表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/31

《十六》

     *


 万里が呆然と寝室の扉の前で佇んでいると、身動きする音がかすかに聞こえてきた。

 そして程なくして鍵が開き、扉が開いた。


「……なにをしているんだ」


 扉の前に立っている万里を見て、閏はいぶかしげな表情を向けてきた。


「日比谷に言われたのか? 早いところ、既成事実を作れとでも?」


 万里を嘲笑する言葉に驚き、目を見開いて閏の顔を見上げると、その顔には想像もしていなかった皮肉な笑みが浮かんでいた。


「最初に言っただろう。おまえには一本も指を触れないと」


 閏はそれだけ口にすると、万里の横を通り、洗面所へと消えた。

 万里はただ、唖然として寝室に視線を向けることしか出来なかった。


 ずっと突っ立っている訳にもいかず、万里は気を取り直して寝室に入り、着替えを用意した。


「あの……お風呂はどちらに」


 洗面所から出てきた閏に質問すると、無言で、今出てきた洗面所を親指で示された。部屋に洗面所に手洗い、シャワー室がついているのは知っていたが、そこを使えと言っているのだろう。

 万里は服を抱え、シャワー室へと向かった。

 暖かいシャワーを浴びていると、涙がこみ上げてきた。側にいられたらそれだけで幸せではあったのだが、いわれのないことを言われ、冷たい態度を取られていることは、辛い。悔しさがこみあげてきた。万里は壁に手をつき、唇をかみしめて少しだけ泣いた。


 シャワーから上がると、部屋の隅のテーブルセットの上には朝食の準備がされていた。ワゴンが置かれているところを見ると、万里がシャワーを浴びている間に運ばれてきたのか、閏が取りに行ったのだろう。

 室内にご飯と焼き立ての魚のいい匂いがしている。

 シャワーを浴びてさっぱりした万里は、急に空腹を覚えた。

 盛大に鳴り始めたお腹の虫を恥ずかしく思いながら、テーブルに近寄った。

 閏はまだ、寝起きのままのパジャマだ。寒いからか、毛足の長いスリッパに厚手のローブを羽織っている。

 テーブルセットの奥側に座っていて、万里を待ってくれているようだ。


「すみません」


 万里は慌てて近寄り、席に座った。それを見て、閏は無言で食事を始めた。

 万里はグラスを手に取り、注がれていた水を一気に飲んだ。喉が渇いていたようで、すごく美味しく感じる。

 箸を手に取り、いただきますと小さく口にしてから、まずは味噌汁に手を付ける。

 今日の具は、油揚げとわかめのようだ。

 日比谷家ではどちらかというと洋食系だったので、和食というのがうれしかった。

 夕食を食べていなかったのもあり、万里はこんな状況だというのに完食した。

 隣に閏がいる。

 シャワーを浴びながら少し泣いてしまったが、酷いことを言われても、閏の側にいられるということに万里は幸せを感じた。


。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+


 閏はどうやら、大和の秘書という立場のようだ。

 万里が助手席に座り、後部座席に大和と閏が並んで座り、オフィスへ。車中では閏が今日の予定を大和に告げていた。


「お昼の会食ですが」

「今日も食べながら会議なのか?」


 うんざりしたような大和の声に、閏はしかし、淡々と告げる。


「海山商事の会長自らのセッティングということですから、お断りは難しいです」

「あの狸じじい……。いや、海産物を扱っているから、フグじじいと言った方がいいか?」


 大和の揶揄に、万里は思わず笑ってしまいそうになったが、俯いて手の甲をつねり、我慢した。

 海山商事といえば、日比谷家とも交流があったはずだ。


「どーせまた、ぶさいくな孫娘自慢と嫁にどうだって言ってくるんだろ?」

「大和さま」


 閏のたしなめる声に、大和は大きく伸びをして、身体を閏へと向けた。


「おまえは綺麗な嫁をもらって満足かもしれないが」


 大和の言葉に、万里は弾けるように顔を上げた。耳まで熱い。きっと今の万里は、真っ赤な顔になっているだろう。


「幸はつれないし……。オレは何度、失恋すればいいんだ!」

「なにも幸さまに固執しなくとも、海山商事のご令嬢だけではなく」

「おまえは分かってないなぁ。ほんと、分かってない!」


 大和はそういうと、閏の肩を抱き寄せた。


「好きな女をなにがなんでも手に入れたいと思うのは、男のサガ! 幸は、いい女に育ってるんだぜ? 他の男に触れられるかもしれないと思うと、いてもたってもいられないっ!」


