怒りなんていらないのに
ピピピ、ピピピ、ピピピ…。
眠りの世界から強制的に引き戻され、重たい体をなんとか起こし不快な機械音を止めた。
いつもはアラームより先に目が覚めるのに、今日は鳴るまで完全に眠っていた。
やはり睡眠時間を削ったのが良くなかった。
ズキ、と軽く走った痛みに顔をしかめ額を押さえる。
…抑え過ぎた。
この頭痛は、苛立ちの度合いが大きかった事を示していた。睡眠不足に陥ったのも、そのせいだ。
苛立つものを無理矢理抑え込んだ反動で凄まじいまでの集中力が生じ、気付いた時には午前3時を過ぎていた。
怒りが生み出す力は、とてつもなく強いもののようだ。
「…………」
しかし、抑えているだけでは勉強に支障が出てしまう。それは決してあってはならない。
……なら、抑えずに済むよう消してしまえば良い。
碧乃は目を閉じてゆっくりと息を吸い込み、体の中にわだかまる感情もろとも全て吐き出した。
感情なんていう勉強の妨げでしかないものは、いらない。
息を吐き切ると、ゆっくりと目を開けた。その目には、もう何の感情も宿ってはいない。
…これでいい。
これで、周りの世界がどうなっていようと、何をされようと、もうどうでもいい。何が起きるかをきちんと想定しておけば、再び感情が宿る事はないだろう。もし想定外の事が起きても、なぜそうなったかを理解し納得してしまえば、自分の中には入ってこない。
勉強の邪魔は許さない。私にはそれしかないのだから。
あらゆる事を想定しつつ、碧乃は身仕度を始めた。
「おっはよー!お姉ちゃん!」
「おはよう」
「えっ…」
楽しそうに1階へ降りてきた陽乃は、碧乃の表情を見るなり顔を引きつらせた。
「え、嘘…もう普通に戻っちゃったの?」
「何が?」
「何がって、そりゃあ…」
「勉強の邪魔だから消した」
「は?!消した?」
こくっと頷くと、陽乃は大げさな動作で額を押さえた。
「あっちゃー!試験前なのがまずかったかぁー」
「一体何の話をしてるんだ?」
碧乃の隣で朝食を食べている父親が話に入ってきた。
「陽が勉強の邪魔してくるの」
「え!?」
「陽乃、またお前はそんな事を…」
「いや!ち、ちがっ!私は何も…」
「昨日、勉強中に部屋に入ってきて騒いでた」
碧乃の言葉に、父の目が陽乃を厳しく見据える。
「本当なのか?」
「う…そ、それは……」
目を泳がせる様子にため息をつくと、朝から説教が始まった。
「ごちそうさまでした」
2人の横を涼しい顔で通り抜け、碧乃は家を出ていった。
すっかり寒々しくなった街路樹を横目に駅へ向かい、電車に乗り込む。何もせずただただ流れる景色を眺めていると、頭が勝手に昨日の光景を思い出した。
『─────………』
『────……』
教室が静寂に満ちた後の、何対もの自分を凝視する目。
「…………」
碧乃は静かに息を吐き出す。
せっかく、普通の人間としての立場を確保していたのに。地味なまま過ごせていれば、自分が異常だと知られる事もなかったのに。
きっと今頃、学校では『小坂光毅に説教をした女』の話題で持ちきりなのだろう。
先日の写真騒ぎは偶然として処理されたが、今回はそうはいかない。きっと、女子生徒からは敵意を、男子生徒からは嫌悪を向けられるに違いない。なぜなら自分は、身分が卑しいにもかかわらず王子に辱めを与えた大罪人なのだから。
しかし、あのまま従うなんてできなかった。
今まで築き上げたものが一瞬で破壊された事が、どうしても許せなかった。
……普通を保っていられなくなったら、私は生きていけないのに。
