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『いつも通り』が消滅した日

 朝6時。鳴り出したアラームを止め大きく伸びをすると、碧乃はいつも通りに仕度をしてキッチンへ向かった。

 「あ、碧おはよー」

 「おはよう」

 先に来ていた母親の隣に立ち、自分と両親の弁当の準備を始めた。今日のおかずは、半分は自分が昨日作っておいたもの、もう半分は母親が今作ったものだ。だから今日の卵焼きはちょっと甘め。しかし甘いのにおいしいと感じてしまうから、母の料理はすごいと思う。これを食べるたび、自分の料理はまだまだだなと実感するのだ。恥ずかしくて本人には絶対言えないが。

 黙々と詰めていると、朝食の仕度をしながら母が話しかけてきた。

 「ねぇ碧ー、やっぱりだめ?」

 「……」

 …またその話か。

 部屋へと連行された夜、『好きにすれば』と力なく飴を取り出す様子にただならぬものを感じたらしく、母と妹は自分を攻めるのをピタリとやめた。そのため昨日は、とても平和で穏やかな1日を過ごす事ができていた。

 それなのに。

 まだ蒸し返す気なのか、この人は…?

 「だめ」

 「そっかー。残念」

 苦笑いでそう言うと、母親はその話を終わりにした。

 「……」

 ああ、なんだ…違うのか。

 どうやら今の一言は、諦めた事を示すためのものだったらしい。

 碧乃は、とりあえずではあるが、いつも通りの平和な朝を取り戻した。

 「やっばぁぁぁーーーい!!!宿題やるの忘れてたぁーーー!!!」

 「……」

 「……」

 いつも通り、2人は揃ってため息をついた。


 何事もなく登校し、何事もなく教室へ到着。碧乃は満足気に自分の席へ座った。

 精神的疲労も昨日で回復できたし、煩わしいものもなくなった。なんとも晴れやかな気分だった。これなら思う存分試験勉強ができる。

 …良かった。

 あとは落ち込み気味であろう小坂を立ち直らせるだけだ。

 調子に乗らないように立ち直らせるにはどうしたら良いかと考えていると、登校した山内が声をかけてきた。

 「おはよー」

 「おはよう」

 「もう調子は戻ったのか?」

 「……」

 相変わらず情報が早いなぁ。

 「大丈夫だよ。うちの2人も、もう何も言ってこないみたいだし」

 「え?そうなの?お前何したんだよ?」

 「何も。抵抗を放棄したらやめてくれた。やり過ぎたって思ったんじゃない?」

 「ふーん、そうなのか」

 「まぁ、何かのきっかけでまたうるさくしてきそうだけどね」

 そこでふと、大事な事を思い出した。

 「…ああ、そういえば」

 「?」

 山内にニコリと笑いかけた。

 「あの人今、家庭教師と付き合ってるんだってねぇ?」

 「!…え、あの…?」

 「一体どんな人なんだろうねぇ?山内君は知ってるの?知ってたら教えてほしいなぁー」

 「っ!?」

 ゆるりと三吉に視線をやりながら彼の答えを待った。

 「……………お…俺は、何も…知りません…」

 「ああ、そうなんだ。それは残念」

 青い顔に笑顔で返し、碧乃は前に向き直った。

 山内への牽制完了。

 真実の露呈は、何としても阻止しなくては。



 昼休み。碧乃は少々の後悔を抱きながらお弁当を食べていた。

 今目の前では、藤野と三吉が妄想談義を繰り広げていた。内容は田中先輩が碧乃に言いそうな台詞について。先輩の存在を知ってすぐ、2人は碧乃を質問攻めにしていた。しかし大して面白い事は聞けないと分かると、碧乃をよそに勝手に盛り上がる事にしたらしい。

