップを感じずにはいられなかった。

 そして、それに対する閏は、まるで氷の剣で切り裂いているかのような冷たい対応だった。もしかしたら大和の評価はこの男のせいなのではないか、と思ってしまったほどだ。

 それでも、万里はどうしようもなく閏に惹かれている。

 今まで、万里に好きな人がいなかった訳ではなかった。学生時代、いいなと思う男性が何人かいた。しかし万里は、女性にしては少し高めの身長と見た目にコンプレックスを持っていて、告白するというところにまで至らなかった。遠くから見て、それだけで幸せだった。

 そして、そんないいなと思われる男性も、見かけなくなったら忘れてしまう程度。憧れに似た気持ちを感じたことはあったが、それが果たして好きという気持ちだったのか……今となってはもう、思い出せない。

 そんなこんなで、恋愛を今までまともにしたことがない万里ではあったが、閏は一目見て、心臓を鷲掴みにされたというか、心を持って行かれたという表現が合っているような感情を一瞬で抱いた。

 一秒でも長く、見ていたい。一瞬でもいいから、側にいたい。

 恋の病は治せないとはよく言ったもので、今の万里はまさしく、恋という熱に冒された、憐れな一人の女性でしかなかった。

 この病を治せるのは、一体、どんな薬なのだろうか。

 想いを寄せる閏は、そんな万里の熱を冷まそうとしているかのような冷酷な態度を取っているというのに、灼熱の想いはまったく冷める様子がない。それどころかますます温度が上がり、万里の心を溶かしてしまいそうだ。

 最初の願いは、少しでも近くにいたい、だった。

 その願いが叶ってしまうと、人間とは欲が深いもので、もっと近寄りたいと願うようになってしまった。

 前を歩く閏の背中を見ていると、手を伸ばして触れたいという気持ちを制御するのに必死になっている自分がいることに気がついた。

 女性から男性に触れるなんて、そんな恥ずかしい。

 古風な考えの万里は、そんなことを思ってしまったことに羞恥心で一杯になった。

 自分の中のその気持ちと戦っていたせいで、閏が足を止めたことに気がつかなかった。背中にぶつかったことで、万里は現実に戻ってきた。


「……なにをしている」

「すっ、すみませんっ」

「俺に触れるな」


 空気が凍り付きそうなほどの低音に、しかし、万里は惚けたように閏の横顔を見つめてしまった。


「大和さまのオフィスは、ここだ」


 地下の駐車場からエレベーターに乗り、ここまで上がってきたところまでは覚えている。白い印象を受ける廊下を通り抜け、どうやらここにたどり着いたようだ。もう一度、駐車場からここに来いと言われても、万里は道を覚えていない。