「……っ」
ズキ、と鈍い痛みが走る。
再び宿りそうになった感情を、呼気と共に外へ追い出す。
…もう、いい。彼への怒りはもういらない。
悪いのは…私。悪気があってした事ではないのに、辱めを与えてしまった私が悪い。
反逆の罪は大きい。
おそらく、何かしらの罰は受ける事になるだろう。
でも、それでいい。そうであれば、犯した罪の大きさを思い知り、怒りが宿る事はなくなる。
そこでふと、心の中で笑みを漏らす。
……いっそ、楽しんでしまおう。谷崎の時のように。
自分がどのように痛め付けられるのか、少々興味が湧いてきた。勉強の邪魔だけはさせないが、それ以外ならどんなものでも受けようではないか。
せいぜい楽しませてもらうとしよう。
目的の駅が近付くにつれ、緑星高校の制服が目に入るようになってきた。
生徒達は皆、碧乃の存在に気付いた途端に目を見開き、距離を取りながらヒソヒソと話していた。
「……」
…別に堂々と話せばいいのに。
想定内の事なので大して気にもならず、ぼんやりと窓の外を見ていた。
電車を降り、学校までの道を歩く。
碧乃が動きを見せるたび、周囲の空気がザワリと動く。
なんだか可笑しさが込み上げてきた。
「ふ…」
笑い出しそうになるのを抑え、なんとか無表情を保つ。
ここまでくると笑えてくるなぁ。
他人事のように考えながら到着し、靴を履き替え教室へ向かう。
教室の扉を開けたらきっと、視線が集中するのだろう。吹き出さないように注意しないと。
表情を引き締め、扉に手をかけると一気に引き開けた。
「っ……」
ザッ、と音が聞こえる程に、中の空気が一変する。
……やっぱりね。
込み上げる笑いを数回の瞬きでやり過ごした。
どうせ話しかける者はいないだろうと、平然と足を踏み入れようとしたその時。
「姐さん!おはようございますっ!!」
……………………ん?
§
「…とりあえず、お前はしばらく使いもんになんねぇから、あいつの身辺警護は俺に任せとけ」
「は?使いもんにならないってどういう事だよ?」
「こういう事だよ」
校門を通過した辺りで、圭佑は光毅から離れた。
「え?何やって…」
「小坂くーん!!」
「小坂君おはよー!」
「うおわっ?!」
あっという間に、光毅は女子の集団に囲まれた。
「昨日は大変だったねぇー!」
「大丈夫ー?」
「正座させられたって本当ー?!」
「え!あ、いや、えーっと…」
「んじゃ先行くぞー」
集団に呑まれあたふたしている光毅を置いて、圭佑は歩き出した。
「は?!ちょっ!おい!置いてくな!!」
「モテる男は大変だねぇー」
「おい、待て!!圭佑!!」
ニヤリとしながら手を振り、玄関へと向かった。
全く…あいつの周りはうるさくてかなわん。
呆れ顔で靴箱から靴を取り出す。
階段を登り自分の教室へ近付くにつれ、何やら騒がしい声が聞こえてきた。入口の辺りに人だかりができている。
「あーらら…」
こっちも囲まれてたか。
「…って、え?!」
よく見ると、斉川の隣に三吉が立っていた。人だかりの中には、この間排除した奴らもちゃっかり紛れている。
きっと斉川を助けようとして巻き込まれたのだろう。
焦る心を抑え、足早に入口に立った。
「お前ら、斉川囲って何やってんだ?」
圭佑の声に振り返った2人の表情は、明らかな困惑にかすかな怯えが混じっていた。
怯える表情は大嫌いだ。
途端に苛立ちが募る。
「あ、山内!なぁお前もそう思うだろ?」
「何がだ?」
「昨日の小坂、見ててせいせいしたよな」
「…は?」
せいせいしただと?