 母親達と言い、この2人と言い、なんで皆こういった話が好きなのだろうか。

 …全くもって面倒くさい。

 「『斉川さん、可愛いです』」

 「えー?『可愛い』はちょっと違う気がするなぁー」

 藤野の放った台詞に三吉が添削をかける。

 「うーん、そっかー。じゃあ『綺麗です、斉川さん』とか?」

 「……」

 どっちも言う訳ないし…。

 一度盛り上がると止めようとしても無駄なので、心の中だけで突っ込みを入れる。

 「『綺麗』より『美しい』の方が似合いそうじゃない?」

 「あー!言いそう!『斉川さん、あなたはとても美しい』…どう碧乃っち?ドキッとした?」

 「しないから」

 むしろヒヤッとした。まぁ、当たるはずないけど。…ってか、こっちに振らないでよ。

 「むー、だめかぁー。いい線いったと思うんだけどなー」

 「……」

 いい線て何ですか…。

 「あ!じゃあこれは?」

 「……」

 まだ続くのか…。

 うんざり気味にお茶に口を付けつつ聞き流していると、藤野はくどい演技で言った。

 「『あなたが絵を描く姿は美しい』」

 「っ!!?…げほっ、げほっ!」

 衝撃の一言に、危うくお茶を吹き出す所だった。

 的中させたよ、この人!!

 「え、何その反応?」

 「…あ」

 しまった……。

 「碧乃ちゃん、今の言葉本当に言われたの?」

 「え!いっ、いい、言われてないよ!」

 全力で首を振るも、時すでに遅し。

 「嘘だ!!明らかに動揺してるし!」

 「いや、あの!今のは…」

 「やっぱり何かあったんだー!じゃないとこんな事言われないもん!」

 「うっ、な、何もないよ!」

 絵のモデルになった事は、2人には伏せていた。恥ずかしくて話したくなかったし、モデルの話をしたら最後、嘘がつけない自分はきっと谷崎の存在までばらしてしまうだろう。そう思って隠していたのに、まさかこんな事になろうとは。

 「碧乃っち!田中先輩と何があったの?!」

 「だからないって!」

 「嘘つかないの!」

 「つ、ついてないっ!」

 ああ、もう!!なんで反応しちゃったんだ!

 逃げようと立ち上がるも、すかさず藤野に抱きつかれ捕獲された。

 「逃げるなぁ!」

 「ひゃあ!?」

 「言え!言うんだ、碧乃っち!」

 「言わない!ってか本当に何もないから!」

 2人が期待するような事は何も!

 「んもー!言わないとー…こうだ!」

 藤野は碧乃のブレザーのボタンに手をかけた。

 「え!?ちょっ!何して──」

 「更衣室恒例ウエストチェーック!」

 「は?!え、嘘、やだよやめてよ!ってかここ更衣室じゃないし!恒例にした覚えもないし!」

 藤野の手を掴み引き剥がそうとするも、力の差で思うようにいかない。

 「だってー、これが一番反応良いんだもーん」

 「良いんだもーん、じゃないよ!!」


 §


 なんだよ……なんなんだよ、これ………!

 光毅は我が目を疑った。

 圭佑の言葉は本当だった。藤野が騒ぎ出した途端、クラスの男共の視線が一気に2人へと集中した。

 「おー始まった始まった」

 「今日は一段と激しいねぇー」

 「マジ、やべぇよな」

 「更衣室でいっつもあんな事してんのかよ」

 「ヤバ、俺ちょっと想像しちゃった」

 「俺もあれに混ざりてー」

 あちらこちらから聞こえてくる彼らの声に、光毅はギリッと歯噛みした。

 「……っ」

 やめろ…やめてくれ!そんな目で見るんじゃねぇ!

