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ヒーローなんていらないんだよ

 ホームに立ち、碧乃は電車が来るのを待っていた。

 何をするでもなく、ただただぼんやりと。

 すると、目線が自然と下を向く。

 遥か下にある線路が、目に入る。

 線路。

 間もなく来る電車。

 それらが頭の中で結び付き………………声が聞こえた。


  “もし…今ここで………──”


 「…っ……」

 聞こえた。

 聞こえてしまった。



 †††



 悪魔が声を…………取り戻した。



 †††



 聞こえない。聞こえない。

 碧乃は奥歯を噛みしめ静かに立ち、やってきた電車を見やる。

 扉が開き、何事もないと乗り込んだ。


 学校に到着し、皆と挨拶を交わす。

 『おはよう』と……笑顔で。


 §


 彼女は周囲に笑顔を見せる。穏やかで、当たり障りのない、完璧な笑顔。

 あれは、ほんの少し前まで俺がしていた顔。

 他を拒絶する、目に見えぬ壁。

 ……なんで。なんでなんでなんで。

 なぜ、分からなかった。

 一度は気付いたはずなのに。だから、嫌われようと思ったのに。

 自分に仕返しをする事で、彼女の笑顔は楽しんでいるものだと思い込まされた。

 巧みに目を、そらされた。

 ……しかし気付いた所でもう遅い。

 自分が彼女にしてあげられる事は何もない。

 もうこれ以上影響を及ぼさないよう、彼女から遠く離れるだけ。

 「…………っ」

 彼女の『笑顔』を見たくないと、光毅は廊下へ出た。重い息を吐き出し、窓の外を眺める。

 とそこへ、目の前にいきなり小さな包みを持った手が差し出された。

 「はい、チョコレート!」

 「…え」

 綺麗にネイルのされたその手の持ち主は、足立梨沙だった。

 戸惑うままただ突っ立っていると、ぐっと手を掴まれた。

 「ほーら!ちゃんと受け取って」

 そのままチョコレートを握らされる。

 「これ食べて元気出してね?」

 「え……なんで…」

 「だって…なんかすごく辛そうな顔してたから」

 顔を上げると、優しく包み込むような微笑みが見えた。

 「大丈夫?…斉川さんと、何かあったの?」

 「あ…………」

 一瞬打ち明けようとしたが、やはり言えないと開いた口を閉じた。

 「いや…別に」

 「そう。じゃあもし話したくなったら、いつでも言ってね。私、勉強はできないけど、話聞くくらいならできるから」

 「足立……ありがとう」

 「ふふっ、どういたしまして。あ、ほらほらチョコ食べて!」

 光毅はチョコレートを見つめると、静かに包みを開け口に入れた。

 ニタリと上がる口角には、気付かないまま。



 重苦しい気持ちのまま、時間だけが過ぎていった。

 帰りのホームルームが終わり、光毅は足立と共に教室を出た。

 楽しげに話す足立の声を聞き流しながら階段を降り、一階に着いた所でふと、文化部の部室が並ぶ辺りを見やった。

 「…………」

 「どうしたの?」

 足立の声に数秒遅れて反応した後、彼女に断りを入れた。

 「…あー、悪い。ちょっと寄るとこあるから」

 別れると、光毅はそちらへと歩いていった。


 美術部の部室の前に立ち中を覗くと、まだ誰も来ていなかった。

 しかしすぐに、目的の人物は現れた。

 「来ると思っていましたよ」

 振り返ると、田中先輩は優しく笑いかけてくれた。

 「僕に、訊きたい事があるのでしょう?」

 「…………」

 「今は、時間は大丈夫なのですか?」

 「…少しなら」

 「そうですか」

 先輩が部室の鍵を開けるのを待ち、一緒に中へと入る。

 「どうぞ」

 椅子を用意してくれたので、大人しくそこに座った。