 想像していたのとまったく違う大和の態度に、万里はどう反応すればいいのか分からない。


「幸さまが素晴らしい女性というのは、分かりました」


 閏は大和の手を払いのけ、スケジュール帳を開き、予定を告げる。


「会食は一時間を予定しております。その後、移動しまして……」

「会食、キャンセル出来ないのか? せっかく今日から万里ちゃんが仕事に入ってくれたのに」

「出来ません」


 冷たく一蹴する閏に、万里は目を丸くした。


「夜は?」

「夜も予定が入っています。山里商会主催のパーティに出席となっております」

「はあ。また山里か! あそこはほんと、派手だねぇ」


 どうやら大和のスケジュールは、冗談抜きで分単位で動いているようだった。


「……ま、こんな感じで、万里ちゃん」


 いきなり呼ばれ、万里は飛び上がり、振り返った。大和は茶色い髪をかき上げ、色素の薄い緑っぽい茶色の瞳を細めて万里を見た。


「はっ、はいっ!」


 万里の慌てる様子を見て、大和は愉快そうに口角をあげた。横でそれを見ている閏は、眉をひそめた。


「今日から君の仕事は、この冷血男が突っ込むオレの仕事のスケジュールをもう少し緩くしてもらうことだ」

「大和さま、これでも充分、余裕を持っているのですよ」

「あー、はいはい。そうですね」


 大和はうっとうしそうに手を払い、大きくため息を吐いた。


「冗談はさておき。君はオフィスに残って、オレがいない間の取り次ぎをしてもらいたい」

「取り次ぎ……です、か?」


 責任重大な仕事をいきなり任され、万里は絶句した。


「最初は右も左も分からないだろうから、この男を付けよう」


 万里は大和から閏に視線を向けた。

 きっちりとオールバックにして固めた髪は、まったく乱れた様子がない。銀縁眼鏡の奥の鳶色の瞳は、ただ、冷たく光っているだけだった。


「研修期間は一か月。それだけあれば、分かるだろう」

「大和さま、その間は……」

「なぁに、オレ一人で充分だろう? 車は数名でローテーションを組んでもらうように手はずをしてくれてるし、オレ一人が動いた方が効率がいい予定ばかり、おまえのことだから入れてるんだろう?」


 そう言って、大和は恨めしそうな視線を閏に向けた。


「よりによって、会食ばかりを突っ込みやがって……! じじいどもはみな、大喜びしていたぞ」

「そんなつもりはございません。いつもお断りしてますから、さすがに申し訳なく思いまして予定をいれたら、たまたま集中しただけです」


 閏は手に持っていたスケジュール帳を閉じ、ジャケットの内ポケットにしまっていた。


「はーあ。万里ちゃん、こいつはこうやって平気で嘘をつくような男だからな。気をつけろよ」


 よく分からないアドバイスに、万里はなんと答えればいいのか分からず、引きつる笑みを浮かべることしか出来なかった。


 オフィスに着き、大和は面倒だと文句を言いつつ、朝一番に行われる社内会議のために会議室へと向かっていた。

 万里は閏と二人にされ、急に心臓がどきどきとし始めたことに気がついた。

 てっきり大和もずっといると思っていた万里は、閏と一緒でどうすればいいのか分からない。

 閏はそんな万里に目もくれず、歩き始めた。カツッと地面を踏みしめた閏の靴音で、万里は慌ててその背中を追いかけた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。










web拍手 by FC2









― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