揺れる心、歪む心
授業が終わり、碧乃は1人で考えたいと4階へ向かっていた。
歩きながら、冷静に、ゆっくりと、考える。
彼とのやりとりで、ひとつ分かった事がある。
彼によって思い知らされた事が、ある。
……それは。
消える事を怖いと感じる心が、まだあったという真実を。
心の奥の、更に奥。悪魔に飲み込まれていた弱い心が………死にたくないと訴えていた事を。
「………………」
そう願う『私』の心は、とっくの昔になくなっていたのだと思っていた。
………………ううん。違う。
なくなったと、言い聞かせていた。
訴えて裏切られる事が怖くて、『頼りにならない』と失望される事が怖くて、弱い心ごと、壁の中に閉じ込めたのだ。
頼りにされる事が嬉しくて、一緒にいてくれる事が嬉しくて、苦しむ心を無視して、皆の望む姿を演じ続けた。
もしも本当に『私』の心がなくなっていたとしたら、彼に恐怖を抱くなどあり得ない。
心があるから、怖かった。
『私』がなくなる事が、怖かった。
私は、『私』であり続けたいのだと、思い知った。
美術準備室の前に着き、ポケットを探る。
「あ」
………ない。
「あー……」
そうだ。ここに連れてこられて、奪い取られて、そのまま飛び出した。
………鍵は彼が持っている。
碧乃は盛大にため息をついた。
…仕方ない。別の場所に行くか。
どこへ。
………上…か?
「…………」
せっかく上まで登ってきたので、更に上の屋上に行ってみる事にした。
歩きながら、頭は再び思考を始める。
あの時……彼に全てを見せた。
何もかも、さらけ出した。
しかしそれでも。
彼は手を伸ばしてきた。
迷う事なく、近付いてきた。
それは…なぜ?
彼は私に…………死んでほしくなかった?
……近付きたかった?
……触れたかった?
……なにもかも…欲しかった…?
………………。
…………。
……。
それらが行きつく先にある感情は。
一番上まで登りきり、扉を開けた。
人に会いたくないなと、出てきた扉の反対側へとまわる。
「……あ」
「げ」
会いたくないとこっちに来たのに、会ってしまった。
しかもよりによって……谷崎涼也に。
「な、なんでいんだよ?!」
「え…なんとなく」
「はぁ?意味分かんねーよ!また俺に何かする気かよ?!俺今なんもやってねーだろうが!」
「…………」
あの人に比べたら、なんか全然怖くないや。
彼の仕草に気になるものを見つけたので、あえて隣に座ってみる。
「ちょっ…おいっっ!!何やってんだよ?!」
「またサボってるの?」
「はぁ?違うし!今休み時間だろが!」
「授業の時間からいるのかなぁと思って」
「今日は受けたわ!」
「ふふっ、『今日は』ね」
こちらに敵意を向けながら、谷崎はずっと、扉がある方をチラッチラッと見ていた。
碧乃はふっと微笑んでみせる。
「…その様子だと、私のアドバイス、ちゃんと実践してくれたんだね」
「!…あ、あんたが後ろを見ろとかなんとか変な事言うから気になっただけだ!!」
そして谷崎と一緒にそちらに目を向けた時。
ヒュッと物陰に隠れる女の子の姿が、一瞬だけ見えた。
「いたね」
「…いた」
視線を向ける事をやめ、谷崎との会話に戻る。
「あいつ一体何なんだよ?俺のストーカーか!」
「んー、やってる事はストーカーだね」
「気持ち悪いな」
「ふふ。でも良かった、気付いてくれて」
「あ?何が良かったんだよ?最悪だろ!」
「だって、今あなたにとって一番必要な存在だよ?」
「はぁ?!」
「あの子ならきっと……あなたの事を『一番だ』って言ってくれると思うよ」
「!」
見開いた目でもう一度視線を向けると、再びヒュッと隠れられてしまった。
「……あれが?」
「あれが。ちなみに、捕まえようとしてみた?」
「した。けど無理。足速すぎだし、隠れんのもうますぎ」
「あははっ。そうなんだ。じゃああの子は妖精って事か」
「ようせい~?妖怪の間違いだろ」
「捕まえるの頑張って」
「なんで俺が頑張んなきゃいけないんだよ」
「それがあなたのためだから」
「向こうから来りゃいーじゃん。ってかなんで来ねーの?」
「あの子もまた、自分に自信がないんだよ。何でもできちゃう君とじゃ釣り合わないだろうって」
「!…へ、へぇー。俺が何でもできちゃうねぇー」
褒めるつもりはなかったが、褒められてなんだか嬉しそうだ。
割りとちょろいタイプだな、この人。
さすが弱虫ネズミ。
機嫌を良くし、態度がでかくなってきた。
「じゃあさー、そんなに言うならあんたも捕まえんの手伝ってよ」
「は?」
「俺に協力しろっつってんの。つーかこんなとこいて大丈夫なの?先輩も山内も、今ここにはいないんだろ?」
じり、と谷崎が嫌な笑みでにじり寄る。
「俺に何かされたらどうしようとか、思わないわけ?」
「え、だってもう私に利用価値ないでしょ?それにあの子が見てる前で変な事しようと思わな──」
「それはどうかな」
「は──うぎゃっ!」
油断していたら、いきなり体と顔を固定され、頬にキスをかまされた。
途端に体内がゾワゾワと波立ち、慌てて谷崎を押し返して頬を押さえた。
「なにそれ。もうちょっと可愛い声出ないの?」
「何すんだいきなり!!」
「何って協力だよ、きょ・う・りょ・く」
「どこが?!」
「追っかけんのが無理なら、あいつの嫉妬心煽ってこっちにおびき寄せようと思って」
「だったらもっと可愛い子選んでよ!私なんか使っても意味ないでしょ?!」
「あんたさー、俺の事いろいろ言ってくれたけど、1個だけ間違ってんだよ」
「…は?」
「俺はあんたに対して、『いくらかましだ』なんて思った事ねーよ」
「え…」
「俺は、駅であんたに会った時……」
嫌な笑みがずいっと近付く。
「本気であんたを欲しいと思った」
「!?」
近さに再び波立ち、反射的に彼を押し戻した。
「おっとと。まぁ、あんたもうちょい警戒心持った方がいいぞ。…あんた、喰ったら美味そうだ」
「!!」
ニヤリと笑い、谷崎はその場を去っていった。
何してくれてんだクズネズミが!!
