彼と彼女の魅力
「…つきー、光毅!まだ寝てるの?」
1階から母親の声が聞こえ、目が覚めた。だがまだ眠い。
今日は学校休みなんだから、寝てたっていいだろ…。
光毅は二度寝を決め込もうとした。
「光毅、11時から友達と勉強するんじゃなかったの?」
それを聞いてガバッと跳ね起きた。一気に眠気が吹き飛ぶ。
そうだった!!
スマホの時計を見ると、午前10時32分だった。光毅は慌てて仕度をした。
彼の家から待ち合わせ場所までは20分程かかる。早く行かなければ、確実に遅刻だ。
バタバタと家を出て、走って駅へ向かう。11時までに到着するのは難しそうだった。
案の定、電車を降りた時にはすでに5分過ぎていた。急いで駅の北口を出る。
コンビニの前に、誰かを待っている感じの人がいた。多分、斉川だ。制服の時とは雰囲気が全然違うので、近くまで行かないと確信が持てない。
彼女は細めのジーンズに白いTシャツを着て、その上に膝辺りまで長さのある青チェックのシャツを羽織っていた。髪も、いつもと違って下ろしている。
近付いて斉川だと分かると、思わず見とれてしまった。
大人っぽくて、とても格好良かった。
§
…来た。
駅の北口から小坂が出てくるのが見えた。腕時計を見ると、午前11時7分だった。
走ってくる彼は薄いグレーの七分丈のTシャツを着て、ポケットがたくさん付いたデザインのパンツを履いていた。簡単な格好なのに、とてもおしゃれに見えた。多分小坂なら、何を着てもそうなるのだろう。
「ごめん、遅くなった」
「大丈夫だよ。まだちょっと過ぎただけだから」
もっと遅れてくるかなと予想していたので、逆に早いと思ったくらいだ。彼はそこまで時間にルーズではなかったらしい。
「……」
小坂が碧乃を凝視していた。
「…何?なんか変?」
「え!あ、いや…なんかいつもと全然違うな」
「そうかな?休みの日はいつもこんなんだよ」
「そうなんだ…」
「……」
まだ見てるし…。
碧乃は小坂の視線に耐えられなくなった。
「見過ぎ。先行くよ?」
視線から逃れるために、踵を返して歩き出す。
「あ、ごめん。待って」
小坂は碧乃の横について歩き出した。
「女子でスカートじゃないの、あんまし見たことないかも」
「…そうなんだ」
ああ、そっか。小坂に会う子は皆気合い入れておしゃれしてくるんだから、こんな気の抜けた格好はしないか。
「これが一番楽なの」
「ふーん。俺結構好きかも」
「は?」
何を言ってるんだ?
「なんか新鮮」
小坂はニコニコしながら言った。
「……」
それって、ただ単にもの珍しいだけなんじゃ…?