 §


 「あの」

 突然の呼びかけに、碧乃は後ろを振り返った。

 立っていたのは、元舎弟3人組のうちの1人だった。

 「その…えっと、昨日はごめん。昨日っていうか、今まで?」

 「……」

 「俺ら、なんかバカな事やってたなって思って…。昨日言われて目が覚めたんだ。ホント、ごめんなさい」

 言いながら彼は頭を下げた。

 「……そう」

 「それで…実は聞いてほしい事があるんだ、姐さん、じゃない斉川さんに」

 「なに?」

 「ここじゃ話しにくい事なんだ…。ちょっと、一緒に来てくれる?」

 「……いいよ」

 碧乃は素直に承諾し、促されるまま彼の後に付いていった。


 「ここなら誰も来ないよ」

 そう言って扉を開けたのは、今は使われていない古い体育倉庫だった。

 薄暗い中へ入ると、奥から元舎弟の2人が現れた。

 「…え」

 後ろでピシャリと扉が閉められる。

 「どういう──う゛っ!」

 振り向こうとした背中が、思い切り蹴り飛ばされた。


 §


 「『過剰同調』……という言葉を、知っていますか?」

 田中先輩はいつも絵を描いている場所に座り、静かに語り出した。

 「かじょうどうちょう…?」

 「はい。自分と他者に境界がなく、相手の心情全てが、まるで自分の事のように感じられてしまう性質の事です。…彼女の鋭い目は、まさにそれです」

 「…………」

 「大抵の人は、知ったところで『他人の事だ』と遮断する事ができますが、彼女の場合、相手の心に寄り添うあまり、見えたもの全てを自分の内に取り込んでしまうんです。分け隔てなく、何もかもを。…だから強く優しくあり、弱く脆いのです」

 そう言う田中の笑顔は、悲しさとも苦しさとも思えるものが混じっていた。

 自分にはどうする事もできない、と言っているようだった。

 「人と距離を置く事で平静を保っていますが、常に孤独でいる事は、やはり辛かったのでしょう。相手の心に寄り添ってしまう程に、本当は皆の事が大好きなのですから」

 「え……」

 大好き…?

 「で、でも…あいつは『大嫌いだ』って…」

 「『大嫌い』?……そうですか…。きっと、良くない感情ばかりを見せられたのでしょう。そのせいで、いつからか『好き』が『嫌い』へと転じてしまった」

 「…………」

 「彼女はいつも、心のどこかで助けを求めていました。『独りはいやだ』と。…そんな時、君が彼女を見つけてくれました」

 言いながら、先輩は嬉しさを滲ませた。

「君と関わるようになってから、彼女はとても生き生きして、とても人間らしくなりました。彼女自身の心が、少しずつ表に出てくるようになったんです。小坂君の裏表のない素直な心が、彼女には心地よかったのです」

 「!」

 心地いい…?俺の…心が?

 「ですから彼女は無意識のうちに君を受け入れ、ともに在ろうとした。あなたに勉強を教えるという関係を続けていたのは、そのためです。……しかし、彼女が望んでいたのはそこまで。それ以上踏み込んで来る事は、想定していなかった」

 先輩は、真っ直ぐに光毅と目を合わせた。

 「今彼女が君を拒絶しているのは、心の奥深くまで踏み込まれる事を怖れているためです。ですが救いを求めている事は変わっていない。……君なら、彼女を孤独から救い出す事ができるはずです。彼女に、『同じだ』と言わしめたあなたなら」

 「……え…?」

 『同じ』?…何の事だ?

 「……以前斉川さんと話をした時に、彼女は僕の事を、自分と『似ている』と言っていました。ですが君の事は……『同じだ』と言ったんです。僕は、似てはいても結局、壁を隔てた向こう側の人間。同じにはなれませんでした。しかし君は、その壁の中に入り、同じ空間にいる事を許されたのです」

 「っ!」

 斉川が、俺を……受け入れていた…?