私は人に触られるのが嫌いなんだ!!変に力の強い男の触り方なんて特に──…………………………あれ?
そこで、ふと気付いた。
……そういえば………あの人に触られて、気持ち悪いって思った事……あったっけ…?
……………………。
………………。
…………。
…………………………………あれ…?
……………あれ????
§
何をするでもなく、光毅はベッドに寝転ぶ。
あいつが隣にいないなら、そばにいてくれないなら、全てがもうどうでもいい。
そこへ足立から電話が来た。何度もしつこく鳴るので、仕方なく出る。
「小坂君!次の日曜一緒に遊ぼー?」
受けるのも面倒くさいが、断るのも面倒くさいな。どうでもいいか。
「…ああ」
「ホント?やったぁ!じゃあ何するー?」
「…………」
遊ぶ場所を提案しだした足立を無言で受け流し、窓の外に目をやる。
「……斉川がいいな…」
「え?何か言った?」
「いや別に」
「あ、遊園地とかどお?」
「ああ」
「良いよね!んじゃ遊園地に決定~!」
「ああ」
心は空っぽ。どうでもいい。
言われるがまま、日曜日の予定は決まった。
…………斉川がよかったな。どうでもいいけど。
そして日曜日になり。
「何から乗る~?」
斉川がいいな。
「きゃー!ヤバーイ!!」
斉川がいいな。
「見て見てあれ!超かわいい!」
斉川がいいな。
「うわぁー。すっごい高ーい!」
斉川がいいな。
頭の中はそればかり。
楽しませようと頑張る姿も、光毅の目には映らない。
楽しくない。面倒くさい。どうでもいい。
ぼんやりと上の空な光毅を見て堪えるような表情になっていた事も、全くもって気付かない。
買ってきてくれた飲み物に口をつけながら、頭の中だけがグルグル動く。
早く帰りたいな。帰るかな。
「っ……ね、ねぇ小坂君!」
いきなり現実に引き戻され、ゆるりと足立を見やる。
「今日いっぱい乗り物乗って疲れちゃったから、もう帰ろっか!」
「……ああ」
良かった。やっと帰れる。
「じゃあな」
立ちあがり、1人で出口へ向かおうとした。
「えっ、え、待って!ここで解散?!嘘でしょ?一緒に帰ろうよ!」
「あ?約束通り遊んだんだから、もういいだろ」
早く解放しろよ。うぜぇな。
「え……」
彼女の表情には目もくれず、光毅は踵を返し歩き出した。
面倒くさい、早く帰りたい、とそればかりを考えながら。
後に残るは、小さな呻き。
「…なんで」
なんで。
なんでよ。
どうして一緒にいてくれないの?
どうしてこっち見てくれないのよ。
あなたの隣にいるために。
あなたに振り向いてもらうために。
こんなにこんなに頑張ったのに。
頑張って可愛くなったのに。
優しいあなたはどこにいったの?
何もかも完璧だったあなたは?
あなたはすっかり変わってしまった。
今はひどく歪んでいる。
全然完璧なんかじゃない。
完璧じゃなきゃ…………あなたじゃない。
許さない。
許さない。
あの地味女。
あいつのせいで彼は歪んだ。
関わったせいで完璧な姿を忘れてしまった。
あんな女のどこがいいのよ。
私の方がふさわしいに決まってる。
……だから。
私が戻してあげなくちゃ。
私が正してあげなくちゃ。
私があの女を、消してあげなくちゃ。
鋭い瞳が、去りゆく背中を見つめ続けた。