「斉川って服のセンス良いんだな」
「?……そんなの、言われたことない」
自分のセンスがどうとか考えた事もないので、いまいちピンとこない。
「え、友達とかにも?」
「まず、私服で会わない」
浅い友達付き合いしかしていないので、学校帰り以外で遊びに誘われる事がない。休日にわざわざ誰かと会うのは小坂が初めてだった。
「ふーん、じゃあまだ俺しか見たことないのか」
「…そうだね」
「ふぅーん…」
小坂はなぜか嬉しそうだった。関わると面倒くさそうなので、理由は訊かないでおいた。
「いらっしゃいませ」
いつもの優しい出迎えを受ける。やはり休日なので、テーブルは半分以上埋まっていた。
「ああ、君達か。ちゃんと席は空いてるからどうぞ」
中野さんは、忙しそうにいくつものコーヒーを淹れていた。
2人は邪魔にならないように、足早に席へ向かった。
「やっぱ、土曜日は人多いな」
小坂はかばんを降ろしながら、店内を見渡した。
「…ずっといたら邪魔にならない?」
碧乃は心配になって訊いてみた。
「うーん、多分大丈夫だと思うけど。結構長居する人多いみたいだし」
「そうなの?」
「ここは時間を忘れるための場所だから、気兼ねなく好きなだけゆっくりしてほしいって前に中野さんが言ってた」
「時間を忘れるための場所…」
「邪魔かもって気を遣われると、そういう場所を提供できなかった事になるからやめてくれってさ」
「そうなんだ…」
なんか、すごいな…。まだまだ子供の自分では決して到達できない考え方だ。
少し経って、トレーを持って近付いてくる姿が見えた。
「待たせてすまないね。はい、コーヒーとカフェオレ。勝手に淹れてきちゃったけど、大丈夫だったかな?」
中野さんはコーヒーカップと、水の入ったグラスの両方をテーブルに置いた。
「あ、大丈夫です。ありがとうございます」
碧乃は笑顔で答えた。小坂も後に続く。
「すみません、今日もよろしくお願いします」
「ああ、好きなだけいると良いよ。応援してるからね」
小坂にそう返すと、中野さんは他の客に呼ばれて行ってしまった。
「…じゃあ、もう始める?」
「あ、うん」
小坂に言われ、碧乃はコーヒーを一口だけ飲んで置いた。かばんから勉強道具を取り出し、下ろしていた髪を後ろにまとめ始めた。
「あれ、髪結んじゃうの?」
小坂が驚いて訊いてきた。
「うん、邪魔だから」
「えー?下ろしてる方が可愛いのに」
「……」
私が可愛い訳ないでしょうが。
女の子達とはいつもそんなやりとりをしているのだろうが、自分には必要ない事だ。
一瞬止まってしまった手を動かし、手首につけていたヘアゴムで髪を括る。
「服に合わないから下ろしてただけ。勉強の時はこの方が集中できるの」
「ふーん、それは残念」
小坂は意地悪そうに微笑んだ。
…私なんかからかっても面白くないと思うんだけど。
精神的に疲れるのでやめてほしい。彼とのやりとりで、こういうのだけはまだ慣れない。
「始めるんじゃなかったの?」
「ごめんごめん。よろしくお願いします」
彼は顔からふっと意地悪さを消した。
碧乃はため息を1つついて、今日の勉強箇所を指示した。
「そろそろ昼にする?」
化学の勉強が一段落したところで、小坂が周りを見ながら言った。
「あ…うん、そうだね」
昼のピークは過ぎたようで、さっきよりもだいぶ客数が減っていた。今なら注文をお願いしても迷惑にならないだろう。碧乃の腕時計は午後3時を示していた。
小坂はテーブルの端にあったメニューを取って、碧乃に見やすいように広げた。
「何にする?」
「え、あ、先に選べば?」
「俺もう決まってるから」
「あ、そう…」
碧乃は大人しくメニューを見た。そんなに種類はないが、どれもおいしそうなので迷ってしまう。
「おすすめはオムライスかナポリタンだな。使ってるケチャップが自家製なんだって。すげーうまいよ」
「そうなんだ」
「んで、俺は今日はナポリタン」
「…じゃあ、オムライスにする」
2人が顔を上げた所で、タイミング良く中野さんが来てくれた。
「注文は決まったかな?」
小坂が2人の注文を伝えた。
しばらくして、オムライスとナポリタンが届いた。
