緩やかに流れる時間を共に
カランカラン。
耳に心地良いベルの音を鳴らし、店内へ足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。ああ、碧乃ちゃん」
「こんにちは」
「こんにちは。もうずっとお待ちかねだよ」
「あー…あはは」
…でしょうね。
扉を開けた瞬間から、目をキラキラさせてお座りしている犬が目の端に写っていた。きっと開店早々から店に来て、今か今かとソワソワ待っていたのだろう。
中野さんにコーヒーを注文し、奥の席へと向かった。
碧乃は盛大なあくびに涙を滲ませながら、向かい側にドカリと腰を下ろした。完全な休日モードと寝不足が相まって、所作やら何やらが色々雑だ。普段の真面目モードしか知らない者が見たら、さぞかし驚く事だろう。
しかし目の前の犬は全く気にしていないらしく、嬉しさを全面に押し出していた。
「良かった。ちゃんと来てくれた」
「……来ないと思ってたの?」
「だ、だってメールちゃんと返してくれないから…」
「返したよ」
『知るか』って。その後に来たメールは完全無視したけど。
「あれじゃ分かる訳ないじゃんか!」
「ちゃんと『また明日』って書いてあげたでしょ?休みの日にまで時間気にして動きたくない」
相手はバカ犬なのだから、気を使うつもりなど毛頭ない。
「……」
「てか、そんな確証ない状態なのにずっと待ってたんだ?」
開店時間から2時間も。
碧乃は意地悪に微笑んでみせた。
「う…そ、それは…」
「つくづく馬鹿なんだねぇー」
「………馬鹿はやめて…」
「じゃあすごく良く言って、健気ってとこ?ああ、もしかして忠犬ハチ公でも目指してるの?今だったらなれるかもねぇー。頑張って」
「うぅ……もしかして…馬鹿にするために呼んだ…?」
「んな訳ないでしょ。そんなくだらない事のためにわざわざ出向かないから」
「じゃあなんで…」
「昨日、その顔にあれも訊きたいこれも訊きたいってデカデカと書いてあるのが見えて、あまりにも目障りだから聞いてあげようかと思ってね」
軽く指を差すと、小坂は慌てて両頬を手で押さえた。
「まぁ、私が確認したい事と一致してるだろうし 」
「え…?」
と、彼が瞬きを繰り返している隙に、碧乃はテーブルの上のノートを取り上げた。
「あっ!」
「ところで勉強は進んでるの?」
確認したい事の中には彼の勉強の進捗状況も含んでいた。
挑発に乗った彼の実力は如何ばかりか。
開かれていたページを見ると、試験範囲の半ばに差し掛かった辺りの問題を解いている所だった。
……意外にできてる。
「ふーん。まぁまぁ進んではいるんだねぇ」
「そりゃ、あんな言われ方したらやるしかなくなるだろ」
「ふっ、単純」
「っ!」
一通り目を通してノートを返した所で、またしても視界が潤んだ。
あー、ダメだ……あくび止まんない。
「なんか…酷そうだな、寝不足」
「ん?んー…まぁねぇ」
「大丈夫か?ってか、なんであんな事になったんだ?」
『あんな事』とは、昨日の教室での事を言っているのだろう。
「あー…それが私にもよく分かんないんだけどさぁー…」
騒ぎが起きた翌日の放課後、教室で三吉と藤野に勉強を教えていると、こちらをチラチラ見てくる視線に気付いた。どうせある事ない事話しているのだろうと最初は放っておいたのだが、何やら物言いたげにソワソワしている様子。いつまで経ってもそこにいるので、いい加減鬱陶しくなり嫌みを込めて『良かったらあなた達にも教えようか?』と笑顔で問うてみた。するとどうだろう。怖がって逃げるかと思いきや、なぜか目を輝かせて『良いの?!』と食い付いてきたのだ。正に昨日の小坂のように。
自分から言い出してしまった手前断る訳にもいかず、結局その生徒達にも教える事になった。
「…んで気付いたらああなってたんだよねぇー」
一体どう話を広めれば恐怖の対象であるはずの自分が囲まれるに至るのやら。
「気付いたらって……そうなる前に断ったりできなかったのか?」
「だって断っても次の日にまた寄ってくるんだもん。教えて解決しちゃった方が早く終わって楽だったの。そういうのはそっちの方がよく分かってるでしょ?」
この店に逃げ込むようになる程1人の時間を欲した彼なら、数多ある誘いを断り続ける事がいかに大変か嫌というほど分かっているはずだ。
「あ、ああ…まぁ…」
「全く、なんであんなに寄ってくるんだろねぇ?やっぱり怖いもの見たさって感じなのかな」
今や全校生徒が『小坂光毅に説教をした女』に注目しているのだ、その中に実際に接触してみたいと思う輩がいてもおかしくはない。
「…うーん…それだけじゃない気がするけど……」
「そう?まぁ別にどうでもいいよ。どうせ試験が終われば皆離れていくでしょ」
「……そうかな…」
「そうだよ」
『勉強を訊く』という口実がなくなれば、きっと誰も話しかけてこなくなるだろう。深く関わりたいと思う人はいないだろうし。
まぁ、私に一矢報いようと画策してるならまた別だけど。
「……」
「?」
何を懸念してるんだ、この人は…?