「あいつの大胆さにはお前も手を焼いてたもんなぁ」
「しかも無自覚ってのがたち悪いし」
「斉川に説教されたから、これからは大人しくなるんじゃね?」
「あんだけがっつりやられたら、俺なら立ち直れないね!」
それらの言葉は、光毅への妬みから発せられたもの。
今目の前にいるのは、つい昨日まで友達の皮を被っていた妬みの塊。
聞いてて吐き気がしてきた。
人とは怖いものだ。きっかけ1つで掌を簡単に返してしまう。
斉川と三吉がそれに気付かない訳がない。
…だからそんな顔してたのか。
「にしても昨日の斉川格好良かったよなー!」
「マジ『姐さん!』って感じ!」
「三吉もそう思うだろ?」
「姐さん、どこまでもついていきますっ!!」
当の本人は、今度は嫌悪に顔を歪めた。
これ以上触れさせちゃいけない。
「つーかお前ら邪魔。散れよ、入れねぇだろ」
圭佑はいつもより低めの声を発した。
「えー?別に散る必要は…」
「あ?」
まだ2人に絡もうとする奴を鋭く睨み付けた。
「ひっ!?」
「あ、も、もう席戻らないと!」
「え?何、どしたの?」
「いいからいいから!はい戻るよー!」
圭佑の睨みに反応した男共が人だかりを解散させ、2人を囲う者はいなくなった。
ため息をついて2人を見ると、斉川がじーっとこちらを見ていた。
「え、な、何?」
「……へぇ」
チラッと三吉を見やり散っていった男共を再び見ると、納得したように小さく漏らした。
「……」
今ので分かるとか鋭すぎだろ…。
「…あ」
ハッと何かに気付き、斉川は三吉に目を向けた。
「ごめんね、萌花ちゃん」
「え?」
突然の謝罪に三吉はキョトンとしている。
「…あれは聞きたくなかったね」
「!」
申し訳なさそうな笑みに、三吉は目を見開いた。
斉川の言う『あれ』とは、さっきの妬みの事だろう。三吉がああいう類に敏感な事を知っており、触れさせてしまった事に謝罪したようだ。こんな時でも自分より三吉を気遣うとは、やはり彼女は優し過ぎる。これも、卑屈さ故のものなのだろうか。
すると、珍しく三吉が眉を吊り上げた。
「んもうっ!碧乃ちゃん?!」
「!?」
「えっ!」
初めて見るその姿に、斉川と圭佑はビクッと反応した。
「今は私じゃなくて碧乃ちゃんの心配をする所でしょ?!」
「へ?!」
思わぬお叱りを食らい、斉川は目をパチクリさせた。
「……」
圭佑は唖然として三吉を見つめた。
彼女は、自分を大事にしないという斉川の危うさをいとも容易く見抜いてしまった。
やはり彼女の目はすごい。
……しかし。
プクッと頬を膨らませる三吉は、本気で怒っているのになんともいえず愛らしかった。怒った顔も可愛いなんて反則だ。
予想外の表情に、つい体が反応する。
あー、そのほっぺたつつきてぇー……って我慢だ、我慢。
動きそうになる手を握り込んで三吉から視線を外すと、斉川がふっと苦く微笑むのが見えた。
「うん…。ごめん」
「んもー」
三吉は怒りを収めると、圭佑に話しかけた。
「山内くん」
「!…な、なぁに?三吉ちゃん」
突然目が合った事に動揺するも、なんとか平静を装って笑顔を見せた。
「助けてくれてありがとう。私じゃ全然だめだったから、どうしようかと思っちゃった」
「っ…いや良いんだよ、そんなん。女の子が困ってんのを助けるのは当然でしょ?」
今の俺にその笑顔は酷です!!
