自信の魔法
「圭くん!」
「おう、萌花おはよ」
いつもの如く、萌花が教室に入るなりくっついてきた。
しかし、今日は少し様子が違う。何だか不安気な表情だ。
「どうしよう圭くん」
「ん?どうしたんだ?」
「碧乃ちゃんがね?…ずっと泣きそうな顔してるの」
「は?」
泣きそう……あいつが?
まさかまた何かあったんじゃ…?!
焦る気持ちを抑え、彼女に近付く。
「斉川…おはよう」
「…………」
呼びかけに応じ振り向いたその顔は……何にも表情がなかった。
一見するといつも通りだが、萌花の目には泣きそうに見えるという。
よくよく見れば、確かに少しいつもと違う。ただの無表情というよりは、心が抜け落ちてしまったという方が正しいように思う。
「どうした?何かあったのか?」
「……は?」
訊いた途端、その目が険を帯びた。
「別に何もない」
発する声はとても冷たい。まるで、他の者全てを拒絶するかのような。
話しかけるなとばかりに、彼女はこちらに背を向けた。
「いやいや待て待て、それで何もない訳ないだろ」
「……」
「何があったんだよ?」
「……」
無視かこら。
「言わなきゃ分かんねーだろが」
前に回り込み顔を覗くと、ギロリと睨まれてしまった。
「うっ…」
これ本当に泣きそうなのか?……どっちかっていうと、怒ってるような……。
となると、こいつを怒らせんのは……。
「…光毅か?」
名前を発した瞬間、彼女はピクリと反応し、瞳がかすかに揺らいだ。
……当たりだな。
「なんだ光毅か。あいつ今度は何したんだよ?」
ふいっと顔を反らされてしまった。
「…………」
こいつ…。絶対に口は割らないってか。
しょうがない、本人に訊くか。
とそこへ、ちょうどその本人が教室へ入ってくるのが見えた。
噂をすればなんとやら。
「おーい、光毅ー!ちょっと──」
ガタンッ!
呼んだ瞬間、斉川はいきなり立ち上がった。
「えっ、おい!」
「碧乃ちゃん?!」
そのまま圭佑らを押し退け、光毅が来た方と反対の扉から出ていってしまった。
「──……」
その顔に表れていたのは、怒りなどではなく……明らかな怯えだった。
あれは圭佑がこの世で最も嫌いなもの。
俯き立ち尽くす光毅に近付き、強く肩を掴んだ。
「光毅………お前、あいつに何した」
「…………」
その反応は、痛々しく唇を噛むだけだった。
§
走って、走って、角を曲がり、階段を降りかけた所で息が切れ、荒い呼吸で手すりに寄りかかった。
心臓が、激しく暴れる。
頭の中が、かき回される。
周囲に悟られまいと、懸命に表情を消し、無理矢理呼吸を押さえつける。
「…はぁ…っ……」
あの時………本当に、喰われるかと思った……。
心も体も……奪われるかと思った……。
怖かった。本当に怖かった。
谷崎も、あの3人組も、心まで奪おうとはしなかった。
でも、彼は違う。
あの化け物は……心の奥の、更に奥まで手を伸ばしてきた。
あの時は本気で、全てを喰い尽くそうとしていた。
「…………っ」
彼の目を思い出すだけで、彼の声を思い出すだけで、恐怖が体中を這い回る。
苦しめたら…傷付けたら…彼は化け物になってしまった。
離れてほしかっただけなのに。
関わらせたくなかっただけなのに。
分からない。分からないよ。
どうして。
どうして私に近付いてきたの?
どうして…化け物なんかになってしまったの……?
あなたの心が分からない事が、何より何より恐ろしい。
進む事も戻る事もできず立ち尽くしていたら、階段を上ってきた藤野と鉢合わせた。
「碧乃っち?」
「……」
「どうしたの?!どっか具合悪いの?」
今にも倒れそうに見えたのか、慌てて近付き肩を掴んで碧乃を支えた。
それがとても心地よく感じ、思わず藤野のブレザーの裾をきゅっと握った。
「…………」
「……保健室、行く?」
察してくれた優しい声音に、碧乃は小さく頷いた。
そうして支えられたまま、ゆっくりと階段を降りていった。
§
圭佑に人気のない所まで連れ出され、彼女が怯えていた理由を問い質された。
「…………」
「黙ってたら分かんねーだろ!」
「………」
「おい光毅っ!」
「………だって……………あいつが……」
あいつが。
「死ぬだなんて…言うから……」
「……は…?」
俯くままに、何もかも全てを圭佑に打ち明けた。
「…なんだって……」
「──だから俺は、あいつを止めなきゃいけないと思って……っ…」
彼女に生きていてほしくて。
馬鹿な行いを止めたくて。
死なせたくない一心で。
でも止まってくれなくて。
考えて考えて考え過ぎて、今まで抑えていたものが、どろりと外へ溢れ出した。
傷付けるなら奪ってしまえと。
壊すというなら喰ってしまえと。
考える事ができないくらいに溶かしてしまえと。
檻から抜け出た化け物が、本能のままに襲いかかった。
……そして。
張り上げる声に目を覚まし、意識を持って見つめた愛しい人は……カタカタと恐怖に震えていた。
どこまでも真っ直ぐで、どこまでも純粋だったその瞳は固く閉じられ、自分の姿はもう映っていなかった。
「……こんなはずじゃなかった…。ただ、救いたいだけだったんだ……俺があの時止めなきゃ、消えてしまうと思ったから…」
怖がらせたくなかった。
傷付けたくなかった。
けど、言葉だけじゃ、彼女を止められなかったから。
「…だから…あいつを襲おうとしたのは仕方ない、っていうのか…?」
「…………」
「もっと他に、やり方があったんじゃないのか?」
「…………」
「あいつに…ちゃんと気持ちを伝えたのか?本当のあいつを求めている人間がいる事を、ちゃんと分からせたのか?」
鋭い問いに答えられる程の力はなく、ただただ首を横に振って返す。
「どうしてそれをしなかった?!ずっと考えていたんだろ?!お前なら、それができたはずなんだぞ!!」
「っ……」
苦しさに、頭を抱える。
もう分からない。何も、分からない。
先輩が言ってくれたように、拒絶されても近付いた。
近付いて。近付いて。近付いて。
……なのに、あいつを救えなかった。
届かない事に苛立って。
止められない事に苛立って。
わがままな怒りが、理性を破壊した。
あの時化け物が恍惚と囁いた言葉が、今も頭にこびりついている。
“ああ、やっと──全てを手に入れる事ができる………”と。
「………………」
もしも再び、彼女を前にしたら………自分はどうなってしまうのだろう?