そこへ、中野さんがコーヒーを持ってやってきた。
「お待たせ。ご注文通り、カフェインが強めのコーヒーだよ」
「ありがとうございます」
目の前に置かれたカップからは、爽やかな香りが立ちのぼっていた。
「なんか…いつものと雰囲気というか、感じがちょっと違いますね」
「ああ、これはいつも飲んでくれているものよりも煎り方が浅いからね」
「え?浅く煎った方がカフェインが強いんですか?」
「そうだよ。コーヒー豆は煎れば煎るほど苦味が深まる分、カフェインの量は少なくなっていくんだよ。苦い方がカフェインが強いと思われがちだけどね」
「へぇー」
初めて知った。
「苦味は少ないけど酸味があって、豆の味が直に伝わるから、好き嫌いがかなりはっきり分かれるコーヒーだね」
「そうなんだ」
中野さんの話に引き込まれ、興味津々で早速一口飲んでみた。
酸味はあるがきつくはなく、香り同様爽やかな味だった。
「本当だ。飲むとすごくすっきりしますね、これ」
「飲めそうかい?」
「はい、おいしいです。ありがとうございます」
「そうかい。良かった。碧乃ちゃんは本当にコーヒーが好きなんだねぇ。どんどん色んなものを勧めたくなっちゃうよ」
中野さんは嬉しそうに言いながら、ホットサンドの乗った大きめの皿を碧乃の前に置いた。
「ふふ、是非お願いします…って、あれ?」
私これ頼んでないけど。
「お昼まだ食べてないだろう?好きなのは嬉しいが、あまり空腹の時に飲んではいけないよ。胃を痛めてしまうからね」
「あ…はい」
「光毅君もまだだったね。碧乃ちゃんも来たことだし、そろそろ食べるかい?」
「え?あ……じゃあ、ナポリタンで」
「はい。ちょっと待っててね」
「すいません、ありがとうございます」
カフェオレのおかわりも持ってくるねと言って、中野さんは小坂の前のカップを下げてカウンターへと戻っていった。
「相変わらず好きだねぇ、ナポリタン」
「いいだろ、うまいんだから」
まぁそうだけど。
香り爽やかなコーヒーをもう一口飲む。
…うん、おいしい。
やっぱりここのコーヒーは好きだ。好みにピッタリはまってくる。
ゆったりしたジャズ。癒しを与える香り。綺麗な琥珀色。
時間の流れを忘れ、煩わしい日常から切り離されたこの空間にしばし身を委ねる。
自然とこぼれるその笑みに魅入られた一対の瞳には、気付く事なく。
「……なぁ」
「…んー?」
酔いしれていた所を引き戻され視線を向けると、興味深そうにこちらを見ている小坂と目が合った。そしてなぜか、またしても顔を赤くされてしまった。
「??…何?」
「へっ?!…あっ、いや!えっと!な何だっけ?!」
「はい?」
話しかけたのそっちでしょうが。
「あ、そ、そだ!!そそそんなに、いつものやつと違うのか?それ」
「え?……うん、違う」
「へ、へぇー」
「……」
そんなに興味をひくような顔してたかな、私…?