 「そ、そんな馬鹿な──」

 先輩は、ふっと笑みを深くした。

 「彼女と『似ている』僕が言うのですから、間違いありません」

 「!…」

 「だから、どんなに拒絶されても自信を持って踏み込んでいってください。あなたは必ず、彼女の本当の心まで辿り着く事ができますから」

 「………………」


 光毅は静かに部室を後にした。先輩の言葉をゆっくりと反芻しながら、バスケ部の練習へと身を投じていった。


 §


 薄暗い旧体育倉庫の中。

 膝を床に打ち付けたまま、両手首をそれぞれ2人の男に取られた。

 「なぁーんだ、案外ちょろいなぁー」

 碧乃を連れてきたもう1人が、言いながら髪を掴み上を向かせる。

 「っ…」

 「もしかしてぇー、愛の告白とでも思っちゃった?」

 「…………」

 無理矢理視界に入れられた気持ち悪い笑みを強く睨みつけるも、その笑みは深さを増すだけだった。

 腕を掴む2人も、同じ顔を見せている。

 「俺らさぁー、姐さんにお叱りを受けて改心したんだよねー、守られてばっかじゃダメだって。今度は俺らが上に立たないとって。だから……あんたを引きずり下ろす事にした」

 目の前の男が、怒りを露わにした。

 「…よくも馬鹿にしてくれたなぁ?一体誰がクズだって?この状況でもういっぺん言ってみろよ。二度と無駄口叩けねぇようにしてやるからよ」

 そう言って、碧乃の服の襟元に手をかけた。

 …………だめだ。もう限界。

 「…ぷっ!ふふっ、ははははっ」

 捕らわれた状況の中、碧乃は盛大に笑い出した。

 予想外の反応に、3人の動きが怯みを見せた。

 「なっ、なんだこいつ!」

 「何笑ってんだよ?!」

 「怖すぎて頭おかしくなったんじゃねぇか?」

 「マジかよ」

 「あはははは」

 髪から男の手が離れたので、そのまま下を向き笑い続けた。

 ひとしきり笑ったところで、碧乃はゆっくりと顔を上げた。

 「──ははっ。はぁー………あーあ、全く」

 「っ!」

 口角を上げたまま、目の前の男と真っ直ぐに目を合わせる。

 「予想通りの反応。予想通りの行動。予想通りの展開。何もかも全て予想通り。予想通り過ぎて……」

 碧乃はふっと表情を消した。

 「全然面白くない」

 「!?」

 怯む3人に、碧乃は反撃を開始した。

 「君らは本当に、足元にすら及ばないね。私が何も考えずにあんな発言をしたと、本気で思ってるの?」

 「な、なんだと?!」

 「君らがこうする事を分かっていて、あえてあんな言い方をしたんだよ?」

 「はぁ?!で、でたらめを言うなっ!」

 「どうせこの場から逃げ出したいだけの嘘だろ?」

 「ハハッ、残念でしたぁー!あんたはもう、俺らから永遠に逃げられませーん!」

 そう言うと男はポケットからスマホを取り出した。

 「今からあんたの恥ずかしーい写真いっぱい撮って──」

 「あ、写真撮るの?奇遇だなぁー。私も実は君達の写真、持ってるんだよねー」

 「…は?」

 眉根を寄せる彼らに、碧乃は朗らかに先を続ける。

 「今見せてあげる…って、そうだ、私今手使えないんだった。ちょっと悪いんだけど、私のポケットから写真出してくれない?」

 首を傾げてお願いすると、腕を掴む1人が訝しみつつ碧乃のポケットを探り、写真とスマホを取り出した。

 「っ!?……これ…!」

 「ど、どうした?!」

 「何が写ってんだよ?」

 顔を青くした1人に驚き、あとの2人もその写真を覗き込んだ。

 「なっ?!…」

 「お、お前っ…!どこでこれを?!」

 それは、どこかのクラブにて彼らが酒と煙草を嗜んでいる写真だった。

 「さぁ?どこだろうねぇ?…それを出す所に出せば、君達終わっちゃうかもねー」

 「…クソッ」

 1人が破り捨てようとその写真をひっ掴む。

 「ああ、それ破ってもムダだよ。あと私のスマホに入ってるデータを消してもムダ。元のデータは、とーっても安全な場所に保管されてるから」

 「チッ…」

 「おい、それはどこだ?!」

 「教えないとどうなるか分かってんだろうな?」

 「ふふっ。そんなに知りたいの?」

 「分かってねーようだな」

 「もういいから早くやっちまおーぜ。そしたら大人しくなんだろ──」

 「やりたければやればいい!」

 「「っ!!」」

 3人を射抜く突然の気迫に、彼らはビクリと動きを止めた。

 碧乃はそのままニタリと嗤いかける。

 「好きなだけ傷を付ければいい。そうしたら私は、証拠が塗りたくられたその体で、警察に行ってあげるから」

 「なに?!」

 「んな事できる訳ねーだろ!」

 「あんたの写真拡散されてもいいのか?はっ、嫌に決まってるよなぁ?」

 「いいよ別に」

 「なっ、なんだって?!」

 「ってか、何その自信?そんなもので私を止められると思ってたの?」

 「!?」

 「はぁ…、低能な男ってなんで皆おんなじ事しかしないんだろ。女は組み敷けば何でも言う事きくと思ってる」

 本当、面白くない。

 「私は、自分がどうなろうとどうでもいいんだよ。だから傷を付けられようが、写真を拡散されようが、何の痛手にもならないね」

 …ふと、そこで一つ思い至る。

 「そういえば、このやり方随分手慣れてるねぇ?もしかして……前にもした事があるの?」