「いただきまーす。…んー、やっぱうまい」
「…いただきます」
幸せそうな小坂に続いて、碧乃も一口食べた。甘めのケチャップが卵とよく合っていて、とてもおいしかった。
「うまいだろ?」
小坂の問いに碧乃は素直に頷く。それに満足したのか、小坂はまた幸せな顔で食べだした。
「……」
思わず彼を見つめる。
なんとも、かわいい人だな。見ていたら、こちらにまで幸せが移りそうだ。
碧乃はこの空間に心地良さを感じた。
彼とのやりとりは疲れるが、こういうのは悪くない。
§
食事を終えて少し休憩すると、2人は勉強を再開した。
化学の続きをするので、光毅は先程と同様に問題集を開いた。いつもの通りに、まずは自力で解いてみて、分からなかったら斉川に訊くというやり方だった。
授業のように一方的に説明される訳ではないため、分かりやすかった。彼女が絶妙な助言で導いてくれるので、最終的には自分で正解にたどり着いているのだ。解けた時に達成感を得ることができ、更に先へ進みたくなってくる。斉川のおかげで、本当に勉強が楽しいと思えるようになった。まあ、まだまだ苦手な部分は多いけれど。
今また分からない所が1つ出てきた。
「なぁ、ここはどうやって……あ」
顔を上げて見ると、彼女は頬杖をついてシャープペンを持ったまま、睡魔に負けていた。
寝てる……。
長めの前髪が落ちて、顔が少し隠れている。
「……」
寝顔を見たい衝動に駆られ、恐る恐る手を伸ばした。起こさないように、そっと前髪をよける。
見えた寝顔は、普段の顔よりも少しだけ幼く見えた。
まつげ、長いな……。
と、その瞬間、カクンと頬杖が外れた。
ビクッとして、伸ばしていた手を瞬時に引っ込めた。びっくりして心臓がバクバクと鳴っている。
斉川は目を開け、のろのろとこちらに視線を向けた。一瞬だったが、何とも眠そうで無防備な顔をしていた。
§
しまった…。今完全に寝てた。
彼と目が合うと、申し訳なさが込み上げてきた。
頑張っている人の目の前で寝るなんて…。
「……ごめん」
碧乃は居住まいを正した。
「…寝てないの?」
小坂が心配そうに訊いてきた。
「ちゃんと寝てるよ」
「何時間?」
「………3時間…くらい?」
「それ、ちゃんとって言わないだろ」
「……」
彼は怒ってなどいないのに、取り調べを受けてる気分だった。自分の罪悪感がそう思わせるのだろうか。
「もしかして、今週ずっと…?」
碧乃はばつが悪そうに、こくりと頷いた。
「……俺が、斉川の勉強時間削ってるせいだよな?」
「え!」
どうやら察してしまったらしい。
そうだ、なんて言ったら彼はまたやる気をなくしてしまう。
碧乃は平静を装って否定した。
「違うよ。試験前はいつもこうなるの」
「そうなのか?」
「うん」
程度は違うが、嘘は言ってない。
「…でも、やっぱ俺が悪いよ。ここでは俺のペースに合わせてるから、自分の勉強全然できてないんだろ?今日だって無理やり約束させちゃったし……。自分勝手で本当ごめん」
小坂は怒られた子供みたいにシュンとしてしまった。
ああ、もう。私は別に怒ってないのに。
「大丈夫だよ。それだけ勉強にやる気を出してるって事でしょ?」
碧乃には小学4年生の弟がいるのだが、それと話している感覚になった。母親に叱られると、いつも碧乃の所に来るのだ。
「でも…斉川に頼りっぱなしなのは事実だろ?」
「うーん…」
そこは否定できない…。実際、もう少し自力でやってくれればと思っていたし。
「…じゃあ、来週は1人で頑張ってみる?」
「え…?」
碧乃の提案に、小坂はものすごく不安な顔をした。
「1週間ずっととは言わないよ。とりあえず、水曜日あたりまで」
「…明日から?」
「うん」
「3日間も?」
「うん。…長い?」
弟を諭すように優しく訊いてみた。
「うーん……」
碧乃は小坂の答えを待った。
「…どうしても分からなかったら、訊いても良い?」
「え?う、うん」
「…じゃあ、やってみる」
まだ少し不安気だが、ちゃんと承諾してくれた。
「わかった」
かくして、碧乃は時間的余裕を少しだけ確保する事ができたのだった。