 自分の中に、怒りやら苦しみやらもどかしさやら、もうよく分からないものがドロドロと流れ込んできた。

 なんで今まで気付かなかったんだ。気付いていたら、もっと早く止めていたのに。

 こうなった元凶は完全に自分だ。

 こんなはずじゃなかった。誰にも見てほしくなかったのに。誰にも知ってほしくなかったのに。

 過去の自分を殴り飛ばしてやりたい。

 ちらほらと女子達の声も聞こえてきた。

 「またやってるよ、あの2人」

 「斉川さん、お気の毒ー」

 「実は注目浴びれて喜んでたりしてー」

 「私じゃなくて良かったー」

 「本当本当ー、こんな見世物になるとかマジやだ」

 「……くっ…!」

 白くなる程握りしめた拳が、怒りに震え始める。

 その怒りは、自分を含む全ての人間に向けたもの。

 止めなくては。原因を作った自分が終わらせなくては。

 ドロドロしたものが溢れるままに、光毅は勢いよく立ち上がった。


 §


 「やっ、やだやだ那奈ちゃん!本当やめて!!」

 「だったら全部白状しなさい!」

 「だから何もないってば!!萌花ちゃん、この人もう止めて!」

 助けを求めて三吉を見ると、いつもと違う顔をしていた。

 「え、あ、でも……私もその話、聞きたいなぁー」

 「えぇっ?!な、何言ってるの?!嘘でしょ萌花ちゃん?!」

 いつもは止めてくれるのに!!

 物欲しそうなその顔に、絶望と恐怖を感じた。

 まずい…!まずいまずいまずい!!このままじゃ全てが露呈してしまう!