疼く手を更に握り込む。抑えなければ、可愛さのあまり抱きついてしまいそうだ。
「大丈夫だった?斉川」
斉川を気遣う振りして、三吉から視線を外す。
「え?…う、うん。大丈夫だよ、ありがとう」
振りである事に気付いたらしく、斉川は笑わないように口元を手で隠した。
絶対心ん中で大笑いしてるだろ……。
「あれ、どうしたの?こんな所に突っ立って」
声のした方に振り向くと、登校してきた藤野が怪訝な表情で3人を見ていた。
「あ、那奈ちゃんおはよう。あのね、今碧乃ちゃんがね…」
「え!!碧乃っち何かされたの?!」
三吉が言い終わらないうちに、藤野は慌てて斉川に駆け寄った。
「何されたの?!大丈夫だった?!」
「あ、だ、大丈夫だよ。話しかけられただけで、何もされてないから」
「本当?!嫌な事言われてない?!」
「う、うん。私の悪口とかではなかったよ」
「本当に?!本当に大丈夫だった?!」
罪悪感に押し潰されそうな顔をする藤野に、斉川はふっと優しく笑いかけた。
「うん。大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
「…う、うん…大丈夫なら良いけど」
「……」
圭佑は斉川の笑顔にかすかに眉根を寄せた。
以前なら、昨日説教をしたばかりの藤野に笑顔を見せるなんてすごく優しい人なんだなと思っていただろう。実際、そこに偽りはないし。しかし光毅から話を聞いた今、その笑顔は相手との間に壁を作るためのものだと分かる。相手が自分に向ける感情を取り除いて、深く関わる事を阻止しているのだ。
いつも仲良くしている藤野にまでそんな事をするなんて…。
しかしそれは、三吉には通用しなかった。
「碧乃ちゃん」
「ん?」
「大丈夫じゃない時は、ちゃんと言わなきゃだめだからね?」
「「!」」
斉川と圭佑は、再び彼女の言葉に驚かされた。三吉は斉川の笑顔の裏を完全に見透かしていた。
しばし瞬きを繰り返した斉川は、観念したように苦く微笑んだ。
「うん。…分かった」
「よし!じゃあ碧乃っちの事は私が全力でお守りするね!」
拳を振り上げる藤野に、斉川はクスクスと可笑しそうに笑った。
「あ、ここ邪魔になっちゃうからもう行こ」
話が一段落した所で、三吉が斉川を席へと連れていった。
「…………」
離れていく三吉を見つめる圭佑の目が熱を帯びる。
やっぱりすごいよ、君は。
煩悩に負けそうになっている自分は、まだまだ彼女には見合わない。
……頑張ろ。
握り込んでいた手を開いて見つめると、再びキュッと握りしめた。
§
これは一体………どういう事?
授業の合間、理解できない状況に碧乃は頭を悩ませていた。
事あるごとに向けられる視線に、おかしなものが混じっているのだ。
不意にそれと視線を合わせると、『あ!』とか『ひゃっ!』なんて声を出して赤らむ顔をそらされる。
「……」
全くもって意味が分からない。
自分では処理しきれず山内に助言を求めようと後ろを振り向くと、またしてもそれと目が合ってしまい顔を赤くされてしまった。
「はぁ…」
思わず頭を抱え、ため息が漏れる。
「ん?どした、斉川?」
「なんなのあれ…」
「あれ?」
「あれ」
首を傾げる山内に、おかしなものを指差して示した。それは、顔を赤らめてあたふたしているクラスメイト達だった。性別は、どちらかというと女子が多め。
「あー、あれね」
ニヤリとしながら山内は頬杖をついた。
「あの反応はどういう事?」
「んー、なんつーか…斉川の格好良さに惚れちまったってとこかねぇ」
「……はぁ?」
碧乃は思い切り眉根を寄せた。
「全然意味が分かんないんだけど」
「だってお前、あんなにがっつり説教した後すぐに藤野に優しくしてただろ?恐くも優しいなんてギャップ見せられたら、ハートわし掴み確定じゃねぇか」
「………何言ってんの?」
「何って、事実を言ったまでですけど?」
