無自覚に危険な指摘
朝6時起床。仕度をし、朝食を食べ、時間通りに家を出る。憂鬱になりがちな月曜の朝なのに、今日はとても清々しかった。昨日は一日中部屋にこもって勉強をしていた。小坂が自力で頑張ってくれることになったので、ずっと自分のために集中していられた。おかげで、遅れをだいぶ取り戻すことができた。ついでに寝不足も少し解消できた。この程度ならもううたた寝する事はないはずだ。
学校へ到着し、何人かの生徒と挨拶を交わして自分の席へ向かう。小坂はすでに席についており、友達に囲まれながら英単語の暗記用ノートを睨んでいた。ちゃんと頑張ってはいたが、あまり集中できていないようだった。
4限目が終わって昼休みになると、2人の女子生徒が碧乃に話しかけてきた。
「斉川さん、一緒にお昼食べよー?」
「んで、勉強教えてー」
三吉萌花と藤野那奈だった。
三吉は、ゆるふわのボブヘアーが良く似合う、ちょっと天然のかわいらしい女の子だ。頼りない所があったり、怖がりだったりと守ってあげたくなるような性格をしているので、男子達からかなり人気があるようだ。
対する藤野は、ショートヘアにすらっとした長身の、モデルのような子だった。体は細いのに胸のサイズがGカップという、すごい体型の持ち主だ。明るく、はっきりした物言いをする性格なので、皆に慕われていた。欠点を挙げるとすれば、女の子に対するボディータッチが多い事だ。抱きつくなどは日常茶飯事で、他にもセクハラまがいの事を平気でしてくる。碧乃も何度か被害に遭った事がある。せっかく見た目も性格も良いのだから、もう少し大人しくしていてほしいものだ。
2人は同じ中学出身のため、高校へ入学した時にはもう仲が良かった。三吉が碧乃に話しかけたのがきっかけで、よく勉強を教えるような間柄になった。
どうやら自分は、勉強を間に介さないと友達もできないらしい。
「あ、うん、いいよ」
「やったー!」
碧乃が承諾すると、案の定藤野が抱きついてきた。豊満な胸が押し付けられるので、男でなくてもドキドキしてしまう。
「もう。先に飲み物買いに行こう?」
三吉にとってはいつもの光景なので、少し呆れただけであまり気にしていない。
「わかった。行こう、斉川さん」
「あ、う、うん」
藤野に腕を組まれ、碧乃は大人しく連れていかれた。
「今日は小坂君、勉強熱心だね」
藤野那奈がメロンパンを食べながら、小坂のいる方を見た。
「ねー。なんだか大変そう…」
三吉萌花も心配そうな眼差しで見つめる。
2人とも、例に漏れず小坂光毅のファンだった。恋愛対象ではなく、アイドル的存在だそうだ。
碧乃も一応小坂の方を見やった。
当の彼は、友達と弁当を食べながらも英単語を覚えていた。今日は英語の勉強に徹する事にしたらしい。
「小坂君、来週の中間テストで赤点取ったら部活禁止されちゃうんだって。斉川さん知ってた?」
「う、ううん…知らなかった」
藤野の問いに、頑張って慣れない嘘をつく。
「知り合いの人に頼んで、家庭教師してもらってるんだって」
「へ、へぇー…」
今度は三吉の言葉に、何とか相づちを打った。心拍数は少し上昇してきたが、表情には出さない。これくらいなら、まだ想定内だ。
「その家庭教師、美人の女子大生らしいよ」
「えー!そうなの?」
「……」
そんな事になってるのか…。
無言の碧乃をよそに、2人のやりとりは続く。
「優しくて教え方も上手いから、その人のおかげで苦手な勉強が克服できそうなんだって」
「すごーい!じゃあ小坂くん、勉強もできるようになっちゃうのかなぁ?」
「そうしたら、もっと格好良くなっちゃうよー。ねー、斉川さん」
藤野が突然振ってきた。
「え!あ…すごい、ね」
内容が内容なだけに、わずかに返答が乱れる。2人は話に夢中で気付いていない。
会話がどんどん想定の範囲を超えていく。これは一体どう反応したら良いのか。少々話を盛り過ぎだろう。全く、彼は何を考えているのやら。
碧乃の心拍数がまた少し上昇した。
「でも、その家庭教師ってどんな人なんだろう?会ってみたいなぁ」
三吉がお弁当を食べつつ、空想にふける。
「女子大生のお姉様なんて、憧れるよねー」
「那奈ちゃん、変態の顔になってるよ」
「だってー、絶対大人の色気とか出てそうだもん」
「えー、そうかなぁ?意外と可愛い人だったりして」
「斉川さんはどう思う?」
またしても藤野の急な振りが来た。
「!…さ、さぁー。全然分かんないな……」
もう、早く終わって!これ続けるの無理だって…。
「あー、すっごく気になるー」
「あ!那奈ちゃん、早く食べないと斉川さんに勉強きく時間なくなっちゃう」
「本当だ!きくとこいっぱいあるのに。ごめんね、昼休みつぶしちゃって」
「あ、うん。大丈夫だよ」
碧乃は気付かれないように、息を吐き出した。
三吉が急かしてくれたおかげで、やっと会話が終了した。あのまま続いていたら、ボロが出ていたかも知れない。本当に危なかった。
もう、全部あいつのせいだ!