 そう思った瞬間、誰かが自分から藤野を強引に引き剥がした。

 「っ!?」

 「わわっ!?え!こ、小坂君?!」

 碧乃の傍らに立つのは、鬼を宿した小坂だった。

 「藤野!お前もういい加減にしろよ!!どんだけ騒げば気が済むんだよ?!」

 小坂の迫力に一瞬怯むも、藤野は引く事をしなかった。

 「だ、だって碧乃っちが教えてくれないから」

 「斉川嫌がってんじゃねぇか!こんな事してまで聞く事ないだろ!」

 「あるもん!すごく大事な話してたんだから!」

 「何が大事な話だよ?!ただセクハラしたいだけじゃねぇか!」

 「違うよぉ!聞き出すためには必要だったの!こうでもしないと碧乃っち絶対言わないんだもん!いくら小坂君でも邪魔するなんて許さないー!!」

 再び碧乃を捕まえようとするも、小坂がそれを阻んだ。

 「だからやめろって!!」

 「やだ!小坂君こそやめてよ!関係ないでしょ?!」

 「なにぃ?!」

 2人は鋭く睨み合った。

 「……」

 完全に口論と化したやり取りを見ながら、碧乃は戸惑う頭でなんとか筋書きを立てていた。

 今この場で起きている事は、小坂が自分を憐れんだが故のもの。優しい性格の彼が、耐え切れず止めに入ってくれた。ただそれだけ。

 そう、それだけだ。自分と彼の間には、クラスメイト以上の関係なんてありはしない。絶対に。

 …よし、大丈夫。この理由で乗り切れる。騒ぎになんて発展させない。発展させてなるものか。

 しかしその思いは、次の瞬間粉々に砕け散った。

 「…ああ、そうかよ。なら…」

 一歩も引かない藤野に、小坂の怒りは頂点に達した。

 「えっ何?!」

 碧乃をぐいっと引き寄せそして、後ろからその胸に抱き込んだ。

 「こいつは俺がもらう。お前がやめるって言うまで離さない」

 「っっ!!!?」

 「え!嘘?!小坂君?!」

 想定を遥かに超える事態に、碧乃の思考は停止した。

 回復の間もなく、耳をつんざく程の悲鳴が教室中を埋め尽くした。

 「きゃあーーーー!!嘘でしょ小坂君?!」

 「いやぁーーーー!!今すぐ離れてーーー!!」

 「もらうってどういう事?!」

 「斉川さん羨ましーーー!!」

 「私と代わってーーー!!」

 「え?…え?」

 碧乃を抱き込んだまま、戸惑いを露わに小坂は周りを見回した。

 今やクラスメイト全員が、碧乃と小坂に注目を浴びせていた。

 女子達の悲鳴に混じって、男子の野次も飛んでくる。

 「おい小坂、止めんなよー」

 「そーだそーだ、続き見せろー」

 「斉川もらって何する気だよー?」

 「1人で楽しむなんてずりーぞー」

 「はぁ?!何言ってんだよ?!お前らがそうやって変な目で見てるからだろ!!」

 あまりの言葉に再び怒りが込み上げ、小坂は彼らに応戦した。

 女子の悲鳴と、男子の野次と、小坂の応戦。鼓膜が破れんばかりの状況で、しかしながら碧乃の聴覚は何の音も捉えなくなった。

 「…………」

 ぼんやりと、目の前に広がる光景を目に写す。

 騒ぎの渦中にありながら、心の奥がすーっと冷えていくのを感じた。

 やっと…平和になったのに………もう少しで、『いつも通り』を取り戻せたのに………。

 どうして大人しくしていてくれないの?

 なんでいつも事を荒立てるの?