「あれは那奈ちゃんが泣いて何度も謝ってくるから、そうしたんだよ。ちゃんと反省してくれたんだから、いつまでもそんな辛い顔させてられないでしょ?」
もう怒ってないよと笑いかけても全然泣き止まなかったから、彼女が落ち着くまでしばらく頭を撫で続けたりもした。
「それがすごいって言ってんの。あれだけの事を引き起こされたのにすぐに許せるなんて、普通はなかなかできないよ?」
「そうかなぁ?だって言う事言って、ちゃんと受け止めてもらえたら、もうそれで終わりで良いでしょ?いつまでも気にしていたくないし、気にしてほしくもない」
「いやぁー、全くもって男らしいねぇ」
「何、男らしいって…。こんなの別に普通でしょ?」
「普通じゃないからあんな反応になってんでしょうよ」
碧乃は再び頭を抱えた。
「うーん……全然分かんない。そりゃあ、元々魅力がある人がやればそうなるのかも知れないけど、こんな取っ付きにくい地味な人間がやったら普通引くよね?」
「斉川に魅力があったって事だろ」
「ないから、そんなの」
「素直に認めろよ、そこは」
「やだよ、気持ち悪い」
「……」
山内はしばし呆れると、再び口を開いた。
「つーか斉川の取っ付きにくさなんて、とっくの昔に払拭されてるけど」
「は?!」
思わぬ指摘に、碧乃は目を見開いた。
「藤野に絡まれてた時の斉川って感情むき出しだろ?しかもいい反応しちゃってるし。そんな一面見せてる間に『意外に可愛い奴』ってな扱いになってるぞ、お前」
「……」
なんだそれ。
『可愛い』という単語に虫酸が走る。
「私が可愛い訳ないでしょうが」
山内はため息をついて話を続けた。
「じゃあ訊くけど、最近クラスメイトとかからちょいちょい話しかけられるようになってたと思わん?」
「んー?…さぁ?」
首を捻って考えるも、何も思い浮かばない。
「さぁって…。落とし物拾ってくれたとか、授業で聞き逃した事を教えてって言われたりだとかあっただろ」
「ああ、まぁそれなら。でもそれって、ただの事務的な会話だよね?」
「取っ付きにくかったら、そんな会話すらしねーよ」
碧乃は目をしばたたくと、首を傾げた。
「………そうなの?」
「そうだよ。ついでに言うと、今のその仕草も可愛いとか思われてるからな?」
「………は?」
仕草?
「仕草って何?首を傾げるとかそういう事?」
「そうそう」
「………変態なの?」
「ちげーよ!俺は一般論を述べてるんだよ!」
「一般論で私が可愛いに至る訳がない」
「至ってんだからしょうがない」
「…馬鹿にしてんの?」
なんか聞いててイライラしてきた。
「してないから。はぁ…だめだこりゃ。俺じゃどうにもならん。あとはあいつに任せよ」
「は?何が?あいつに任せるって何?」
いきなり何を言ってるの?
「いやいやこっちの話。まぁとりあえず、あの子達はお前の潔さに惚れたって事だ。それくらいは理解しとけ」
「だから別に普通だって…」
「あー分かった分かった。普通にそれができちゃう斉川は格好良いですねー」
「……」
また馬鹿にされた。
「…もういい」
碧乃は苛立つままに前に向き直った。
後ろで渋い顔をされている事など知る由もなく。
昼休み。
「ねぇ、山内君」
「ん?なぁに、斉川?」
「……これは何?」
「何って、一緒にお昼食べようとしてんだけど?」
…そうじゃなくて。
「…なんでこの人がここにいるの?」
向かい側の山内に言いながら、碧乃は隣を指差した。
そこには集団から解放されたばかりの小坂が座っていた。
今碧乃は、教室の後ろの方で藤野、三吉、小坂、山内と共に4つくっつけた机を囲んでいた。席は、碧乃の隣に小坂、斜め横に藤野、向かい側に山内と三吉が座っていた。
いつものように3人で食べようとしていたら、山内が小坂を引き連れて無理矢理この配置に座らせたのだった。
「ちょっ…斉川、指差さないで…」
「差したくもなるでしょ、こんな状況」
「っ!」
キッと睨み付けると、小坂はシュンとうなだれた。