放課後。昼休みだけでは時間が足りなかったので、この時間も2人に教える事になった。
2つくっつけた机を三吉と藤野が使い、碧乃はその向かいに椅子だけ持ってきて座っていた。3人のいる教室には、他にも何組か勉強で残っている生徒がいた。
せっかく小坂から解放されているというのに、これではあまり意味がなくなってしまった。碧乃の断れない性格が災いしたのだ。今日は再び睡眠時間を削る事になるかも知れない。幸いにも小坂は友達と足早に帰っていったので、この事は知らない。もし知ったら、やはり怒るのだろうか。
「んで、ここはこれで良いの?」
藤野が解きかけの問題を指した。
「あ、それはこっちの公式の方が良いかな。それで…」
碧乃は藤野のノートに直接書き込んで教えた。小坂に教える時も同じ方法を取っていた。彼の場合は頻繁に質問してくるので、ノートも教科書も碧乃の書き込みだらけになっていた。
「あー、そっか!で……こうね。できた!ありがとー」
「はぁー。やっぱり斉川さんすごいなぁ。本当に分かりやすいもん」
隣で見ていた三吉が、目をキラキラさせて感心していた。
「そ、そうかなぁ…?」
単に数学が教えやすい教科なだけだと思うけどな…。
そんな目で見つめられると、何だか照れる。本当にこの子は可愛い。男子達が好きになるのがよく分かる。
「あ!」
その三吉が、何かを閃いたように大声を発した。同時に両手をポンッと合わせる。
「な、何?」
「どうしたの、萌花?」
碧乃と藤野は驚いて彼女を見た。
「小坂くんの家庭教師って、もしかして斉川さんみたいな人なのかな?」
「なっ?!」
碧乃の体がビキッと硬直した。
何てこと言い出すんだ、いきなり!
「え、なんで?」
藤野に訊かれ、三吉はなぜか興奮気味に説明してきた。
「だって、斉川さんて大人っぽくて美人だし、優しいし、勉強教えるの上手だし!小坂くんが言ってたイメージとぴったりだよ?」
「あー、言われてみればそうかも」
藤野も同意して、2人で碧乃を見つめてきた。
「い、いやっあの、全然違うでしょ!」
碧乃は全力で否定した。
どう見たらそんな解釈ができるんだ?勉強を教えるのが少し得意なだけで、それ以外は何一つ当てはまっていないのに!
「そんなことないよぉー。すごくぴったり!」
「いや、だから…」
「いいなー。こんなお姉様に毎日教えてもらえるなんてー」
「だから…違うって…」
三吉の無自覚な鋭い指摘に、碧乃は恐怖を覚えた。動揺を隠し切れない。2人に不審に思われてしまいそうだ。
どうしたらいいの、これは……?
その時、教室の扉がガラッと開いて生徒が1人入ってきた。
扉が見える位置にいた碧乃は、その人とバッチリ目が合ってしまった。
「え!!」
小坂光毅その人だった。
驚きすぎて思わず声が出る。扉に背を向けていた三吉と藤野が振り返った。
「あー!小坂くんだぁ!」
「うわさしてたら本当に来ちゃったー!」
「……」
なんでこのタイミングで現れるかな…。
小坂は自分の机から教科書を取り出してかばんに入れると、真っ直ぐこちらへ近づいて来た。碧乃の横にちゃっかり入り込んで立つ。
なっ!?来なくていいってば!
「何?3人で勉強?」
三吉と藤野に話しかけ、チラッと一瞬だけ碧乃を見た。目の奥に意地悪さが宿っていた。
あ……怒ってる……。
「あ、そ、そうなの」
三吉がかなり緊張気味に答えた。顔もほんのり赤くなっている。大好きな小坂の前では、いつもこうなってしまうのだ。
「小坂君はどうしたの?」
代わりに藤野が会話を続けた。こちらは、小坂と話す事ができてテンションが高い。
「忘れ物しちゃって、取りに戻ってきた」
「そうなんだー。あ、今ね!ちょうど小坂君の話をしてたとこだったんだよ?」
あ、まずい!