「…光毅、しばらくあいつに近付くな」
「……」
「いいな」
「…………」
圭佑の言葉を、光毅は黙って聞き入れるしかなかった。
§
しばらくして三吉らに『彼は今いないから』と連れ戻され、碧乃は授業を受けていた。
窓側には、ぽっかり空いた席が1つ。
「………………」
心は今、疲れ果てて静かなものだ。頭の中も、考え過ぎて空虚となった。
碧乃という『容れ物』が、席に座りノートをとっているだけ。
そうしてどれほど時間が経っただろう。
目の前に、影が2つ立つのを認識した。
「碧乃ちゃん」
「昼休みだよ。ご飯食べよう?碧乃っち」
優しい声の主を視界に入れ、大人しく連れられていった。
「…何があったのか、きいてもいい?」
「…………」
人が来ないであろう廊下の端の空き教室で、三吉が静かに問う。
…言いたくない。
でも、考えても考えても分からないのなら……誰かにきくしかないのだろう。
強く訊こうとはしない彼女らの優しさにすがるように、碧乃は恐る恐る口を開いた。
「…毎日…嫌なものばかり見せられるこんな世界、いたくないって………苦しみしかくれない私なんか、要らない、死んでしまいたいって、言ったら…………あの人が怒った」
「え…」
唯一あの人の中に見えた感情は、怒り。
言う事をきかない私に、あの人は怒っていた。
でも。
「要らないなら、俺にくれよって…言って……それで……っ」
恐怖が、蘇る。
震えだす体を押さえつけるように、ぎゅっと抱き締める。
彼は、近付いてきた。
止めるためではなく、喰らうために。
「なにもかも…奪おうとしてきた……。でも……なんでそんな事したのか、全然分からない」
考えても、考えても、化け物の正体を見出だす事はできなかった。
1つだけ、思い至る事はあった。
けど…そんなはずない。
あり得ない。
だって私には……そんな資格ないのだから。
「碧乃ちゃん」
全てを聞いた三吉が、そっと語りかけた。
「どうしてそんなになるまで、何も言ってくれなかったの?」
「……」
「大丈夫じゃない時は、ちゃんと言わなきゃだめって言ったでしょ?」
「……」
「私も、那奈ちゃんも、小坂くんも、圭くんも、誰も迷惑だなんて思ってないよ?」
「………」
魔法をかけられたように、引き結んでいた口が動き出す。
「…………ごめんなさい……」
その様子に、三吉はふわりと微笑んだ。
「私達の前では、強くなくても良いんだよ」
「……え…?」
顔を上げると、藤野も笑っているのが見えた。
「そうだよ。うちら別に、碧乃っちに強さなんか求めてないよ?」
「!」
思いもよらなかった発言に目を見開く。
「でも勉強教えてもらうのに、ちょっと頼っちゃったけどね。そこはごめん」
「……」
じ、じゃあ…一体何のために、私と……?
心の中の問いに、三吉が答えた。
「最初に碧乃ちゃんと会った時ね?初めて見て、思ったの。この人なら、私に絶対嘘つかないんだろうな、って」
「え……」
「私も、嫌なものが見えちゃう方だから、あんまり人といたくないなって思ってたの。でも碧乃ちゃんは違った。この人となら一緒にいたい、って思ったの」
「……」
「碧乃ちゃんの真っ直ぐさは本物。私達に向ける優しさも本物。私も他の皆も、その本物の真っ直ぐさに惹かれたんだよ」
「!」
三吉が碧乃に魔法をかける。
「碧乃ちゃんはすごくすごく魅力的な人。だからもっと自信持って?」
その言葉が、心に染み込んでゆく。
「そうやってゆっくりゆっくり考えたら、小坂くんがどうしてそんな事をしてしまったのか、きっと分かるはずだよ」
「…………」
どうして、そんな事をしたのか……。
私はもっと……自分を認めても、いいの………?