「……」
…めんどくさ。
放っといて山内との会話を続ける。
「一体何がしたい訳?」
昨日の今日なので、周囲からの視線を一点に集めている事は必至。さっきのおかしな視線も処理できていないのに、また注目を浴びるなんて事をされて苛立ちが募らない訳がない。
「いやぁー、2人には早く仲直りしてもらおうと思ってさー」
ちゃっかり三吉の隣を確保している山内は、ヘラヘラと苛立ちを助長するような笑みを浮かべた。
碧乃は山内の言葉を鼻で笑った。
「何言ってるの?仲直りも何も、元々この人との間に『仲』なんてものは存在してないけど」
「え?!!」
隣からガバッと動く気配を感じるも、視線は向けたくないのでそのまま放置。
「斉川…それさすがに光毅泣いちゃうよ?」
「別に事実を言っただけでしょ」
彼との間に存在するのは、教え子と家庭教師。犬とトレーナー。王子とおもちゃ。
この人を友達だなんて思った事は一度もない。
しかも、それらの関係も昨日で全て解消させた。
私とこの人はもう関係ない。
「で、でも…普通に会話してたよね?」
困ったように三吉が話に入ってきた。
「それは同じクラスにいたからだよ。そして話しかけてきたから。ただそれだけ。他に何があるっていうの?」
「碧乃ちゃん…」
「碧乃っち…小坂君本当に落ち込んじゃったよ?」
藤野は憐れむように小坂に目を向けた。
直接見ずとも、またうなだれているのが分かる。
「友達になると言われた事も言った事もないのに、勝手に仲が良いと位置付けてたこの人が悪い。落ち込んでようが、何してようが、私にはそんなのどうでもいい」
彼を気遣う気すら、もう起きない。
早くこの状況から脱したい。今思うのはただその事のみ。
「…てか、私もう怒ってないからね」
隣に聞かせつつ、山内に話しかける。
「さっきも言ったけど、言う事言って受け止めてくれたんだから、私はもうこの人を責めるつもりはないよ。ちゃんと反省してるみたいだし」
「あ、ああ。だから光毅の事も許してるかと思って…」
「それは違う」
ビクッと隣の気配が動く。
「もう怒ってはいないけど、昨日の言葉を取り消すつもりは毛頭ない」
碧乃は小坂を真っ直ぐに見据えた。
辛そうな小坂と視線がかち合う。
「!」
「あなたが私に深く関わるたび、必ず良くない事が起こる。それを阻止して何が悪い?迷惑を被るのはもうたくさん」
以前の関係には、もうならない。
これ以上何かが起こったら、私は生きていられない。
「お願いだから、拒絶しなかっただけ良しと思って」
「っ……」
反論を許さず言い放つと、小坂は顔を歪ませ俯いた。
「………うん…分かった」
「そう。…なら、もういい」
この話はこれで終わり。
まだ開けていない弁当箱を掴み、碧乃は席を立った。
「え!碧乃ちゃんどこ行くの?」
「この注目に耐えられないから、別の場所で食べてくる」
「あ、じ、じゃあ私達も一緒に…」
「ごめん……ちょっと1人にして」
三吉と藤野の表情を見る事なく、碧乃は教室の扉を抜けた。
さっきから頭がズキズキする。苛立つものが、追い出す事も抑える事もできずに、頭の奥にこびりついてしまった。
これでは勉強が頭に入らない。どこかで1人になって、綺麗に剥がしてしまわなければ。
1人になれる場所……。
誰も寄り付かない場所……。
「………あ」
ふとある場所を思い出し、廊下を歩く足を止めた。
先日からポケットに入れておくようになったスマホを取り出し、周囲がザワリと動くのも構わずメールを打った。
誰も付いてきていないのを確認し、碧乃は4階の廊下の突き当たりへ向かった。
遠くの方から、休み時間を過ごしている生徒達の声が聞こえる。授業以外で生徒がここに来る事はほとんどないので、今は静寂に満ちていた。
痛む頭にこの静寂はありがたい。
歩いていくと、美術準備室の前に1人の男子生徒が立っていた。
こちらの存在に気付くと、ふっと優しく笑いかけてくれた。