「………一口飲んでみる?」
「え?!良いのか?」
「だって、そんなに見つめてたらこっちが気になるし」
彼の視線は、ずっと手元のコーヒーへと注がれていた。そんな熱視線を受けて放置している方が無理だ。
「で、でも苦いよな…?」
「いつものより苦くないよ」
はい、と差し出すと、小坂は恐る恐るカップを手に取った。
「…あ、ほ、本当だ!香りがなんか違う」
「好き嫌いはっきり分かれるって言ってたけど、案外それだと飲めたりしてね」
なぜか微妙に挙動不審な気がするが、まぁそれはどうでもいいか。
さてさて、反応はいかに。
目の前の彼はしばしコーヒーを見つめると、ゆっくりと口に運んでいった。
それを口に含んだ瞬間…。
「うげっ!?苦っっっ!!てか渋っっ!!!」
小坂はコーヒーカップを慌てて突っ返し、水を一気に飲み干した。
「あははは!やっぱダメだったかぁー」
「苦くないとか嘘じゃん!すっげー苦い!!」
「いつもよりはって言ったでしょ?」
「それになんか渋いし!斉川よく飲めるな」
「だっておいしいもん」
「あ゛ー、無理。全然コーヒーのうまさが分かんない」
「味覚は人それぞれだからねぇ」
「……まぁ得はしたけど…」
「ん?何?」
「いや!えっと!!カフェオレはうまいんだけどなぁーって!」
「ああ。んー…私にはそっちの方が無理」
「え?なんで?」
「あれいっつも砂糖何杯入れてるの?」
「えーっと…今日は4杯」
「…甘っ」
「だってカフェオレは甘い方がうまいだろ?」
「知らないよ。コーヒー屋に来てカフェオレ頼んだ事ないし」
「そうなの?あ!じゃあ次来たら飲んでみる?」
「いや、いい」
コーヒーはそのまま飲みたい。ってか、そんなに甘くされたら喉が焼ける。
程なくして、中野さんがナポリタンとカフェオレを置いていった。小坂に砂糖を入れる前ならと再度勧められ仕方なくカフェオレを飲んでみたが、やっぱりコーヒーはそのままがいいと思った。おいしいけれど、苦味が少ないのは何だか物足りなかった。
「……んで?次に訊きたい事は?」
一口かじったホットサンドを飲み込むと、小坂に話を促した。
今日一番聞きたかったのは、きっとこの話だろう。
「あ……じゃあ………三吉の事…なんだけど…」
「うん」
「あいつ、ってさ……あの、もしかして…圭佑の事…」
「そうだよ」
「え…」
あっさりと返ってきた答えに、小坂は軽く驚いた。
「その考えで間違いないよ」
本人は認めてないけどね。
そう言い放ち、碧乃はホットサンドを再びかじる。
「そう…なんだ……じ、じゃあやっぱり…三吉はもう…」
「うん。気付いてるね」
おそらく、山内の気持ちまで何もかも。
でなければ、昨日あんなに強気に攻撃を仕掛けるはずがない。
「残念ながら、そこに関しては協力できなかったって事だね。ごめんね」
「あ、いや…」
「まぁでも、最悪の結末は回避してあげたからいいよね」
「は?最悪の結末?何だよそれ?」
小坂の問いに、碧乃はクスリと笑みを見せた。
「…あんな可愛い子が相手だと、禁欲生活は大変そうだねぇー」
「え……」
「けどもう我慢が限界を突破する事はなくなったね。良かったねぇ。だって今の状態じゃあ、手を出すどころじゃないもんね」
「………じゃあ……昨日のあれって…」
「山内君の暴走の可能性を封じてあげたの。まさかあの子があそこまでやるとは思わなかったけどね」
「……」
「だから、萌花ちゃんの事絶対言っちゃだめだよ?せっかくの封印が解けちゃうから」
今の中途半端な状態で三吉の気持ちを聞いてしまったら、山内はほぼ確実に箍が外れて暴走を始めるだろう。それを自覚しているが故に、彼女を傷付ける事を怖れて避けるようになったのだから。
「山内君自身がちゃんと正面からぶつかっていくまで、見守っててあげてね」
「……………分かった…」
さすが親友。理解が早くて助かる。
「にしても、萌花ちゃんがあんなに嫉妬深い子だったとはねぇー。私を睨んでた時のあの目見た?久々に危機を感じたよ、あれは」
彼女の目はそれはそれは鋭く光っており、下手をすれば呪い殺されるのではと思う程だった。実は怒らせると一番怖いのは彼女であるに違いない。
「萌花ちゃんの方も結構限界が近いのかも。見守っててとは言ったけど、あんまり長くは待てないかもねぇー」
「……」
「全く…人には散々好き勝手やってくれたくせに、自分の事は全然ダメなんだね」