 3人の頭の中を、一対の鋭い目が覗き込む。

 「っ…!」

 「だ、だったら何だって言うんだよ?!」

 「ふーん、そっかぁー。…あるのか。じゃあもう君達のそのスマホの中には、良からぬ証拠がいっぱい入ってるわけだ」

 「!?は、入ってねーよそんなもん!」

 「えー嘘?なんで?君達の大事なコレクション、消しちゃったの?」

 「消したんじゃねぇ!山内に消されたんだ!!」

 「おいバカっ!」

 「あっ…!」

 口走ってしまった1人が慌てて口を押さえるも、もう遅い。

 碧乃はそれで全てを悟った。

 悪魔が再びニタリと嗤う。

 「あー……なるほど。そうだったんだ」

 山内君がねぇ。

 「『ボコられた』って、そういう事だったんだ」

 山内は前の被害者の事も救っていた。そして彼がいなければ、次の標的は三吉萌花だったというわけか。

 「『悪い奴は懲らしめないと』…だっけ?その言葉、そっくりそのまま君達に返してあげるよ」

 「くっ…」

 「この……言わせておけば…!」

 「さぁどうする?今ここで私を襲い、証拠だらけで解放する?それとも私を監禁する?もしくは殺す?いずれにしても、君達は重い罰を受ける事になる。私は一人で思い立ってここにいる訳じゃない。その写真はある人に頼んで入手してもらったの。だからもしも私が行方不明になったとしたら、その人がすぐに君達に辿り着いて警察につき出してくれるよ」

 「っ!」

 「あと選択肢があるとすれば……そうだなぁ、このまま何もせず逃げる事かな?」

 首を傾げニコッと笑いかけると、男達は悔しそうに歯噛みした。

 「ああちなみに、今こうやって腕を掴んでる所からも、君達のDNAが検出されちゃうかもよ?今は技術がだいぶ進歩してるみたいだからね」

 「「!!」」

 すると、両側の2人は慌てて碧乃の腕を離した。

 あー、やっと解放された。

 碧乃はゆっくりと立ち上がり膝辺りの埃をはらうと、自信に満ちた目で3人を射抜いた。

 「さぁ……どうする?このまま逃げれば、罪に問われる事はないかもよ?」

 「「っ……」」

 一気に形勢逆転。碧乃の勝利は確実だった。

 「~~~っっ!クソッ!!」

 「そうだ、逃げるなら私のスマホ返してからにしてね。じゃないと盗難届出しちゃうから」

 3人が走り出した所へ声をかけると、碧乃のスマホは苛立つままに倉庫の奥へと投げ捨てられた。

 「あっ!」

 スマホの行方を追っているうちに、男らはバタバタと姿を消した。

 「あー……」

 クズ共が。最後の最後に何してくれんのよ。



 「うーん、やっぱダメか」

 乱雑に置かれた物の中、スマホが落ちていった辺りを探ってみるも、暗くて何も分からなかった。

 灯りを持ってきて出直そうと諦め、近くの畳まれたマットの上へと腰をおろした。

 はぁ、疲れた。

 袖をまくり自分の腕を見てみると、両方の手首の辺りに、くっきりと手の形のアザが出来ていた。膝もうっすらと青くなっていた。

 あーあ。やっと谷崎に付けられたやつが消えたとこだったのになぁ。

 これも一応、自傷行為になるんだろうか?

 ……なるんだろうな。

 だって。

 これを見ると心が安らぐのだから。

 自分が痛めつけられている事が、傷がついているという事実が、どうしようもなく心地いい。

 『人間失格』である自分が、あるべき姿になった。そう思えるのだ。

 手首のアザを、うっそりと眺める。

 これだよ。これが、本当の私。

 「………………」

 私。

 わたし。

 …………。

 ………『私』って…………なに…?

 「…………ははっ。はははっ」

 歪んだ笑いが、込み上げる。

 笑うまま、碧乃は両手で顔を覆った。

 ……やっぱりこんな世界、大っ嫌い。

 こうでもしないと、私は『私』でいられない。

 この世界に『私』の居場所はない。

 本当の私を望んでくれる人もいない。

 いやだ、こんな世界。

 もういたくないよ…。



 †††


 森の奥から……ずるり、ずるりと、悪魔が這い出る。


 †††



 頭の中で悪魔が囁く。

 悪魔の息が、心を撫でる。

 「…………っ」

 いやだ。いやだ。

 私はそんな事したくないのに!

 この世界にいなきゃいけないのに!

 家族を悲しませちゃいけないの。周りの皆を苦しめちゃいけないの。

 どうして出てきちゃったの?

 なんで声を取り戻したの?

 「…………」

 …………あいつが壁を壊したからだ。

 碧乃の瞳に険が宿る。

 あいつが私に近付いたから。

 あいつが『普通』を壊したから。

 あいつが私を引きずり出すから。

 全部全部あいつのせい。あいつが全部悪いんだ。

 あいつが。あいつが。あいつが。あいつが。

 あいつあいつあいつあいつあいつあいつ…っ!

 苦しみが、痛みが、恨みが、悲しみが、ごちゃ混ぜになって全身を襲う。

 「…………………大っ嫌いだ…っ……バカ王子……っ…」



 真っ暗になりゆく倉庫の中、助けを求める小さな心は、静かに闇に沈んでいった。

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