 閏は鍵を開け、万里に入るように促してきた。万里は素直に中へと入った。

 閏も室内に入り、扉が閉まるとカチリと鍵が掛かった音がした。


「ここはオートロックになっている。鍵を忘れて出ると、入室出来なくなることを覚えておけ」

「……はい」


 室内に入ると、日比谷家の帝の部屋と変わりない配置だった。

 大きく取られた窓、かなり大きな執務机。茶色の革ソファ。二人掛けが二つ、L字型に置かれていて、ローテーブルが添えられていた。

 目を壁に転じると、全面に本棚が据え付けられていて、ぎっしりと資料や本が並んでいた。


「大和さまは温情で、一か月の研修期間を設けてくださった」


 閏の声に、万里は視線を向ける。


「俺はおまえに、そんなに時間を割きたくない。だから、二週間ですべてを覚えろ」


 二週間ですべてを覚えろと言われ、万里は返事をすることができない。それが可能なのかどうか、なに一つ分からない万里には答えられない。


「ここに業務手順をまとめた」


 閏の手には、かなり厚手のファイルが持たれていた。


「これを元に、仕事を教える。そこのソファに座り、一通り目を通せ」


 閏はローテーブルにファイルを置き、執務机の横にある机へと移動した。


「俺は今から、確認の電話を掛ける。それが終わるまでに全部、頭にいれろ」


 どう見ても、それは不可能だ。それでも万里は一言も反論せず、黙ってソファに座り、ファイルを手にした。


 このファイルを作ったのが閏だとすれば相当なものだ、とどうにか最後まで目を通して万里はまず最初に思った。

 事細かに手順が書かれた内容は、さすがに一度、目を通しただけではすべてを頭に入れることができない。それでも流れをなんとなくだが、把握することはできた。

 二巡目に入ろうとしたところ、閏が動く気配がした。


「読めたか」


 閏は電話を終えたようだった。声を掛けられて、万里は顔を上げた。閏は机の前に立ち、万里に鋭い視線を向けてきた。閏に見とれそうになる気持ちを抑え、返事を返す。


「とりあえず、一通りは」

「……本当に目を通しただけか」


 閏の呆れたような言葉に万里は少しだけむっとしたが、黙ってうなずくだけにとどめた。


「まあいい。大まかな仕事の流れはそれで分かったと思う」


 閏はジャケットを脱ぐと机の上に置き、ワイシャツのボタンを外して袖を捲った。

 そこから見える男らしい腕に、万里の鼓動は早くなった。

 思ったよりも筋張った、腕。袖を捲る指先はすらりと長く、節が目立つ。爪も綺麗に切りそろえてあった。


「……で。おい、聞いているのか?」


 閏の指の動きに見とれていた万里は、驚いてソファから立ち上がった。


「すっ、すみませんっ!」


 万里は膝に乗せていたファイルを抱え、閏をまっすぐに見た。

 銀縁眼鏡の奥の瞳は冷ややかに万里を見ていた。


「やる気、あるのか?」


 冷え冷えとした声に、閏を怒らせてしまったことに気がついた。


「あの……すみません」


 万里はすぐに謝ったのだが、どうにも閏と二人きりだと思うと妙に意識してしまい、身が入らない。


「そうか」


 ぼんやりとしている万里を見て、閏はなにかを感じたらしい。


「先ほど言ったことは、撤回だ」


 閏の口角が楽しそうに歪んだ。その表情に、万里は閏からますます目が離せなくなった。


「大和さまからいただいた期間、フルでおまえに仕事を教え込んでやる」


 閏は万里に時間を割きたくないと言ったのに、どういった心境の変化なのだろうか。しかし、その方が万里にはありがたいので、それほど深く考えなかった。むしろ、万里にしてみれば、閏と二人っきりでいられる時間が延びたという喜びの方が大きかった。


「大和さまに取り入ろうったって、無駄だからな」


 閏はさらに笑みを深めたのだが、口元は笑っているのに、目が笑っていない。


「大和さまは、昔から想いを寄せいている人がいるのだ。おまえなど、取り入る隙はない」


 大和に想い人がいる?

 朝の車中の会話を思い出す。大和は幸の名を何度か呼んでいたが、想い人というのはまた、別の人、なのだろうか。そういえば、幸も大和には想い人がいるということを話していたのを思い出した。

 閏がなにか誤解をしていることに万里は気がつかず、幸のことを心配し始めてしまった。


「俺と結婚をしたのも、大和さまに取り入ろうとしたからだろう? そんなこと、俺がさせない」


 閏の瞳の奥に、静かな炎を見たような気がした。

 閏はどうやら、大和に忠誠を誓っているようだった。大切な主君を守る武士のようだ、と万里はおぼろげながらそんなことを思った。

 もう、そんな関係の人間などいないと思っていたが、閏と大和はどうやら違ったようだ。

 とすると、閏が万里との結婚を承諾したのは、万里が日比谷家と縁の深い人間だったから、断れなかったためということなのだろう。しかも、大和からの命令だったとも言っていた。閏は万里が帝から大和に取り入れと言われているとでも思っているのかもしれない。

 大和には想い人がいる。

 大和を守るために、閏は今回の結婚を受け入れた。

 それはまるで、幸を守るために結婚を承諾した万里のようだった。

 大切な人を守るため──。

 その共通点を見いだし、万里は閏に親近感を抱いた。

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