とんだヘタレだな、あの騎士は。
「ちょっと急かすくらいはした方がいいかな。……ああでも、そこら辺は協力者さんがやってくれるか」
「……え…」
「ん?なに?」
「き、協力者…って…?」
「いるんでしょ?…ものすごく有能な協力者さんが」
ニコリと笑いかけると、小坂は顔を引きつらせた。
「……なんで、それ……まさか…!」
「先輩とは鍵借りた時以来連絡すらとってないよ」
「じゃあ、なんで知ってたんだ?」
「知ってはいないよ。山内君が私の弱点がどうとか言ってたから分かっただけ。そんな事教えてくれる人1人しかいないからね」
「……」
「でもまさか、あの2人が繋がってたなんて」
どうやら自分は先輩に相当信用されてないらしい。
「…ちなみに、昨日は先輩と話したの?」
「あ、ああ。昼休みにちょっと…」
「なんだ。じゃあもう急かされてるか」
「え?」
「言われたんでしょ?それらしい事」
「え、あ……まぁ…」
「ならあとは、山内君が行動を起こすのみって事だね」
本当、先輩は頼りになる。きっとこちらの意図も全て分かってくれている事だろう。
「…………」
「…?どうかした?」
するとなぜか急に、目の前の彼は不機嫌さを露わにむすっとした顔を俯かせた。
何、いきなり?私なんか変な事言った?
「……斉川って…先輩の事よく分かってんだな」
「は?」
先輩?
「ああ、まぁ…そりゃあ、似た者同士だからね」
「……」
「それがどうかしたの?」
「…別に」
「??……あ、そう」
いいならいいけど……何なんだ?
…まぁ、触らぬ神になんとやらって言うし、放っとこ。神じゃなくて犬だけど。
持っていたホットサンドを食べ終えると、碧乃は大きく伸びをした。
「んーーっ、…さてと」
話も終わった事だし、そろそろ勉強始めるか。
「これ、あとあげる」
「…え、は?」
碧乃は、一切れ食べただけのホットサンドの皿を小坂の方へと押しやった。
「なんで?」
「あんまり食べたらお腹いっぱいで眠くなる」
「こんなんじゃ、いっぱいになんないだろ」
「私はなるの」
あんたと一緒にするな。
「はぁ?嘘だ、斉川別に少食じゃないじゃん。うちに来た時普通に食べてたんだから」
「食べようと思えば食べれるってだけ。普段はあんなに食べない」
「食べれるなら食べろよ」
「やだよ、眠くなる」
「眠くなるから食べないって、おかしいだろ」
「おかしくないから。少し空腹くらいの方が集中力が高まるの」
「だからって、毎回やることじゃないだろ?」
「やってないし」
毎回は。
「じゃあなんでそんなに細いんだよ?」
「知らないよ。ただの体質じゃない?」
「……絶対それだけじゃない気がする」
半眼で睨めつけられるも碧乃は飄々とそれをかわし、うんざりと頬杖をついた。
「てかどーでもいいでしょ、そんなこと」
いつまで続くの、この会話?面倒くさいんだけど。
「よくない!倒れたらどうすんだよ?」
「倒れないよ、これくらいじゃ」
少しくらい食べなくたって、死なないって。
「倒れるって!ただでさえ無理してんだから」
「っ、…誰のせいだと」
この状況作ったのあんただろ。
「!」
鋭くなった睨みに、目の前の彼は一瞬怯んだ。
「…ご、ごめん。それは本当ごめん!…でも、やっぱりちゃんと食べないと…」
「あーもーうるさいなぁー!分かったよ!食べるよ。食べればいいんでしょ食べれば」
本当、この人面倒くさい。
「じゃあそのかわり、寝ないように見張っててよ?」
「え……なんで?辛いなら少し休めば…」
「監視しててくれるって、前に言ったよね?」
「いや言ったけど、あれは…」
「言ったよねぇ?」
「……言いました…」
黒蛇の笑みの前で、蛙に勝ち目はなかった。
「…じゃあ見張っててやるから、ちゃんと食べろよ?」
「分かったよ」
しつこいなぁ。
どうあっても『諦める』という事を知らない彼にほとほと呆れつつ、押し戻されてきた皿に手を伸ばした。
†††
陽のやわらかな森の入り口で、少年は少女を見つけた。
お話するのが楽しくて。一緒にいるのも楽しくて。
少年はずっと一緒にいたいと思った。
しかし少女には秘密があった。
誰にも知られてはいけない秘密。
森の奥深くへ隠した秘密。
それを知ろうとしなければ、ずっとお話できたのに。
一緒にいても良かったのに。
森の中へ入ったりするから、少女は……。
†††
「………………ん………」
………あれ……?私、寝てた…?