 迷惑かけても大丈夫とは言ったけど、これはさすがにやり過ぎだ。

 …………………………この……バカ王子が。

 ブツンと鈍い音をたて、碧乃の中で何かが切れた。

 「……はなして」

 さまざまな声が響き渡る中、俯くままに発された静かな声音がかろうじて彼の耳に届く。

 「え?何、斉川?なんか言った?」

 「離して」

 「は?やだよ!今離したらまた藤野に──」

 「…いいから離せぇぇっ!!!」

 誰もが想像し得なかった怒号に、教室はしんと静まり返った。

 驚愕の表情で立ち尽くす小坂の腕を振り払い、碧乃は少し距離を取った。制服を整え1つ深呼吸をすると、彼を真っ直ぐに見据えた。

 教室の皆が、碧乃の動きを凝視する。

 すっ、と彼のすぐ後ろを指差した。

 「そこに座って」

 碧乃が示したのは、教室の後ろの方にある開けた場所だった。

 「え…?あ、あの…」

 「座りなさい」

 「…はい…」

 恐怖する程の気迫に負け、小坂はその場所に正座した。

 「那奈ちゃんも」

 「あ!は、はいっ!」

 同じく立ち尽くしていた藤野も、慌てて小坂の隣に正座する。

 碧乃は2人の前に立ち腕を組むと、青ざめる顔を静かに見下ろした。

 「さて……どうして私が怒っているのか…あなたは分かる?」

 「……え…?」

 怯えた目が碧乃を見上げる。

 「あなたは今…何をした?」

 「………そ…それは…」

 感情が消え去った目を見る事ができず、小坂は再び下を向く。

 「ふ、藤野を止めて……斉川を…助けようと…」

 「それは分かってる。その点については感謝してるよ。ありがとう。でも、私が聞きたいのはそこじゃない。……あなたは私に何をした?」

 「あ…あの……それは…その…」

 「あれで解決できると思った?」

 「う……だ、だって…ああでもしないと、藤野が──」

 「見なさい、この状況を!」

 「っ!」

 「…あなたの行動はとても目立つの。一挙手一投足に皆が注目してる。それなのにあなたは、よく考えもせずに行動を起こした。そのせいで、もっと良くない結果を招いた」

 「……」

 「止めてくれた事には感謝する。けど、ちゃんと考えて動いてほしかった。こんな注目ほしくなかった」

 あなたは私の日常を破壊した。もう二度と取り戻す事はできない。

 「………す……すいません…でした」

 俯いて表情が見えないままに、小坂は頭を下げた。

 「分かったなら…もう二度と私に触らないで」

 その言葉に、ガバッと碧乃を振り仰いだ。

 「えっ?!そ──」

 「それだけの事をあなたはしたの。話しかけるなとまでは言わないから、大人しく承諾しなさい」

 「っ!!」

 揺らぐ事のない怒りに何も言い返せなくなり、小坂は唇を噛んで俯いた。

 「……っ……………………はい…」

 小さな返事を確認し、碧乃は藤野に目を向けた。

 「那奈ちゃんも」

 「!」

 それまで静かに話を聞いていた藤野の肩がビクッと跳ねる。

 「もっと程度をわきまえて」

 「あ……は、はい…。ごめんなさい…」

 2人が反省したのを見て取ると、碧乃は説教を終えた。

 「じゃあもう立って良いよ。2人共自分の席に戻って」

 碧乃に促され、2人はしずしずと席に戻っていった。

 チラッと周囲を一瞥すると、碧乃も元の席に座った。

 ……もう、どうにでもなってしまえ。

 昼休みが終わるまで、なんとも静かな時が流れた。


 §


 放課後。圭佑は教室の窓際辺りにできていた人だかりをかき分け、未だ抜け殻状態の光毅を引っ張り上げると、話しかけてくる生徒をかわして早々に学校を出た。

 駅へ向かいながら、他の生徒が寄って来ないのを確認して光毅に話しかけた。

 「あー…光毅、追い打ちをかけるようで悪いが、斉川から伝言」

 「……」

 「『1人で頑張って』…だと」

 「…………」

 「あれ…おい、おいおいおい!そっち電柱っ!」

 フラフラと進路を逸れていく光毅を、寸での所で引き戻した。

 こりゃ重症だな…。

 なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。

 「光毅……悪い。俺が間違ってた」

 「…………?」

 光毅の顔がわずかに上がる。

 「昨日のあれ、お前をけしかけるために言った。ごめん」

 「…なに?」

 ピタリと立ち止まり、彼の目に怒りが宿り始めた。

 うわ…怖……。

 思わず圭佑の目が泳ぐ。

 「いや、あの、えーとだな……」

 すると、何人かの女子生徒がこちらへ向かってくるのが見えた。

 「し、詳細は家で話す!今はとりあえず帰ろう、な?」

 「……」

 光毅を連れ、駅への道を急いだ。



 禍々しい視線を存分に受けつつ、圭佑は家へと帰り着いた。

 「話せ」

 部屋に入ると、待ち兼ねたように光毅が言い放った。

 「わ、分かったよ」

 ベッドの前にドカッと座り、話し始めた。光毅は扉の前から仁王立ちでこちらを睨んでいた。

 「な、なんつーか、その……ああ言えば、お前は藤野から斉川を奪い取って手元に置いとこうとするんじゃねぇかって…思って…」

 「……」

 「あわよくば公開告白なんて事をやらかしてくれりゃあ、案外断れなくて承諾してくれるかも知んないし?もしだめでも騒ぎを起こしたって事で嫌われて、あいつの頭の中はお前への怒りでいっぱいになるだろうし?どっちに転んでも、あいつはお前に関心を向けるだろうと思ってさぁー」

 「……」

 光毅から滲み出てきたどす黒いオーラが、圭佑の背筋を刺激する。

 ヤバイヤバイ!これマジでダメなやつだ!!