「お疲れ様です」
「…お疲れさまです。すみません、いきなりお願いしてしまって」
「いえ。……やはり必要になってしまいましたか」
小さくため息をつくと、田中は苦い笑みでそう言った。
「はい…」
碧乃も同じく苦笑いを浮かべる。
田中は、持っていた物をすっと碧乃に差し出した。
「どうぞ」
それは、美術準備室の鍵だった。
何代か前の美術部部長が、ここを密会場所にしようと勝手に合鍵を作り、それが密かに部長に代々受け継がれていた。この鍵の存在は、部長が信頼できると思った人にしか打ち明けられないので、美術部員であっても知る人は少ない。田中の代になってからは誰にも打ち明けず、完全に部長の秘密とされていた。しかし先日のあの一件でここを利用すべきと判断したため、先輩は碧乃に鍵の事を教えてくれた。その際に、必要であればいつでも貸すと言ってくれていたのだった。
「ありがとうござい…え!」
受け取ろうとしたらその鍵を高く持ち上げられ、手にする事ができなかった。
驚いて顔を上げると、先輩は厳しくこちらを見据えていた。
「くれぐれも…次は僕の言葉を無視しないように」
「!!」
『次』とは、1人ではどうにもならなくなった時の事を示していた。
「………は…はい…」
先輩怖いです……。
これから起こる事に対して楽しもうなどと思っていたなんて、口が裂けても言えない。絶対怒られる。
碧乃の承諾を聞き、先輩はふっと表情を和らげた。上げていた手を下ろし、碧乃に鍵を手渡す。
「それはあなたが持っていて下さい。僕が使う事はありませんから」
「あ…はい」
「どう使うかは、あなたの判断に任せます。1人の時間を確保するのも良いですし、小坂君とじっくり話し合う場所にしても構いません」
「え…?」
話し合う?
「で、でも…他人に教えちゃいけないんじゃ…」
「人目を気にしていては話せない事もあるでしょう?二度と関わりたくないからと抑えてしまうよりも、ぶつけてしまった方が楽になりますよ」
「……」
先輩にはやはり、全て読まれているようだ。
「……分かりました」
§
「はぁぁー……」
盛大なため息と共に、光毅は部屋の机に突っ伏した。
だめだ、全然やる気出ねぇ…。
顔の下になったノートを引っ張り出し、突っ伏したままパラパラと前のページをめくった。
そこには、前回勉強した時に多数入れられた書き込みがあった。小さくも読みやすい字が、ノートのとあるキーワードや文章と線で繋がれている。それは解説であったり、問題を解くコツであったり。ちょっと斜めになっているのは、向かい側からノートを横向きにして書き込んだから。
「…………」
今日は結局、昼休みのあの時以降は彼女に近付く事すらできずに1日が終わってしまった。
クラスメイトに捕まっていたというのもあるが、彼女自身が聞く耳を持つ気配すら見せてくれなかったのだ。
周囲の視線をなんとかしない限り、話しかけても絶対聞いてくれないだろう。かといって2人で話せる場所に行こうと誘っても、あの状態ではきっと拒否されてしまう。
ならばせめて、これ以上彼女を失望させないためにもと思って机に向かってみたのだが、やっぱり全くだめだった。
「はぁぁー………」
ノートをバタリと閉じ、再び盛大にため息をつく。
嫌われようと、覚悟したのに。
話ができなければ、それさえも叶わないじゃないか。
「っ……」
もどかしさに顔を歪め、掌をきつく握り込む。
もう二度と、君には触れない。
迷惑だって絶対かけない。
だから、俺の話を聞いて。
聞いてくれるだけでいいから。
それ以上は何も望まないから。
すると突然、ベッドに放り投げていたスマホからメールの着信音が鳴り出した。
「っっ!?」
ビクッと反応し、ベッドを振り返る。
LINEの通知音ではなく、メールの着信音。
自分にメールを送るのは、1人しかいない。
願いが……通じた…?
光毅は慌ててスマホを手に取り、メール画面を開いた。