「え、なんで…………あ」
壁に寄りかかっていた体を起こし向かい側を見ると、その犬は監視の目をぴったりと閉じ、ノートやら教科書やらを広げているテーブルに突っ伏して寝こけていた。
「……」
見張っとけって言ったのに…。あんたが寝てどうすんだ。
どうやら、勉強を始めてそれほど経たないうちに2人して寝入ってしまったらしい。
呆れ顔でしばし観察するも、一向に起きる気配はなかった。
優しく流れる音楽と共に、静かで規則正しい寝息が聞こえてくる。
「…………」
頬杖をついてぼんやりと、綺麗な寝顔を見つめる。
癒しすら感じる心地良いこの空間に、そっと息を吐き出した。
…………ここで一緒に過ごしてるだけなら……良かったんだけどなぁ………。
§
「……くん、…光毅くん」
優しく肩をトントンと叩かれ、ふわりと意識が浮上する。
…でもまだ眠い。
「んんー……もうちょっとぉー…」
「…それは構わないけど、あんまり遅いと恭子ちゃんが心配するんじゃないかい?」
「んー…?」
母さん?なんで母さんが…………あれ…そういや俺、何してたっけ?……確か…中野さんの店に来て………………。
「っっ!!?」
ガタンッ!バサバサバサッ…。
急速に舞い戻ってきた記憶にガバリと身を起こし、テーブルの上に置いていた勉強道具を派手に落としてしまった。
「おやおや。大丈夫かい?随分賑やかなお目覚めだねぇ」
「あっ、な、中野さん!すみませんっ」
側に立っていた中野さんは、にこやかな笑顔で落とした物を一緒に拾ってくれた。
「ありがとうございます…って!そうだ、斉川っ!」
慌てて向かい側の席を見やるも、そこに彼女の姿はなかった。
「あれっ?!中野さん、斉川は?!」
「ついさっき帰ったよ」
「帰ったぁ?!!」
俺を放ったらかしで?!
「なっ、なんでそん時起こしてくんなかったんですか!!」
「いやぁー、碧乃ちゃんが『起こしちゃ可哀想だ』って言うもんだからねぇ」
必死の訴えにも、のほほんと返されてしまった。
そこに優しさいらないよ、中野さんっ!!
「斉川いつ帰りました?!」
「そうだねぇ…、ほんの30分ほど前だったかな?」
30分。なら全速力で走れば追いつけるかも!
「俺も帰ります!すみません、いろいろ迷惑かけちゃって」
「いやいや。君達には随分楽しませてもらっているから、こちらとしても大歓迎だよ。またいつでもおいで」
「はい!ありがとうございます!」
中野さんの言葉に若干の引っ掛かりを感じるも、今はそんな事考えている暇はなかった。
早く追いつかないと!
バタバタと会計を済ませ、光毅は店を飛び出した。
後に残るは、お店の常連客らのこんなやりとり。
「いやぁー、若いねぇ」
「全くだ。青春てやつだね」
「昔を思い出すなぁー」
「だが、女に振り回されとるのは感心せんな。男はもっとどっしり構えんと」
「いいじゃないか。男なんて所詮、馬鹿な生き物なんだよ。振り回されるくらいが丁度いい」
「お?何だい、昔何かあったような口ぶりだねぇ」
「そりゃあー、私だって昔はいろいろあったさ」
「それにしても、あの子も大胆な事をするもんだね」
「ほんに。危うく笑い出す所だったわい」
「あの青年はいつ気付くかねぇ?」
「『駅に着く前』にコーヒー1杯」
「私は『電車に乗った後』かな」
「んじゃ俺は『家に着くまで気付かない』に1杯だな」
「こらこら、うちの大事なお客様を賭け事に使わないでおくれよ」
「よく言う。ノリノリで協力してたくせに」
「おや、そうだったかな?」
「中さんはどう思う?」
「どうせすぐ気付くに決まっておる」
「そうだねぇ………『家に着く一歩手前』、かねぇ…」
………追い付けなかった。
乱れた呼吸もそのままに駅の中をくまなく探してみるも、どこにも彼女はいなかった。
本当に30分前に出たのか?!いやでも、中野さんが嘘ついてるとは思えないし…。
同じ所を何度行き来してみても、結果が変わる事はなく。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所に居られるか…』
くっそ!電話も繋がらないし!なんでだ?まさか電源切られてる?!