 鋭い視線を受け流そうと、おどけて頭に手をやった。

 「いやぁー、しかし参ったなー。あそこでまさかぶちギレられるとは思わんかった。公開告白が公開説教になっちまったなぁー、あはははは」

「………なにが『あはははは』だぁぁっ!!」

 凄まじい怒りを露わに、光毅は圭佑に掴みかかった。

 「ありゃー、やっぱりそうなっちゃう?」

 胸ぐらを掴まれ、ガクガクと揺すられた。

 「お前が余計な事するから、関係が悪化しちゃったじゃねぇか!!」

 「あーあー、だから悪かったってー」

 「悪かったで済むか!!」

 「だってしょうがないだろ?いつまでもあいつ野放しにしといて、また変なのが寄ってきたら困るじゃん」

 光毅の手がピタリと止まる。

 「………は?」

 「え?」

 「『また』?」

 「あ……」

 やべ………。

 「『また』って…どういう事だ?」

 「え?お、俺そんな事言った?気のせいじゃね…」

 言いながら思い切り目を泳がせた。

 「とぼけんな。おい、どういう事だよ?斉川になんかあったのか?」

 「いや、そんな、まさか…」

 「圭佑」

 「っ!……」

 どす黒いオーラと射殺す程の視線に囚われ、圭佑の顔から血の気が引いた。

 「言え」

 「っっだあーーー!!分かったよ!言うよ!こうなったら洗いざらい言ってやる!!」

 光毅の手を振りほどき、勢い付くままに谷崎の事をぶちまけた。


 §


 俺は……なんて馬鹿なんだ………。

 谷崎涼也の存在も、その男から与えられたであろう恐怖も、何一つ気付く事ができなかった。

 そしてこんな話を聞いてまで尚、田中という先輩に嫉妬心を抱いてしまう自分は、なんて幼稚な人間なんだろう。

 ほとほと自分が嫌になる。

 それなのに、彼女は自分と普通に接してくれようとしていた。おのれの欲を抑えられなかったばっかりに、彼女を危ない目に遭わせたのに。

 俺は嫌われて当然の人間だ…。

 「…あいつの様子がおかしかったのは、谷崎のせいでほぼ間違いない」

 「……」

 「だから早くしろって言ったんだ。それなのにお前はまだグズグズやろうとするから……。ならいっそ、嫌われてでもお前が側にいる方が安全だと思ったから、お前をけしかけたんだよ。周りへの牽制も兼ねてな」

 「………」

 「あぁー終わった!俺の人生マジで終わった」

 力なく座り込む光毅を前に、圭佑は頭を抱えた。

 「……え…?…なんで、お前の人生が終わるんだ…?」

 「斉川に言うなって脅されてたんだよ!言ったら三吉に俺の事ばらすって!」

 「な……なんで…そんな事…」

 「『私なんかのために誰かが心を痛める姿は見たくない』だと」

 「…え?」

 「あいつにとっては、自分が痛め付けられるより、そんな自分を知って傷付く人を見る方が辛いんだってさ」

 「そんな……!谷崎の事は完全に俺が…」

 「あーそうだよ!!もう全部お前が悪いよ!考えなしに動いたりするから、斉川がとばっちりを食らったんだ!…でもあいつは、お前を責めない。先輩も言ってたけど、あいつは優し過ぎるんだよ。憎んで良いはずの谷崎にまで憐れみを抱いてしまうくらいに」

 「!……」

 「次また誰かに狙われたら、周りに迷惑かけたくないからってあいつは、自分だけで解決しようとするはずだ。谷崎の時と同じように相手に情けをかけて、迷う事なく自分が辛くなる方を選んじまう。そんなの放っておいたら、あいついつか壊れるぞ」