碧乃は目を見開いただけで何も発さなかった。気力が底をついて話せなくなっていたのだ。
「俺の話?」
「小坂君の家庭教師の先生って、斉川さんとイメージが似てるよねって」
「え?」
かすかに驚いた小坂が、こちらを見た。
苦虫を噛みつぶしたような表情になった碧乃は、彼と一瞬目を合わせただけでふいっと顔をそむけた。三吉と藤野には小坂しか見えていないので、全く気付かない。
一拍の間を置いて、くすっと小坂が笑う声が聞こえた。碧乃が置かれている状況を把握したらしい。
「…へぇ、そうなんだ。そういえば似てるかも」
「なっ……」
反射的に振り返ると、彼の意地悪な微笑が見えてしまった。もうどうして良いのか分からず、そのまま凍りつく。
「あ、やっぱりそうなんだー!だってさ、萌花!」
三吉は興奮気味にこくこくとうなずいて藤野に返した。完全に2人だけで盛りあがり、碧乃に熱い眼差しを浴びせる。
碧乃は追い詰められたネズミのようにそれを受けた。
その様子を見た小坂は、ニヤけ顔を抑えるためにあらぬ方を見やって、口元を手で覆った。
「…じゃあ俺、その家庭教師が来るからもう帰るよ」
何とか普通の表情に戻すと、三吉と藤野に話しかけた。
「あ、うん。べ、勉強頑張ってね」
「今度その人の写メ見せてねー」
「あ、ああ、今度な。んじゃ、そちらも頑張って」
バイバーイ、と見送る2人に手を振り返して、小坂は教室を出ていった。2人と話していたのに、最後の『頑張って』だけは碧乃を見て言っていた。
完全なる悪意に、碧乃は怒りを覚えたのだった。
その夜。家に帰った碧乃は、早々に夕食や入浴を済ませて勉強を始めた。油断するとすぐにあの意地悪な顔が浮かんでくるので、何かに集中していたかったのだ。
あの後は結局三吉と藤野の2人で勝手に盛りあがり、碧乃は聞き流しているだけだった。勉強をするはずだったのに、ほとんど小坂についての無駄話で終わった。おかげで少し早めに解放されたが、疲労はかなりのものだった。明日には落ち着いてくれてると良いのだが。
気付けば、夜中の2時を回っていた。本当はもう就寝した方が良いのだろうが、眠気のピークはとうに過ぎて目が冴えていたので、気にせず勉強を続ける。
明日も寝不足決定だな、などと思っていると、いきなり碧乃のスマホから電話の着信音が鳴り出した。
「!!」
碧乃はビクッと反応して、持っていたシャープペンを床に落とした。慌ててベッドの上のスマホを手に取り、画面を見る。『小坂光毅』という表示を認識した時にはもう通話ボタンを押してしまっていた。
あ……。
仕方なく、ベッドに腰掛けて恐る恐る電話に出た。
「もしもし…」
「やっぱり起きてたな?」
「うっ……」
なんで通話にしちゃったんだろ…。
「ったく…。あんまり無理するなよな」
「すいません…」
「って、俺が無理させてんだよな。…ごめん」
小坂が、苦笑いを浮かべてそうな声で謝ってきた。
「え…?」
「放課後のこと謝りたくて電話したんだ。あれはさすがにやり過ぎた。本当にごめん」
電話の向こうでシュンとしている小坂が見える気がした。
「あ…うん」
「あの後大丈夫だった?」
「え?…ああ、2人が勝手に盛りあがってただけだから、なんとか」
「そうなんだ。…本当ごめんな」
碧乃の中にわだかまっていた怒りが少しずつしぼんでいった。
謝りすぎ……。もう、しょうがないなぁ。本当に弟そっくりだ。
「大丈夫だってば」
「うん…」
そんなに落ち込むなら、最初からしなければ良いのに。
「…まだ寝ないのか?」
「え?あー……、そろそろ寝るかな」
集中力切れちゃったし。
「そっか。じゃあ、俺も寝る」
「わかった」
「……」
小坂から何も返ってこなかった。
「…何?」
「あ、いや、次に話すのは水曜なのかなぁと思って」
「?…うん、そうだね」
「そっか………おやすみ」
「お、おやすみ」
碧乃が戸惑いつつ返答すると、二拍ほど経ってから電話が切れた。
……?
疑問を抱きつつ、スマホをベッドに置いた。
何だったのだろう。切るのが惜しいかのような、あの間は。
まぁいいか、と落としていたシャープペンを拾いに行った。それを机の上に置くと、再び考えにふけった。
それにしても。わざわざこの時間に電話してくるとは、彼の中の意地悪さは未だ健在なようだ。
そこに気付いた碧乃は、なんとも複雑な気持ちになったのだった。