スマホを睨み付け右往左往する様は、さながら不審者である。
どうしよう?怒ったのかなぁ?見張り失格で呆れちゃったとか?いやでも、電車に乗ってて電波がって事もあり得るし。
再び電話をかけてみる。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所に居られるか…』
またかよ?!あ、いや違う。ちょっとかけるのが速すぎたんだ。きっとそうだ!少し時間を置いて……。
『おかけになった電話は…』
うあーーー!やっぱり通じないーー!!
不審者は頭を抱え、悶える。
もう俺、本当馬鹿!なんであそこで寝ちゃったんだよ!?
まだまだ話したい事がいっぱいあったのに。伝えなきゃいけない事だっていっぱいあるのに。
こうなったら、会いに行く?家の場所知ってるし、押しかけちゃえばもう逃げられ…。
しかしそこで、彼女の家族が頭に浮かんだ。
…あー……いや、ダメだ。そんな事したら本気で怒られるし、また余計な負担をかけちゃうじゃんか。
自分のせいであの双子親子がまた騒ぎ出したら、それこそ彼女は倒れてしまう。
「んんーー……………」
考えに考え込んだ不審者は、出てきた結論に肩を落とすしかなかった。
「はぁぁぁー…」
……今日はもう…諦めるしかないか…。
ガックリとうなだれてスマホをポケットにしまい、仕方なく駅のホームへと足を引きずる。
「はぁ……」
あそこで寝たりしなければ、斉川に置いてかれる事はなかったかも知れないのに。
たまの質問のやりとり以外許される雰囲気ではなく、黙々と勉強を進めていると、本人の予告通り斉川は眠ってしまった。すぐに起こせと言われたが、とても疲れている様子の彼女を起こす気にはどうしてもなれず、少しだけならいいだろうと彼女の体をそっと壁にもたれさせた。そして寝顔を堪能しながら悶々と考え込んでいたら、いつの間にかこちらまで眠りの世界へと誘われていた。
「はぁー……」
何度も何度も、ため息が口から漏れ出ていく。
彼女に近づくために頑張っていたのに、まさかここで裏目に出るとは。
…明日また電話してみよう…。
落胆するままに待っていると、帰りの電車が到着した。重たい足をなんとか動かし、空いていた席に腰を下ろした。
扉は閉まり、電車は走り出す。
「………」
先程まで一緒にいた彼女の姿が、ふと甦る。
気だるさ全開で店に来た彼女は、コーヒーを口にすると、ゾクッとする程の色気をその目に宿した。微笑みに見とれてつい呼びかけてしまったあの時、色気にあてられ危うく心臓が止まる所だった。
……危なかった。あれはマジでヤバかった。
彼女が気だるさを纏っている時はむやみに話しかけないようにしようと堅く心に誓った。
次があったら、確実に引きずりこまれてしまう。
気をつけよう。
……………にしても。
つつ…、と自分の唇を親指でわずかになぞった。
…間接キスって、苦いのな………。
彼女の目をまともに見られなくなり手元の辺りを凝視していたら、思わぬ幸運が舞い込んできた。
苦かったり笑われたり散々ではあったが、あれは幸運だったのだ。誰が何と言おうと幸運だったのだ。幸運だったと思う事にしよう。
…って、なんか俺…気持ち悪い?
クスクス。
クスクスクス。
「…ねぇ、あれ見てよ」
「ふふ。やだ、かわいいー」
………ん?なんだ?
1人で百面相をしていると、斜め向かい側に座るOLらしき女性2人組が、何やら楽しく話しながらこちらをチラチラ見ていた。よくよく辺りを見回すと、なぜか他の乗客らも同じように視線を向けていた。
「?」
なんか、俺を見て笑ってる?…なんでだ?何か変なもんでもついてるのか?
頭や衣服をパタパタ触り、体をひねって背中なども確認してみる。
んん~?別に何もついてないよな……。
「あ!?」
あった!!
その何かは自分の体ではなく、持っていたかばんにくっついていた。
『魔法少女ピュアキラリン♪』
いかにも女の子向けアニメなタイトルと、主人公らしきヒラヒラキラキラな格好の女の子が描かれたハート型の派手なキーホルダーだった。
うわー!?何これ?!誰だよ、こんなんつけたの!