 「っ……」

 光毅は痛みに顔を歪めた。

 俺のせいで…斉川が壊れる……。

 傷付けたくないと思っていたのに、自分の愚かで軽率な行動が、知らず知らずのうちに彼女を傷付けようとしていた。

 「今日の事だってそうだ。お前のやり過ぎた行動に対して怒っただけで、お前を嫌いになってない」

 「え、で、でも…二度と触るなって…」

 「それは、お前の大胆な行動のせいでまた騒ぎが起きるのを防ぐためだ。お前を拒絶した訳じゃない」

 「…そ…そうなのか……」

 圭佑は苦笑いで額を押さえた。

 「全く……、あれだけやっても嫌わないって、どんだけお人好しなんだよ」

 そこでふと、光毅は思い至った。

 「本当に、人間自体に興味がないんだ…」

 「は?なんだそれ?」

 圭佑が訝る表情をこちらに向けた。

 「あいつがそうやって言ってたんだよ。…きっと、興味がないから優しくできるんだ。俺と同じように」

 自分も、興味がないから『優しい人間』を演じていた。当たり障りのない関係に留めて、自分の領域に踏み込ませないために。

 「ふーん……なるほどな。…お前ら、そんなとこまで一緒だったのか」

 「……みたいだな」

 光毅は複雑な表情で頬を掻いた。

 嬉しいような、悲しいような…。

 「てことは…今あいつは、普通の人間的感覚を持ってないって事だな」

 「そ…そうなるのかな…。自分の事を人間失格だって言ってたし…。そんな事絶対ないのに」

 「……」

 圭佑はしばし考えると、真剣さを滲ませて光毅を見た。

 「光毅、お前が普通の人間に戻してやれ。お前があいつのおかげで戻れたように。斉川は人間失格なんかじゃない。俺も、あいつと話すようになってそれがよく分かった。今のままでいさせちゃだめだ。そんな卑屈な考えでいるから、あいつは自分に自信を持とうとしないし、自分を大事にしないんだよ」

 「けど…否定しようとしても、全然聞いてくれなかった」

 「何度も言い聞かせれば良い。自信を持たせる事ができれば、お前に心を開くかも知れない。そうすれば、何かが起きてもちゃんと相談してくれるようになる」

 「……」

 斉川に…自信を持たせる……。

 「まぁでも、最初は気持ち悪がって拒絶するだろうから、かなりの根気が必要だけどな」

 「う…」

 ニヤリと笑う顔に、光毅は眉根を寄せた。

 「谷崎の話を聞いて、もう嫌われる覚悟はできただろ?」

 「んー…まぁ、それは…」

 嫌われて当然だとは思ったけど…。

 「ならもう、『気持ち悪い』って存分に嫌われてしまえ。褒め続けてりゃ、いつか好意に転じるって」

 「そっか………分かった」

 光毅の中に、覚悟が生まれた。

 彼女が心を開くまで、自分は嫌われ続けよう。彼女を守るためにも。

 「よし!じゃあ俺はとりあえず、あいつの怒りを鎮めて関係修復に尽力してやる!」

 「…お前が引き起こしたようなもんなんだから、当たり前だろ」

 「分かってるよ!任しとけ!」

 「……」

 こいつに任すのいまいち不安…。

 「あ!その代わり、俺がばらしちゃった事黙っといてくれ!俺まだ死にたくない!」

 「……分かったよ」

 両手を合わせる圭佑を前に、光毅は深くため息をついた。


 §


 午後6時。苛立つものを抑え込み無理矢理勉強に集中していると、騒がしい足音が階段を登り、部屋の扉が勢いよく開いた。

 「お姉ちゃん?!なんで家にいるの?!光毅さんとの勉強は?!」

 「……」

 完全に無視して勉強を続ける。

 「何?!どしたの?!なんかあったの?!」

 陽乃はズカズカと部屋に入り、机に向かう碧乃を右から左から覗き込んだ。

 「っ……」

 鬱陶しさに苛立つも、碧乃は無視を貫く。

 「ねーねーどうしたの?何があったの?あ!もしかして喧嘩でもした?!」

 「……」

 シャープペンを握る手に、じわじわと怒りが込もっていく。

 「あれー?無視?ってことは図星?!」

 「……」

 「うっそー!!マジで?!いつの間に喧嘩する程の仲になってたのー?!もうー!それならそうと早く言ってよー!」

 「………」

 「そーかそーか!お姉ちゃんもついに人と関わる気になったのかぁ!」

 「…………っ」

 バンッとシャープペンを叩きつけるように立ち上がり、陽乃を射殺す程に睨み付けた。

 「これは早速お母さんにほうこ──ぐえっ!!」

 ポケットからスマホを取り出そうとした陽乃は、首根っこを掴まれ部屋の外に放り出された。

 「どわっ!?いたっ!」

 怒りのままに扉は閉められた。

 「……」

 陽乃はしばし扉を見つめると、ニヤリと笑みを浮かべた。

 「へぇー…。ここまで怒らせるなんて、光毅さんもやるねぇー」

 スマホを手に、ウキウキしながら自室へ入っていった。

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