男である自分がこんなものを堂々とぶら下げていたら、イタい人間確定である。
慌ててそれを手で隠し、外そうと試みる。…が、しかし。
「なっ!」
は、外れねぇっ!?
それは紐で固く結びつけられており、引っ張ろうが何しようが緩める事すらできなかった。
マジか?!なんだよ!誰だよ、マジで!!
いつからだ?
確か店に行く前はついてなかったはず。家を出る時に忘れ物がないか何度もチェックしたから間違いない。
「え………あれ?」
ってことは………やったのは斉川?
じゃあ、これって…。
「もしかして…………仕返し?」
そういえば、小さい事をいっぱいとか言ってたよな…。
「…………」
キーホルダーをまじまじと見つめる。
…………なんか、思ってたのと違う。
仕返しって、もっとこう…怖いものかと思っていたのに。
なんだか拍子抜けしてしまった。
ドサリと座席の背もたれに寄りかかる。
なんだ…、小さい仕返しってこんなもんなのか。
これくらいなら、まぁ耐えられないものではない。…ちょっと恥ずかしくはあるけど。
じゃあ、このままにしておくか。
それで彼女の気が晴れるなら。
クスクス。
クスクスクス。
「…………」
……うん、やっぱりかなり恥ずかしい。早く駅に着いてくれ。
光毅は何でもない風を装いながら、辛抱強く到着するのを待った。
駅に到着するや否や、光毅は足早に電車を降り改札を抜けた。その間ずっと周囲の視線を集め続け、恥ずかしさのあまり、ついには走り出していた。女性からの注目には慣れていた光毅も、さすがに老若男女全てとなると逃げ出さずにはいられなかった。
あ゛ーっ!マジで恥ずかしい!!家に帰ったら即行で外してやる!
しかし、こういう時に限って邪魔者はいるもので。
「よくお似合いです。綺麗ですよ、光代さん」
「ありがとう~。でもやっぱり、ちょっと大胆に切りすぎちゃったんじゃないかしら?」
「そんな事ありませんよ。こうして風になびく様は、光代さんの美しさをより一層引き立てています。…街で会ったら、思わず声をかけてしまうだろうな」
言いながら、女性の髪をふわりと撫でる。
「まあ!瑛くんったら~」
「ああ、すみません。つい本音が」
「もう~。おだてても何も出ないわよ?」
「何を言ってるんですか。あなたが美しくなるためのお手伝いができただけで幸せなのに、これ以上ねだったらバチが当たってしまいますよ。…しかしそうだな、何か1つ願うとするなら……あなたと再び逢える奇跡、かな?」
「あら、お上手ねぇ~」
「またいつでもいらしてくださいね」
「ぜひお願いするわ!」
「…………」
……店前で客口説いてんじゃねぇよ、エロ美容師が。
悲しいかな、家までの最短距離を突っ切ろうと考えていたら、結局足がいつもの道を選んでいた。
今更引き返す訳にもいかないので、さりげなく他人を装い離れた所を通過しようと試みる。
だがしかし、見送りを終えた瑛にやっぱりバッチリ見つかってしまった。
「光毅おかえりー」
「…お、おー」
気付かれないよう、キーホルダーを隠し気味に返事をする。
「どうしたの?なんでそんな離れて歩いてるの?」
「あ?お、お前の邪魔しないようにだよ」
「僕?僕はただお客様をお見送りしてただけだよ?」
「見送る時まで口説いてんじゃねぇよ」
「えー?商売上手って言ってほしいな」
「あー、はいはい。んじゃ…」
「ところで光毅、それどうしたの?」
「!」
「なんか今日すごくかわいくなってるけど」
「…………」
……隠してたのに見えたのかよ…。
ぷぷっと笑いながら言う様に苛立ちを覚える。
このまま放っておくと余計な詮索をされるので、仕方なく質問に答える事にした。
「こ、これは知らない間につけられたんだよ!どうやっても取れないからしょうがなく…」
「え?そっち?違う違う。こっちだよ、こ・っ・ち」
キーホルダーを見せながら弁明したら、なぜか指摘が入った。
「……は?」
瑛は自分の頬をトントンと指していた。
………え?
「あ、やっぱり気付いてない?ちょっと待ってて。今鏡持ってくるから」
そう言って、瑛は店から手鏡を持ってきて光毅に手渡した。
思考が追いつかないままに、光毅は鏡を覗き込んだ。
そこには、頬に赤いキスマークと『俺様モテモテ!』という赤い文字がでかでかと書かれた自分の顔が写っていた。
「さいかわぁぁぁぁぁぁーーーっっ!!!」
「…んもー、うるさいなぁー。電話口で叫ばないでよ。耳が痛い」
鏡を見た瞬間羞恥と怒りが沸き起こり、即座に斉川に電話をかけていた。
「なんて事してくれてんだよっっ!!」
大恥かいたじゃんか!!
「えー?なんの事?」
「とぼけんな!!」
「ああ、あのキーホルダー?あれ妹がゲーセンで当てたんだけど、いらないからって私に…」
「ちっげーーよ!!俺の顔に落書きしただろ!?」
「あー、そっちね」
気だるげなままの返しに更に怒りがボコボコと沸いてくる。
「碧乃ちゃんも面白い事するよねぇー」
「あっ、こら!近付いてくんなっ!!」
電話に耳をくっつけてくる瑛の顔をグイグイ押し戻す。
「あれ?今の声って……確か、瑛さん?」
「そうだよー。やほー碧乃ちゃん、久しぶりー。覚えててくれて嬉しいな」
「だからくっつくなって!」
「瑛さんがいるって事は……え、もしかして電車降りるまでずっとその顔晒してたの?うーわ、恥ずかし」
「うるさい!それを言うなぁっ!!」
思い出しただけで死ぬからっっ!!!
「あはははは」
電話の向こうからは、何とも楽しそうな笑い声が聞こえてくる。これで電車に乗ってたどころか駅中歩き回ったと分かったら、更なる笑いをゲットする事間違いなしだ。
ぜっっったい言うものか!!
「いやぁー、本当期待を裏切らないよね。どう?周りの人みーんなから注目を浴びた気分は」
「最っ低に決まってんだろ!!」
「ふふ、それは良かった」
「良くねぇっっ!!」
何が最低って、中野さんやあの店にいた全員がこのイタズラに加担していたという事だ。今思えば、皆やけににこやかに自分を見ていた気がする。きっと気付いた時の反応を想像して楽しんでいたのだろう。とんだたぬき爺共だ。
あ゛ーっ、考えただけで腹が立つ!次行ったら絶対文句言ってやるからな!!
「っつーか、なんでスマホの電源切ってたんだよ?!何度も電話したのに!」
たぬき達が教えてくれていればというのもあるが、斉川がすんなり電話に出ていればもっと早く気付けたかも知れないのだ。悪意あっての行動としか思えない。
「へ?ああ、違うよ。切ってたんじゃなくて切れてたの。昨日充電し忘れてたら、いつの間にか死んでたんだよね」
「嘘つけ!」
「嘘じゃないよ。だって…」
「何だよ?!」
「…こんなに面白い電話がくるの分かってるのに、電源切る訳ないでしょ?」
「んなっ!?」
「ふふ。ねぇ?」
「くっ…!」
攻めるつもりが、逆に羞恥心を煽られてしまった。
「うわぁー、光毅の顔真っ赤になったー。あーでも、赤マジックで落書きされてるから元から赤いかぁー」
「お前はうるせぇっ!!」
「それじゃあ、お勉強頑張ってね。単純脳くん」
「は?!誰が単純脳…って、いやおい待てっ!まだ話は終わってな…」
ブツッ!…ツー、ツー…。
「なっ!」
切られたっっ!!?
くそっ!かけ直してやる!
『おかけになった電話は…』
おいぃぃぃーーーっ!!今度はマジで電源切りやがった!!
「こうなったら、本気で家に押しかけて…!」
「その顔で?」
「あぐっ!」
「全く…。だから単純脳って言われるんだよ?」
「ぐぬぬぬぬぬ……」
「僕を睨んでも意味ないでしょ。おいで、それ落としてあげるから」
瑛に促され、怒りが煮えたぎるまま店の中へと入っていった。
うがぁぁぁーーーっ!!絶対絶対絶対ぜぇっっったい見返してやるからなっ!!!覚えとけ斉川!!
「はい、準備できたよー。こっち向いて」
「あ?ああ…」
カシャッ!
「あきらてめえーーーっ!!」
「あははははは」
余談ですが、マジックと紐を用意したのは中野さんです(  ̄▽ ̄)




